錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

『曽我兄弟 富士の夜襲』(その6)

2007-01-06 14:23:22 | 曽我兄弟
 母のいる曽我の屋敷を去り、十郎の家に戻って箱王が元服をする場面も印象的だった。母が箱王のために作った晴れ着と養父が贈ってくれた刀が届いて、兄弟が喜び合った後、いよいよ箱王が五郎時致(ときむね)になる。
 ここでは、錦之助得意の「変身」が見られる。あの「稚児さんルック」から、髪型も衣装もすっかり変え、見違えるような若武者になるのだ。二人とも母の作った晴れ着に着替えるのだが、千代之介の方は薄緑色の着物に、錦之助は小豆色の地に白い大きな模様のある着物に着替え、再登場する。錦之助はメークも変え、本当にカッコいい姿に様変わりする。
 千代之介が名前をどうするのかと尋ねると、錦之助は確かこんなセリフを言ったと思う。「兄上が十郎ですので、私は五郎にいたします。そして、幼き頃からなにかと目にかけていただいた北条時政公のお名前を一字頂戴して、時致(ときむね)と名乗ります」すると千代之介が「曽我五郎時致、うん、それは良い名前だ」と言う。ここから兄弟は、「兄上」「五郎」(または「時致」)と呼び合うことになるわけだ。

 これは子供の頃にも疑問に思っていたのだが、今なら「一郎」を長男、「二郎」を次男というように生まれた順番に名づけていくので、「十郎」が兄で「五郎」が弟というのは少し不思議に感じる。が、武士のミドル・ネームというべきこうした名前は、烏帽子親(えぼしおや、元服の立会人で名づけ親)と相談して決めたようで、尊敬する有名人や縁者の名前を取って適当に付けたのだろう。『反逆児』で錦之助が演じた岡崎三郎信康も、徳川家康の長男なのに「三郎」だった。
 もう一つ、五郎の元服の場面を見て疑問に思ったことは、突然、北条時政の名前が出てきたことだ。北条時政と言えば、源頼朝の妻になった北条政子の父で、頼朝のしゅうとに当たり、頼朝の死後、黒幕として鎌倉幕府の実権を握った人物である。北条時政は、この映画ではまったく登場せず、ただここでは名前だけ出てくるのだが、箱王が幼い頃世話になったようで、時政の名前を一字もらって時致と名乗ることにしたというのだ。ここも、時政と箱王の関係が分からず、やや不自然に感じた。(一昨日から『曾我物語』を拾い読みして、この疑問は判明したので、その点は次回に書くつもりである。)

 さて、元服が終わり、曽我兄弟はいよいよ仇敵・工藤祐経を討つために富士の裾野の狩場へと赴く。ここからは錦・千代コンビの名場面集といった感じである。付き添いの従者、団三郎(どうざぶろう)の原建策、鬼王の片岡栄次郎もなかなかの好演だった。
 この映画の名場面を挙げていくとキリがない。仇討ちのチャンバラ・シーンも見どころである。が、この辺は映画を観てもらうことにして、なんと言っても最大の見せ場は、捕らえられた五郎が頼朝の御前に引き出され、尋問されるラスト・シーンだった。
 頼朝の片岡千恵蔵も貫禄たっぷりで、渋い名演をしているが、錦之助の演技も最高に素晴らしい。自伝の中で、錦之助は試写で見てこの場面の千恵蔵の演技に感服したと書いているが、なかなかどうして錦之助も負けていなかった。
 仇討ちを果たした後の晴れがましさと誇りに満ちた若者の自信とがみなぎり、この場面の錦之助は見惚れるような演技をしていたと思う。とくに頼朝を諌める長ゼリフなど、そのセリフ回しといい、表情といい、千恵蔵を向こうにまわし、一歩も引けをとらない錦之助の気概があふれていた。
 この時、錦之助は二十三歳、この若さにしてこんな見事な演技が出来たのだから、錦之助という天才役者の早熟ぶりには、ただただ驚くばかりである。(つづく)