『インセプション』の結末についての解釈が映画サイトの掲示板で二分しているのだそうだ。
え?と思う。
何故なら、自分が観る限り『インセプション』の結末の解釈は一つしかないからだ。
『インセプション』の結末、あれは夢である。
そうとしか解釈出来ない。
いくつか根拠はあるが、一番わかりやすいのは、数年ぶりに会ったはずの娘たちが、主人公コブの記憶の中にある姿のままだった、という点だ。
これは現実的にはありえない。
ただ、何故多くの人が『インセプション』の結末を現実だと解釈したのかは、何となくわかる。
それは、『インセプション』の結末が夢だとすると、あまりにコブは救われないからだ。
だからこそ、純粋にハッピーエンドと言える結末を無意識に選択したのではないだろうか。
だとすれば、真実を見抜いた人間よりも真実を見抜けなかった人間の方が上等といえるのではないか。
そう考えると、一瞬たりとも結末の解釈を迷わなかった自分がひどく冷酷な人間に思える。
まぁ実際そうなんだけど。
え?と思う。
何故なら、自分が観る限り『インセプション』の結末の解釈は一つしかないからだ。
『インセプション』の結末、あれは夢である。
そうとしか解釈出来ない。
いくつか根拠はあるが、一番わかりやすいのは、数年ぶりに会ったはずの娘たちが、主人公コブの記憶の中にある姿のままだった、という点だ。
これは現実的にはありえない。
ただ、何故多くの人が『インセプション』の結末を現実だと解釈したのかは、何となくわかる。
それは、『インセプション』の結末が夢だとすると、あまりにコブは救われないからだ。
だからこそ、純粋にハッピーエンドと言える結末を無意識に選択したのではないだろうか。
だとすれば、真実を見抜いた人間よりも真実を見抜けなかった人間の方が上等といえるのではないか。
そう考えると、一瞬たりとも結末の解釈を迷わなかった自分がひどく冷酷な人間に思える。
まぁ実際そうなんだけど。
>小夏さん
>たとえば、最初から最後まで、全てが夢オチって可能性もありかな。
それだとすべてはのび太の見ていた夢だった、というオチの『ドラえもん』みたいですね。笑。
>仮に夢だとしても彼にとってそれが現実ならそれはそれでいいや、と思考放棄しちゃったんですけど。
あの結末が夢でも現実でもどちらでもよい、そのことについて深く考えるのを放棄した、という小夏さんの考えもわからないではないです。
あれだけのことをやって結局現実の世界では報われなかった、というのはあまりにコブが救われませんから(それが正しい解釈であっても)。
自分でもたまに重箱の隅を突付くのが虚しくなるときがあります。
>幸太郎さん
本文で書いた理由以外に、あれぐらいの年齢の子供が、数年ぶりに再会した父親に微笑んでみせる、というのは不自然です。
あれはコブ自身の願望(つまり夢)であり、現実には起こりえないことだと思います。
普通だったら、怯えた表情を見せるか、ひどく驚くか、ともかく突然現れた父親をそのまま受け入れるということはないでしょう。
ただし、その演出に意味がないということはないと思います。
幸太郎さんを始め、多くの人が、冷静に考えれば明らかに間違っているにも関わらず、この作品をハッピーエンドだと解釈したのは、それこそノーラン監督が幸太郎さんたちに見せた“夢”なのですよ。
自分はそのことでノーラン監督への評価をさらに上げました。
やはり彼は只者ではないと思います。
私は、ラストで子供の声を聞いた主人公が名前を呼びながら
部屋から出て行くシーンで終わったものと考えてました。
それとコマの一瞬の揺らぎと合わさり、
なかなかいい結末の見せ方だなと思ってたのですが、
どうやら勝手に脳内変換していたようです。
歳が変わらない子供を見せていたとなると、
これは確実に夢だったわけで、
「結末は見る人に任せます」というスタンスは成り立ちません。
となるとコマの揺らぎの演出も意味がない。
制作者側のそういう意図だったのか、もしくはミスだったのか、
そのあたり追求したいですな。
たとえば、最初から最後まで、全てが夢オチって可能性もありかな。
心を病むコブ自身が他者にインセプションされていた可能性とか。
根拠は、エンドクレジット最後に例の音楽(キックの合図)が流れたこと。(流れたよね?)
あれは、インセプション任務完了時、コブに「起きろ~」の合図を送っている暗示。
・・・という解釈もあり?
まあ、自分の場合は、結果はどうあれコブ自身の心は癒されたわけで、仮に夢だとしても彼にとってそれが現実ならそれはそれでいいや、と思考放棄しちゃったんですけど。