――歌舞伎界の名門の錦之助が映画界に入り、美空ひばり主演の『ひよどり草紙』、それも美空ひばりのマネージプロの作品、美空ひばりの引き立て役として私が出演するようなものだとの非難が歌舞伎界の間に起ったのです。一門の中にもあからさまに、非難を公言する人が出て来たのです。」
と、自伝「ただひとすじに」には書かれている。
歌舞伎界にはまだ美空ひばりに対する蔑視と反感があった。歌舞伎界のトップにいる吉右衛門、女形の第一人者時蔵、また近年高い評価を得て看板役者になった勘三郎、この三人と血のつながりのある錦之助が、松竹製作の映画に出演するのならまだしも、まだ設立して二年かそこらでロクな映画も作っていない新芸プロの製作映画に、美空ひばりがごとき人気歌手の引き立て役に使われるのは、歌舞伎界の面汚しである。また、東京の歌舞伎界の若手たちにもこれではしめしがつかない。若手が映画界にどんどん引き抜かれたらどうするのだ。と、まあこういうことなのだろう。
新聞報道の後、松竹演劇部に抗議の声が相当届いたのではなかろうか。
そこで、松竹の幹部の方でも対応を協議し、一度は了解したことを打ち消して、時蔵へ翻意を申し入れた。いや、かなり強圧的な態度で錦之助の映画界入りを食い止めようとした。
従わないなら、錦之助の松竹在籍の身分を抹消する。そして二度と松竹に戻ることは許さない。
時蔵は、事態がこのように紛糾するとは思いもしなかったにちがいない。ひな夫人も同じだった。錦之助はもちろん、時蔵もひなも映画にしばらく出て、ある程度活躍したらまた歌舞伎界に戻って出直せば良い、と思っていた。その当てがはずれてしまったのである。
時蔵は苦慮した。ひなも松竹演劇部に日参して、錦之助の除籍だけはやめてほしいと要望した。が、その要望は通らなかった。
そうしたゴタゴタを知って、錦之助は三日三晩考え抜いて決断した。歌舞伎役者としての将来を諦めて、映画界に入り、これからはずっと映画俳優としての道を歩もう。まさに背水の陣をしいたのである。
錦之助は後年、歌舞伎役者で松竹の籍を抹消されて映画界入りしたのは自分が最初ではなかったかと語っている。大谷友衛門は、松竹の長年の仇敵とも言える東宝の映画に出演したのに、除籍にはならなかった。嵐鯉昇(北上弥太郎)も扇雀も鶴之助もみな最初は松竹在籍のまま映画界入りした。松本幸四郎もこの夏松竹映画「花の生涯」に主演したのは、大谷社長や松竹の勧めがあったからだ。それなのに、なぜ自分だけがそうした制裁を受けなければならないのだろう、と錦之助は思った。
歌舞伎といえば当時は松竹の独占興行でほぼすべての名のある歌舞伎役者を支配下に置いていた。東宝歌舞伎が戦後復活するのは昭和三十年七月で、それ以降は東宝専属の歌舞伎役者も増えていったが、錦之助が映画界入りする頃は松竹演劇部を除籍になることは、歌舞伎役者としての道を絶たれることを意味していた。
また、のちに、錦之助の映画界入りには父時蔵が大反対し、映画へ行くなら「二度と再び歌舞伎の舞台には戻らない覚悟で行け」と厳しく言われたことが、かえって愛の鞭となり結果的には良かったという話が広まり、美談化した。錦之助自身もそれを強調するようになった。しかし、これはもともと松竹側から出た回答で、時蔵は苦渋の選択を松竹に迫られ、錦之助に「それでもいいのか」と念を押したにすぎない。意地っ張りの錦之助は、自分に対するこの松竹の冷酷な仕打ちに憤激し、ついに開き直って映画入りを決断したというのが真相である。錦之助は、この時の意地を生涯貫き通し、二度と松竹に復帰せず、また歌舞伎役者にもならなかった。
と、自伝「ただひとすじに」には書かれている。
歌舞伎界にはまだ美空ひばりに対する蔑視と反感があった。歌舞伎界のトップにいる吉右衛門、女形の第一人者時蔵、また近年高い評価を得て看板役者になった勘三郎、この三人と血のつながりのある錦之助が、松竹製作の映画に出演するのならまだしも、まだ設立して二年かそこらでロクな映画も作っていない新芸プロの製作映画に、美空ひばりがごとき人気歌手の引き立て役に使われるのは、歌舞伎界の面汚しである。また、東京の歌舞伎界の若手たちにもこれではしめしがつかない。若手が映画界にどんどん引き抜かれたらどうするのだ。と、まあこういうことなのだろう。
新聞報道の後、松竹演劇部に抗議の声が相当届いたのではなかろうか。
そこで、松竹の幹部の方でも対応を協議し、一度は了解したことを打ち消して、時蔵へ翻意を申し入れた。いや、かなり強圧的な態度で錦之助の映画界入りを食い止めようとした。
従わないなら、錦之助の松竹在籍の身分を抹消する。そして二度と松竹に戻ることは許さない。
時蔵は、事態がこのように紛糾するとは思いもしなかったにちがいない。ひな夫人も同じだった。錦之助はもちろん、時蔵もひなも映画にしばらく出て、ある程度活躍したらまた歌舞伎界に戻って出直せば良い、と思っていた。その当てがはずれてしまったのである。
時蔵は苦慮した。ひなも松竹演劇部に日参して、錦之助の除籍だけはやめてほしいと要望した。が、その要望は通らなかった。
そうしたゴタゴタを知って、錦之助は三日三晩考え抜いて決断した。歌舞伎役者としての将来を諦めて、映画界に入り、これからはずっと映画俳優としての道を歩もう。まさに背水の陣をしいたのである。
錦之助は後年、歌舞伎役者で松竹の籍を抹消されて映画界入りしたのは自分が最初ではなかったかと語っている。大谷友衛門は、松竹の長年の仇敵とも言える東宝の映画に出演したのに、除籍にはならなかった。嵐鯉昇(北上弥太郎)も扇雀も鶴之助もみな最初は松竹在籍のまま映画界入りした。松本幸四郎もこの夏松竹映画「花の生涯」に主演したのは、大谷社長や松竹の勧めがあったからだ。それなのに、なぜ自分だけがそうした制裁を受けなければならないのだろう、と錦之助は思った。
歌舞伎といえば当時は松竹の独占興行でほぼすべての名のある歌舞伎役者を支配下に置いていた。東宝歌舞伎が戦後復活するのは昭和三十年七月で、それ以降は東宝専属の歌舞伎役者も増えていったが、錦之助が映画界入りする頃は松竹演劇部を除籍になることは、歌舞伎役者としての道を絶たれることを意味していた。
また、のちに、錦之助の映画界入りには父時蔵が大反対し、映画へ行くなら「二度と再び歌舞伎の舞台には戻らない覚悟で行け」と厳しく言われたことが、かえって愛の鞭となり結果的には良かったという話が広まり、美談化した。錦之助自身もそれを強調するようになった。しかし、これはもともと松竹側から出た回答で、時蔵は苦渋の選択を松竹に迫られ、錦之助に「それでもいいのか」と念を押したにすぎない。意地っ張りの錦之助は、自分に対するこの松竹の冷酷な仕打ちに憤激し、ついに開き直って映画入りを決断したというのが真相である。錦之助は、この時の意地を生涯貫き通し、二度と松竹に復帰せず、また歌舞伎役者にもならなかった。