錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

初の現代劇『海の若人』(その1)

2015-05-28 02:25:41 | 海の若人
「どや、ここらで一本、現代劇やってみいへんか?」
 と、東映製作本部長のマキノ光雄が錦之助の顔を見て言った。
「えっ、現代劇ですか?」
「そや、若者らしい青春もんや。ファンも望んどるみたいやないか」
 昭和29年11月下旬、東映京都撮影所でのことである。5月に『笛吹童子』が大ヒットして以来、撮影所や本社へ山のように届くファンからの投書の中に、「錦ちゃんをぜひ現代劇の主役に」という要望が目立つようになっていた。直接マキノあてに意見書や嘆願書のようなものを書いてくるファンもいた。マキノ光雄が東映の重役で企画の中枢にいること、錦之助に期待をかけ、スターとして育てていることをファンはよく知っていた。錦之助は、マキノの目から見ても、そんじょそこらにいない垢抜けした美男子で、都会的でモダンな若者だった。時代劇にだけ出演させておくのはもったいない。甘さと優しさをたたえた錦之助の顔は現代劇にも十分通用するとマキノは感じていた。
「現代劇なら大泉の撮影所で頼むわ。ここんとこ東京で撮った映画もパッとせえへんし、京都みたいにこっちも盛り上げなあかんと思っとるんや。錦ちゃんにも一肌脱いでもろうてな」
「ぼくも東京なら家から通えて都合がいいですけど……。でも、おやじさん、なんかイイ作品あるんですか」
「『平凡』の応募小説に面白いのがあるんや。商船学校の生徒を扱った壮大な海のドラマや」

 当時100万部を越える戦後最大の娯楽雑誌「平凡」は、歌と映画がメインの月刊誌であったが、誌上に連載される何篇かの小説も、映画会社が競って映画化権を奪い合うほどの人気があった。映画化が決まると「平凡」の方でも連載途中から映画の宣伝に協力し、小説の挿絵に出演スターの顔写真を入れて、前評判をあおっていた。
 マキノが言う応募小説というのは、「平凡」の昭和30年1月号(前年11月中頃発行)に連載が始まった「海の若人」である。作者はプロの流行作家ではなく、ペンネームが鬼怒川公望という無名の新人で、これは後で判明するのだが、東京商船大学の教官・茂在寅男(もざいとらお)が映画のプロットライター・川崎治雄の助けを借りて書いたものであった。
 茂在寅男(1914~2013)は、後年、航海計器の技術開発と水中考古学の研究で世界的に有名な学者となり、その著作も学術書から一般書まで数多い。彼は、20歳の頃、日本初と言われる自家製ヨットで故郷の茨城県筑波町の鬼怒川から東京湾まで航行した経験があり、それで鬼怒川公望というペンネームを使ったようだ。昭和13年、東京高等商船学校を卒業後、航海士を経て、戦後は新制の国立東京商船大学で教えながら船の計器の研究開発をしていた。その合間に手慰みで書いたのが、青春小説「海の若人」だった。商船学校での寮生活と海での演習を描いた自伝的な小説で、石坂洋次郎の「青い山脈」の海洋版といったものだった。
 マキノ光雄は、彼の参謀役であった企画本部長の坪井与(あたえ)から「平凡」に掲載することが決まった「海の若人」の話を聞き、ピンと閃いて、すぐに指示を出した。版元の平凡出版と交渉させ、原作の映画化権を取らせると、早速錦之助にその話をもちかけたのである。
 昭和29年12月には、東映本社で企画会議を開き、錦之助主演、東映東京の若手俳優たちを使って、大泉撮影所で製作することを決定した。プロデューサーは坪井与、その補佐には、昭和29年秋に東映企画部に入ってしばらく研修を続けていた小川三喜雄をあてた。錦之助の一歳上の兄である。彼が本格的に映画製作に関わる初めての仕事であった。
 脚本は舟橋和郎に依頼した。作家舟橋聖一の弟で、脚本家八木保太郎の指導を受けて、戦後頭角を現わし、『きけ、わだつみの声』(昭和25年 東横映画)の脚本を手がけ注目を浴びた。以来、東映とも関係の深いシナリオライターであった。錦之助映画では、『八百屋お七 ふり袖月夜』、『海の若人』とその次作『あばれ纏千両肌』が彼の脚本である。(つづく)



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