錦之助ざんまい

時代劇のスーパースター中村錦之助(萬屋錦之介)の出演した映画について、感想や監督・共演者のことなどを書いていきます。

中村錦之助伝~映画界入り(その5)

2012-11-18 15:25:37 | 【錦之助伝】~映画デビュー
――歌舞伎界の名門の錦之助が映画界に入り、美空ひばり主演の『ひよどり草紙』、それも美空ひばりのマネージプロの作品、美空ひばりの引き立て役として私が出演するようなものだとの非難が歌舞伎界の間に起ったのです。一門の中にもあからさまに、非難を公言する人が出て来たのです。
 と、自伝「ただひとすじに」には書かれている。
 歌舞伎界にはまだ美空ひばりに対する蔑視と反感があった。歌舞伎界のトップにいる吉右衛門、女形の第一人者時蔵、また近年高い評価を得て看板役者になった勘三郎、この三人と血のつながりのある錦之助が、松竹製作の映画に出演するのならまだしも、まだ設立して二年かそこらでロクな映画も作っていない新芸プロの製作映画に、美空ひばりがごとき人気歌手の引き立て役に使われるのは、歌舞伎界の面汚しである。また、東京の歌舞伎界の若手たちにもこれではしめしがつかない。若手が映画界にどんどん引き抜かれたらどうするのだ。と、まあこういうことなのだろう。

 新聞報道の後、松竹演劇部に抗議の声が相当届いたのではなかろうか。
 そこで、松竹の幹部の方でも対応を協議し、一度は了解したことを打ち消して、時蔵へ翻意を申し入れた。いや、かなり強圧的な態度で錦之助の映画界入りを食い止めようとした。
 従わないなら、錦之助の松竹在籍の身分を抹消する。そして二度と松竹に戻ることは許さない。
 時蔵は、事態がこのように紛糾するとは思いもしなかったにちがいない。ひな夫人も同じだった。錦之助はもちろん、時蔵もひなも映画にしばらく出て、ある程度活躍したらまた歌舞伎界に戻って出直せば良い、と思っていた。その当てがはずれてしまったのである。
 時蔵は苦慮した。ひなも松竹演劇部に日参して、錦之助の除籍だけはやめてほしいと要望した。が、その要望は通らなかった。
 そうしたゴタゴタを知って、錦之助は三日三晩考え抜いて決断した。歌舞伎役者としての将来を諦めて、映画界に入り、これからはずっと映画俳優としての道を歩もう。まさに背水の陣をしいたのである。
 
 錦之助は後年、歌舞伎役者で松竹の籍を抹消されて映画界入りしたのは自分が最初ではなかったかと語っている。大谷友衛門は、松竹の長年の仇敵とも言える東宝の映画に出演したのに、除籍にはならなかった。嵐鯉昇(北上弥太郎)も扇雀も鶴之助もみな最初は松竹在籍のまま映画界入りした。松本幸四郎もこの夏松竹映画「花の生涯」に主演したのは、大谷社長や松竹の勧めがあったからだ。それなのに、なぜ自分だけがそうした制裁を受けなければならないのだろう、と錦之助は思った。
 歌舞伎といえば当時は松竹の独占興行でほぼすべての名のある歌舞伎役者を支配下に置いていた。東宝歌舞伎が戦後復活するのは昭和三十年七月で、それ以降は東宝専属の歌舞伎役者も増えていったが、錦之助が映画界入りする頃は松竹演劇部を除籍になることは、歌舞伎役者としての道を絶たれることを意味していた。
 また、のちに、錦之助の映画界入りには父時蔵が大反対し、映画へ行くなら「二度と再び歌舞伎の舞台には戻らない覚悟で行け」と厳しく言われたことが、かえって愛の鞭となり結果的には良かったという話が広まり、美談化した。錦之助自身もそれを強調するようになった。しかし、これはもともと松竹側から出た回答で、時蔵は苦渋の選択を松竹に迫られ、錦之助に「それでもいいのか」と念を押したにすぎない。意地っ張りの錦之助は、自分に対するこの松竹の冷酷な仕打ちに憤激し、ついに開き直って映画入りを決断したというのが真相である。錦之助は、この時の意地を生涯貫き通し、二度と松竹に復帰せず、また歌舞伎役者にもならなかった。



中村錦之助伝~映画界入り(その4)

2012-11-18 14:54:11 | 【錦之助伝】~映画デビュー
 錦之助はずっと映画に出てみたいと思っていた。だから、新芸プロから映画出演の話を聞いて喜び、その日のうちに自分一人で勝手に決めてしまった。もう二十歳になったし、自分のことは自分で決めたいと思ったのだろう。別に美空ひばりの相手役うんぬんということは、錦之助にとってそれほど重要なことではなかった。ひばりと共演すれば話題になるし、すぐに注目されスターになれるかもしれない――そんな思惑や打算は錦之助にはほとんどなかったと言ってよい。そして、「ひよどり草紙」のシノプシスを聞いて、自分の役が大変良い役であることに満足した。ひばりが主役だというが、相手役も主役みたいなものではないか。その役に自分を選んでくれた。そのことに錦之助は感激した。福島通人が言うように、「ケレンもカケヒキもない純真一途な青年」だったのである。

 福島通人は、興行界を渡り歩き、ひばりを見つけて大スターに育て上げただけあって、さすがにやり手だった。彼は明治四十二年生まれで、この時四十四歳、脂が乗って人生の最盛期にあった。人のいい田舎青年の本間を使って、二十歳の御曹司錦之助を単身呼び出し、一本釣りした。福島通人という人は、興行師に似合わず、身だしなみの良い貴公子然とした紳士で、しかも人当たりが良く、人望もあった。彼が錦之助のことをあまり気に入らなかったとしても、決断したのは彼である。福島は軽喜劇や歌謡界には通じていたが、歌舞伎には詳しくなかった。錦之助の舞台も見たことがなかった。そこで、旗一兵(彼は福島より二歳年上で、立教大学を出て新聞記者から吉本興業に引き抜かれ、その後新芸プロの製作に携わって脚本家になった)を頼り、歌舞伎ファンで若い本間の意見も入れて、錦之助に白羽の矢を立てたのだった。

 が、福島が決断する上で、何よりその後押しとなったのは、ひばりとその一家の錦之助に対する好感度であった。ひばりの妹の勢津子が語っているように、錦之助のブロマイドを見て、ひばりと母喜美枝が大変気に入ったことが最大のポイントで、錦之助の将来を左右する決め手となった。

 その日の夜遅く、家に帰って、映画出演を承諾してきたことを父と母に話した時、錦之助はひどく叱られたのではないかと思う。映画出演そのことより、そんな重要なことを親に相談もなく自分一人で勝手に決めてしまったことに時蔵もひなも大変腹を立てたにちがいない。しかし、いったんは怒った時蔵もひなも錦之助の決心の固さを知って、映画に出させてみようと思った。そこで、明日にでも松竹演劇部の幹部に話をして、了解だけ取っておかなければならないということになった。その役は、母のひなが引き受けることにした。日中は昼からずっと、時蔵と錦之助は歌舞伎座公演があって抜けられなかったからだ。伯父の吉右衛門には時蔵から話をすることになったのではなかろうか。錦之助は持ち帰ったシノプシスを母のひなに渡した。ひなはその晩、寝ながらそれを読んで、面白いと思った。錦之助が美空ひばりと映画で共演するかと思うと楽しみだった。

 翌日、ひなは松竹本社へ行って、幹部に面会を求め、錦之助の映画出演の話をした。舞台の方は当分休ませて、映画に専念させてやりたいと思っていることも話した。幹部はいい顔はしなかったが、渋々受け入れた。
 早速、ひなは新芸プロの社長福島通人に連絡して、出演料や契約のことについて話を聞いた。とりあえず一本、ひばりとの「ひよどり草紙」に出演してもらい、いずれ専属契約を結びましょうということになったと思われる。太っ腹の福島である。出演料は、扇雀や鶴之助の三十万円に、上乗せしてくれた。ひなは、歌昇と芝雀の襲名公演で出費が嵩んでいたので、ほっと一息ついた。
 時蔵の方は吉右衛門の了解を得た。吉右衛門は錦之助が映画に出たがっていたことは前から知っていたし、錦之助の性格もよく知っていたので、しばらく映画の方へ行ってもいいだろうと言ったのだと思う。吉右衛門は、なぜか不思議なのだが、美空ひばりの歌舞伎座公演(昭和二十七年四月二十八・二十九日)にも、賛成したという。ひばりが歌手で史上初めて歌舞伎座の舞台に出られたのも、松竹の大谷社長の鶴の一声があったからだが、大谷は、前もって吉右衛門にだけは相談した。その時、吉右衛門は「いいじゃないですか」と言ったそうである。ひばりの歌舞伎座公演は児童福祉のチャリティーショーであった。これは福島通人の発案で、歌舞伎座公演を実現するための遠謀深慮であった。それはともかく、大谷社長も吉右衛門も美空ひばりに偏見を持っていなかった。

 さて、その二、三日後、歌舞伎界の名女形時蔵の四男錦之助がひばりの「ひよどり草紙」に出演して銀幕入りするという記事が各新聞紙上に載った。新芸プロの福島の方から発表があって、それがすぐに記事になったのだった。
 すると、歌舞伎界内部のあちこちから非難の声が上がったのである。


中村錦之助伝~映画界入り(その3)

2012-11-16 11:32:43 | 【錦之助伝】~映画デビュー
 まず、ひばりの妹の佐藤勢津子はこう語っている。

――中村錦之助さんの写真を、姉と私たちは間坂の家のお茶の間で初めて見ました。家族全員が「可愛い~!」の一言。凛々しい錦兄のプロフィールに、姉はいっぺんで気に入った様子でした。

 これは、福島通人が錦之助に会って出演交渉する前のことだったと思われる。福島からもらった錦之助の写真を観て、ひばりと母喜美枝がオーケーを出し、それで福島は急いで本格的交渉に入ったにちがいない。
 その時ひばりと家族がみんなで見た錦之助のブロマイド、いわばお見合い写真が「姉・美空ひばりと私」(一九九二年十月発行 講談社)に載っているので、転載しておこう。



 錦之助が二十歳の頃の歌舞伎若手時代のブロマイドである。甘いマスクの、確かに若い女性が見たならば、うっとりと見惚れてしまうような写真である。
 その時、ひばりも母の喜美枝もぜひとも錦之助が出演している歌舞伎座の舞台を見たいと思ったのだろう。数日後、わざわざ暇をさいて、上演中の「明治零年」を見に行った。錦之助が新撰組の隊士をやっている芝居を、である。


「明治零年」の舞台 右端が錦之助(島田魁)

 この「明治零年」に出演した時の錦之助は、新聞でも取り上げられ、褒められた。錦之助が立役で初めて評価されたのだったが、これが歌舞伎界で飾る有終の美になろうとは公演の中日あたりまでは思わなかったであろう。
 ひばり母娘が歌舞伎座へいつ行ったのかは分からない。十一月はひばりが松竹大船で『お嬢さん社長』を撮り始める頃で、それがクランクインする前後のことだと思う。歌舞伎座公演は一日から二十六日までなので、その期間、それも後半だと思う。この時はすでに福島が錦之助との出演交渉を終え、ひばりの相手役に錦之助が決まっていた。

 ひばりと母喜美枝はわざわざ錦之助の楽屋を訪ねた。この頃ひばりは飛ぶ鳥落とすほどの大スターである。二人が表敬訪問するというのは異例のことだった。その時のことが、大下英治著「美空ひばり」(平成元年7月発行 新潮社)に書いてある。何を参照して、あるいは誰に取材して大下英治がこの部分を書いたのかは不明である。その後の「ひよどり草紙」撮影時のエピソードも出てくるが、区切りの良いところまで引用しておこう。

――共演が決まり、ひばりは、喜美枝といっしょに歌舞伎座に錦之助を訪ねた。たいていの共演者は、ひばりが挨拶に訪ねると恐縮するものだが、彼ははソッポをむいた。
 喜美枝は、引き揚げるとき、ひばりに吐き捨てるように言った。
「生意気な人だね」
 しかし、いざ撮影に入ると、おもしろいことばかり言って、ひばりを笑わせた。
 ひばりは、映画界の先輩として、歌舞伎界からやってきた彼に、メーキャップの仕方や、歩き方まで細かく教えた。
 そのあとで、ひばりと喜美枝は錦之助と撮影所の食堂でいっしょになった。
錦之助は、
「おれは、この世の中で苦手ってものがないけど、ひばりちゃんだけは、またく苦手だぜ。いろいろうるせぇしさ」
 そう言って、高笑いした。
 それまでの共演者であったら、「こんな失礼な共演者は、お断り」と、ひばりと喜美枝が硬化するところだ。が、あまりにもあけっぴろげな、カラッとして竹を割ったような錦之助の性格に、ひばりも喜美枝も、逆に好意を抱いてしまった。
 ひばりは、錦之助のことを「錦兄ィ」と呼び、慕うようになった。


 会話の部分は、大下英治の創作であると思うが、ひばり母娘が錦之助を気に入っていく過程はいかにもこんな感じだったのだろうと思わせる。ただし、ひばりが「錦兄ィ」と呼ぶのは、ずっと後年になってからで、このころは「ボンボン」と呼んでいたはずである。


「ひよどり草紙」美空ひばり、錦之助

 ひばり自身はこの頃の錦之助について、こんなことを語っている。(昭和29年11月発行「平凡スタアグラフ 中村錦之助集」)

――今度の相手役は歌舞伎の中村時蔵さんの息子さんですよ、といわれて、きっとコワイ方にちがいなワと、ひとりで想像しちゃったんです。ところが、歌舞伎座の楽屋で初めて会ったときから気軽でキサクないい人だなァ、と思っちゃった。

 美空ひばりが錦之助に好意を抱いていく過程は、ブロマイド、舞台の新撰組隊士、楽屋で本人との初対面、映画がクランクインしてからの撮影中ないし休み時間の付き合い、と四段階あった。そして、急上昇するようにエスカレートしていった。
 
 錦之助は、そんなひばりのことを最初どう思ったのであろうか。
 後年、錦之助はひばりとの対談でこんなことを言っている。(「平凡」昭和31年4月号)

錦之助―ひばりちゃんは、はじめて会った人から誤解されて、ぶってるとかなんとか云われるだろう?
ひばり―そうらしいわね。
錦之助―ぼくがそうだったんだ。(笑)ほら、はじめて歌舞伎座のおやじさん(時蔵)の部屋でひばりちゃんに会ったとき、なんだかぶってるし、ぼくも短気だから「なにおー」と思っちゃった。それで、白状するとネ、まだ時間があったけれど、「もう、顔をしますから」と云って、顔をこしらえに立ったんだ。(笑)
ひばり―こっちはこっちで、「なんてまあ、このひとは無愛想なんだろう」と思ったわ。(笑)
錦之助―ひばりちゃんはいいひとだな。つきあうと好きになる。


 大下英治が、錦之助は「ソッポを向いた」と書いているその真相は、こういうことだった。美空ひばりの「ぶってる」ポーズに、ちょっとムカッと来て、途中で話を切り上げ、顔を作る言って鏡に向かってしまったというわけだ。本当は照れくさかったのかもしれない。
 戻って、錦之助がひばりの主演映画に出ることに関して、歌舞伎界はどういった反発を示したのであろうか。




中村錦之助伝~映画界入り(その2)

2012-11-15 22:35:54 | 【錦之助伝】~映画デビュー
 十一月半ば、本間が楽屋に訪ねてきたその日の夜、錦之助は芝居がはねると、本間といっしょに料亭「ひろた」へ赴き、新芸プロ社長福島通人と製作部長の旗一兵に会った。
 挨拶をすませると、福島は単刀直入に、「美空ひばりの今度の映画に相手役としてぜひ出演していただきたいのですが」と言った。そのあとすぐ旗一兵が「こんな映画なんです」と言って、「ひよどり草紙」のシノプシス(梗概)を流麗な調子で朗読し始めた。
 錦之助は真剣に聞いていた。福島は錦之助が次第に目を輝かせていく様子を見て、これはイケルなと感じた。
 旗が読み終わると、福島は錦之助に、「どうでしょうか」と尋ねた。
 福島の紳士的な態度と熱心な説得に、錦之助もこの人なら信用できると思った。
 錦之助はニコッと笑って、「その映画に出演しましょう。だけど、歌舞伎の舞台と映画とでは、両立は困難だと思います。映画に出演する以上、舞台は当分棄て、門外漢のことでありますが、全力を尽くます。全部お任せします。どうぞよろしくお計らい下さい」と、きっぱりと言って頭を下げた。
 これで話はまとまったのである。

 前掲書「イカロスの翼」、錦之助の自伝「ただひとすじに」、福島通人のコメント「歯切れのよい快男子」(「平凡スタア・グラフ」昭和二十九年十一月号)を参考にして書くと、会談の様子は以上のようである。
 
 戻って、これは本間が錦之助に映画出演の話を持ちかける前のことなのだが、「イカロスの翼」では、本間はすでに時蔵とひな夫人に会って、根回しをしていたと書いている。そして、「時蔵は、一人ぐらい映画へ行ってもいいかも知れない、といった。(中略) ひな夫人が条件をつけた。中村扇雀、坂東鶴之助は映画一本に三十万円もらっていると聞く、それ以下にならないよう新芸術プロに話してもらいたい、というのであった」と続けているが、これは事実なのであろうか。話の順序が前後しているとしか私には思えないのである。錦之助の自伝「ただひとすじに」に書かれている内容とまったく食い違っているからだ。
「ただひとすじに」では、錦之助が映画出演を決めて帰ってきた日の翌日、母に話すと、「(母は)映画などとんでもないと完全に反対されました。その晩、母の口から父に話してもらったのですが、これが考慮の余地なく『映画なんて駄目だ!』と一言で、もう話を聞こうとしません」となっている。映画出演の話を時蔵とひな夫人が前もって知っていたとしたら、こうした反応はありえないことである。
 さらに言うと、錦之助の第二の自伝「あげ羽の蝶」では、同じ錦之助が書いているはずなのに、奇妙なことに「ただひとすじに」に書いた内容とまったく矛盾したことが書いてある。まず、福島との会談で、錦之助ははっきりと回答せずに、夜遅く家に帰ってきた。すると食卓では父が母の酌で酒を飲んでいて、その日のことを話すと、父は激怒した表情で錦之助を見ると間もなく二階へ上っていってしまった。母には今度は諦めないと錦之助は決意を語った。すると、母は錦之助の持ち帰ったシノプシスをその晩読んでから、次の日、松竹の演劇関係の重役に会いに行ってあげようと言った、というのだ。これだと、父の時蔵だけが錦之助の映画出演に反対の態度を取ったことになる。
 もしかすると、「ただひとすじに」の方はゴーストライターが書き、「あげ羽の蝶」は錦之助自身が書いたという気がしないでもない。が、いずれにしても、どちらの本も出演交渉の経緯に関して、差し障りのあることは伏せて書いていることは確かだ。本間昭三郎という「花道」の記者のことも、錦之助の「あげ羽の蝶」では「新芸プロの使いの方」になっているし、出演料のことも一切書かれていない。
 が、もう今となっては真相は不明である。ただ、「イカロスの翼」の著者上前淳一郎は、錦之助の自伝を二冊とも読まずに、恐らく本間の話だけを聞き、推測をまじえて書いたことだけは確かなようだ。
 また、福島通人がコメントを寄せたのは、錦之助がスターになってからであり、スターを発掘した自慢と錦之助へのお世辞が多分に含まれている。福島は錦之助に会った第一印象をこう語っている。
歌舞伎の俳優らしくない服装と言動で、若いスポーツマンと会っているような爽やかさであった」「ケレンもカケヒキもなく、純真一途な青年らしさが溢れていた」、そして、「すぐに映画スターになれる、イケルな」と感じたのだという。
 しかし、「イカロスの翼」では、この時の錦之助に対する福島と旗の反応の違いを、こう書いている。

――錦之助が一人先に帰ってから、通人が渋面をつくった。
「あまりいい男じゃないな。下唇が厚すぎて、男の色気がない」

(中略)
 旗がとりなした。
「いや、あの目もとがいい。女の子に人気が出るよ」
 そうかな、とその場で起用が決まった。


 この部分は明らかに上前淳一郎の脚色であろう。もし本間昭三郎に話を聞いたにしても、こんなことまで言うはずがない。彼から本当は福島は錦之助がそれほど気に入らなかったと聞いたことを膨らませて書いたにちがいない。
 福島は早く相手役を決めなければならないと焦っていた。本間から錦之助が映画出演に乗り気であるという話を聞いて、実際にはもう会う前から、錦之助を説得して強引にでも承諾させようと思っていた。会ってみると、容姿の方は自分のイメージとは多少違っていたが、ハキハキした好青年で彼ならきっと大丈夫だろうと思って、錦之助に決めた。これが本当のところだと思う。
 福島通人とともに美空ひばりのマネージャーをずっと勤めていた嘉山登一郎は、著書「お嬢…ゴメン。誰も知らない美空ひばり」(平成二年六月発行 近代映画社)の中で、この時福島は錦之助にかなりの好印象を持ったと言って、こう書いている。

――「あれはいいよ。あれはいい俳優になる。おれたちと話したって、全然ものおじしないからな」
 福島は話し合いから戻ってくると、事務所の中を歩き回りながら、私たちに報告した。


 これは福島の側近の証言なので信憑性が高い。福島はどうやら錦之助の容姿よりも堂々とした態度の方が気に入ったようなのである。

 それよりも、美空ひばりと母の加藤喜美枝は、すでに相手役の候補として錦之助の話を福島通人から聞いていたはずである。この二人の意見を聞かずに、福島が独断で錦之助に映画出演の交渉をするといったことは考えられない。では、ひばり母娘は錦之助のことをどう思ったのだろうか。


中村錦之助伝~映画界入り(その1)

2012-11-15 15:13:45 | 【錦之助伝】~映画デビュー
 歌舞伎座の楽屋に雑誌「花道」(はなみち)の記者が錦之助を訪ねにきた。本間昭三郎という青年だった。本間は新潟から上京し、「花道」の記者になり、ずっと歌舞伎役者たちの取材をしていた。大の芝居好きだった。「花道」は歌舞伎専門の月刊誌で昭和二十三年創刊、昭和二十七年に一年休刊するが、昭和二十八年に復刊していた。編集は梨の花会という歌舞伎愛好家のグループだった。本間は吉右衛門や時蔵にもインタビューして好感を持たれ、それが縁で播磨屋一門とも知り合いになった。また、楽屋に出入するうちに同世代の若手役者たちとも友達になった。錦之助も半年ほど前から彼と付き合っていた。
 その本間が錦之助に思いがけない話を持ってきたのだった。
美空ひばり主演の今度の映画で相手役を探しているのだけれど、ひばりのプロダクションの社長に一度会ってみませんか」と本間は切り出した。もちろん、錦之助は美空ひばりに会ったことはなかったが、人気歌手で映画にも出演しているひばりのことは知っていた。美空ひばりは一年半ほど前に歌舞伎座で二日間だけだったが公演をしたことがあり、歌舞伎役者たちの間でも話題になった。が、役者たちの間では歌舞伎座の舞台を汚されたと言って、評判が悪かった。「舞台の板を削れ」と言う者さえいた。錦之助はそれほど目くじら立てて怒るほどのことでもないと思っていた。錦之助はひばりの歌も耳にしていたし、ひばりが北上弥太郎と時代劇で共演していることも知っていた。北上弥太郎は、関西歌舞伎のホープ嵐鯉昇だった。錦之助は大阪歌舞伎座で二、三度共演したこともあり、顔見知りだった。そして若手の歌舞伎役者の中ではいち早く映画界に本名でデビューし、人気を集めている。
 錦之助は美空ひばりの相手役候補に自分が上ったことに驚いた。ひばりが所属している新芸術プロダクション(新芸プロ)と、その社長の福島通人(つうじん)という名前を聞くのは初めてだった。映画は新芸プロ製作の時代劇で、吉川英治原作の「ひよどり草紙」だという。錦之助は、東映からの話の時と同様また断られるかもしれないと内心思いながら、その福島という人に会うだけ会ってみようかと思った。それで本間にオーケーした。
 ところで、なぜ、本間昭三郎という雑誌記者が錦之助にひばり主演の「ひよどり草紙」の話を持ちかけてきたのか。実は、松竹演劇部の某氏から新芸プロ社長福島通人に引き合わされ、ひばりの相手役に誰か歌舞伎の名門の御曹司で二十歳前後の容姿のいい若手役者を探して映画に出演するかどうか打診してくれと依頼されていたのだった。
 美空ひばりの主演映画「ひよどり草紙」の企画はすでに製作開始の一歩手前まで進んでいた。しかし、ひばりの相手役だけがまだ決まっていなかった。
 少しさかのぼって、企画の経緯をたどってみよう。この頃、美空ひばりは十六歳になり、色気も出てきて娘らしくなっていた。そこで、そろそろ映画の役も子供っぽい役ではなく、若い男に恋をしてそれが実るようなロマンスの主人公をやらせてみよういう企画が上った。が、現代劇ではリアルすぎる。夢のあるおとぎ話のような時代劇が良かろう。これは横浜国際劇場の時からずっとひばりのマネージャーを勤め、ひばりをスターに育て上げ、昭和二十六年五月に新芸術プロダクションを設立して今や社長の座にある福島通人のアイディアだった。昭和二十八年秋のことである。ちょうどこの頃、福島の遠縁にあたる旗一兵が新芸プロの製作部長をやっていて、福島が旗に何か良い作品はないかと相談すると、吉川英治の「ひよどり草紙」はどうかと提案した。「ひよどり草紙」は、吉川英治が「少女倶楽部」(大正十五年一月~昭和二年三月号)に連載した少女小説だった。
 朝廷から徳川家に賜った珍鳥紅ひよどりを江戸に護送する途中、曲者に襲われひよどりに逃げられてしまう。護送に当たった二人の武士は切腹を命じられる。そこで二人の武士の息子筧燿之助と娘玉水早苗がそれぞれ自分の父を救うためひよどりを探す旅に出て、曲者たちと戦いながら無事見つけて持ち帰る。その間に燿之助と早苗に愛が芽生えるという物語。メーテルリンクの「青い鳥」を趣向を変え、時代劇に潤色したような話だった。
 福島は大いに乗り気になり、それでこの企画は進んでいった。
「ひよどり草紙」は戦前にも二度映画化されているが、昭和二十七年、つまり前年にも映画になっていた。宝プロ製作、東映配給、監督加藤泰、主演は星美智子と江見渉(俊太郎)であった。この映画はそこそこヒットしたが、主役の二人が老けていた。二人は当時二十五歳と二十九歳だった。そこで今度は十六歳のひばりとピチピチした若い新人でやらせよう。製作は新芸プロ、配給は松竹で決まった。旗一兵はすぐに吉川英治に会い、原作権の承諾を得て、脚本を八住利雄に依頼した。
 ひばりにヒロイン早苗をやらせるにして、問題はひばりの相手役燿之助だった。時代劇だから歌舞伎の有望な若手役者にやらせるのが最適だということになったのだが、北上弥太郎は時代劇映画「山を守る兄弟」でひばりと共演したばかりである。この時、北上が兄で、ひばりは弟の少年役だった。それに北上はいろいろ女性との噂もあり、適していない。関西では扇雀雷蔵が候補に上った。福島はブロマイドを見て今一つピンと来なかった。歌舞伎にも詳しい旗は、東京の若手なら橋蔵か錦之助でしょうと言った。そこで、福島は早速松竹演劇部の知人に電話をかけた。その知人は自分が表立って動くわけにはいかないので、橋蔵と錦之助の二人と仲の良い、雑誌「花道」の記者を内密で福島に紹介した。それが本間昭二郎だったのである。
 歌舞伎座に近い料亭「ひろた」で本間は初めて福島通人に会った。旗一兵も同席していた。本間は映画「ひよどり草紙」の企画の話を聞かされ、福島から、ひばりの相手役に二十歳前後で容姿のいい人を探してくれないかと言われた。旗は橋蔵の名前を挙げた。が、本間の頭に真っ先に浮んだのは錦之助だった。

 以上のことは、上前淳一郎著「イカロスの翼 美空ひばり物語」(1978年11月発行 講談社)を参考に(彼は本間昭三郎自身に話を聞いたのだと思われる)、錦之助の側から私が既知のことを補足し、多少脚色をほどこして書いたことである。