スティーブン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を見ました。
年間五十本近く劇場まで映画を観に行っていますが、まだまだメジャーな作品で未見のものも多いのです。
で、見ての感想ですが、感動作としてよく出来てはいるが、逆に言えば美談過ぎる。おそらく『ビューティフル・マインド』(こちらも未見)などと一緒で、実話を元にしてはいても、そのエピソードの多くは創作なのでしょう。
一つわからないのは、スピルバーグが、なぜドイツ人であるシンドラーにアイルランド人であるリーアム・ニーソンを起用し、英語をしゃべらせたかってことでしょうか。
トム・クルーズが主役ってわけでもあるまいし、ドイツ人であるシンドラーはドイツ人の役者を起用し、ドイツ語をしゃべらせればいいんじゃないかって思いました。
まぁ完璧主義者であるスピルバーグのことだから、作品を完全にコントロールしたかったんでしょうね、例えシンドラーに英語をしゃべらせても。
本作はホロコーストについての映画なので、良い機会だから、差別についての自分の考えを述べたいと思います。
よく、差別をしてはいけない、などといいますよね。
でも自分に言わせれば、差別はいけないと言ってる人は大概差別に関して考察が足りていないんじゃないかって思います。
なぜなら差別という言葉自体には、いい意味も悪い意味もないのですから。
似たような言葉に独裁がありますよね。独裁だからといって悪政だとは限らないのですから、独裁者だからといって必ずしも否定されるべきではないはずですが、独裁者という言葉には常に負のイメージが付きまといます。
話を差別に戻すと、私たちが本当に忌むべきは、単なる差別ではなく、いわれのない差別です。いわれのないとは、つまり、本人が責任を取るいわれのない、という意味ですが。
差別をする観点に立っていえば、この地球上には七十億人を越える人間がいて、個人にとってそれぞれ重要度が違い、当然扱いも違うはずです。扱いの違いがすなわち差別なのですから、差別をすること自体は人としてごく当たり前なのです。
例を挙げましょう。
二人の子供がボートから落ちたとします。
一人が我が子で、もう一人が見知らぬ赤の他人、そして浮き輪が一つしかなければ、我が子に向かって浮き輪を投げるのは当然のことです。
差別をするときに重要なのは、なぜ差別をしたのか、自分の中できちんと理由が確立していなければならない、ということです。
仮に、見知らぬ子供が溺れ死んだとしても、それでも我が子を助けるために自分は当然のことしたのだ、と後悔をしないだけの覚悟が必要なのです。
さて、今度はいわれのない差別について考えてみましょう。
先ほどいわれのない差別とは、本人が責任を取るいわれのない差別のことだと述べました。 なぜ本人が責任を取る必要がないのか?
それはいうまでもなく、その差異を本人が自ら希望して選択したものでないからです。
自らの選択に寄らない差異とは、具体的にいうと、国籍であり、性別であり、血液型であり、その他諸々、これらのことで人は決して差別されるべきではないのです。
逆に言えば、人は自らの意志で選択した結果に対しては、多少の差別を受けても仕方がないのでは、と思います。
多少差別を受けたぐらいで、その結果を後悔するぐらいなら、最初からその途を選ばなければいい。それだけのことではないでしょうか。
本作を鑑賞すれば誰しも、ナチスのホロコーストは間違いであった、ひいては人種差別はするべきではない、そう思うはずです。
しかし世の中にはいわれのない差別が満ち溢れています。特にインターネットでは韓国人、中国人を蔑視する発言が多く見られます。
A.韓国人にキチガイがいる。
これは事実です。韓国人に限らず、日本人にも、デンマーク人にも、アメリカ人にも、ドイツ人にも、ユダヤ人にも、どこの国にも、どの人種にもキチガイはいます。
B.韓国人はキチガイである。
これは事実ではありません。民族性の違いはあったとしても、韓国人の多くは、常識的で、話がわかる人達です。このことは実際韓国人、中国人に知り合いがいる人ほど認めることではないでしょうか。
しかし、インターネットで韓国人、中国人を蔑視、冒涜する発言をする人たちはしばしばAとBを混同しているように見受けられます。
一部の暴走する韓国人を例に挙げて、だから韓国人は○○だ、などと結論付ける。それは間違っています。
例えば、日本人で例を挙げれば、市橋達也はキチガイである、市橋達也は日本人である、であるから日本人はキチガイである、という三段論法を持ち出されたらどうでしょう。
ちょっと待てよ、といいたくなりますよね。市橋達也を日本人に代表にするな、と。
簡単な理屈のはずですが、理解できない人も多いようです。
それでもなお韓国人、中国人を差別するというのであれば、それはそれで構わないでしょう。
なぜならその人たちの胸の中に、韓国人、中国人を差別する、正当な理由があるのでしょうから。
しかし、前述の通り、差別する際には、それ相応の覚悟が必要です。
例えば、子供でも、恋人でも、両親でもいい、その人たちにとって大事な人が、何らかの免疫不全の病気に罹ってしまった、助かるためには臓器の提供しかない、そしてそのドナーが韓国人であったというような場合、いや、韓国人のような劣等人種からの臓器提供は受けない、ときっぱり拒否をして、子供を、恋人を、両親を、見殺しに出来るぐらいの覚悟があって、初めて差別というのはしてもよいものなのだと思います。
『シンドラーのリスト』を見ての感想というには些か大仰で的外れなものになったかもしれませんね。
でも、常日頃考えていることなので、記事にするにはいい機会だと思ったのです。
いつになく長文なので、最後まで読む人もあまりいないかとは思いますが、差別について一考する機会にでもなれば幸いです。
年間五十本近く劇場まで映画を観に行っていますが、まだまだメジャーな作品で未見のものも多いのです。
で、見ての感想ですが、感動作としてよく出来てはいるが、逆に言えば美談過ぎる。おそらく『ビューティフル・マインド』(こちらも未見)などと一緒で、実話を元にしてはいても、そのエピソードの多くは創作なのでしょう。
一つわからないのは、スピルバーグが、なぜドイツ人であるシンドラーにアイルランド人であるリーアム・ニーソンを起用し、英語をしゃべらせたかってことでしょうか。
トム・クルーズが主役ってわけでもあるまいし、ドイツ人であるシンドラーはドイツ人の役者を起用し、ドイツ語をしゃべらせればいいんじゃないかって思いました。
まぁ完璧主義者であるスピルバーグのことだから、作品を完全にコントロールしたかったんでしょうね、例えシンドラーに英語をしゃべらせても。
本作はホロコーストについての映画なので、良い機会だから、差別についての自分の考えを述べたいと思います。
よく、差別をしてはいけない、などといいますよね。
でも自分に言わせれば、差別はいけないと言ってる人は大概差別に関して考察が足りていないんじゃないかって思います。
なぜなら差別という言葉自体には、いい意味も悪い意味もないのですから。
似たような言葉に独裁がありますよね。独裁だからといって悪政だとは限らないのですから、独裁者だからといって必ずしも否定されるべきではないはずですが、独裁者という言葉には常に負のイメージが付きまといます。
話を差別に戻すと、私たちが本当に忌むべきは、単なる差別ではなく、いわれのない差別です。いわれのないとは、つまり、本人が責任を取るいわれのない、という意味ですが。
差別をする観点に立っていえば、この地球上には七十億人を越える人間がいて、個人にとってそれぞれ重要度が違い、当然扱いも違うはずです。扱いの違いがすなわち差別なのですから、差別をすること自体は人としてごく当たり前なのです。
例を挙げましょう。
二人の子供がボートから落ちたとします。
一人が我が子で、もう一人が見知らぬ赤の他人、そして浮き輪が一つしかなければ、我が子に向かって浮き輪を投げるのは当然のことです。
差別をするときに重要なのは、なぜ差別をしたのか、自分の中できちんと理由が確立していなければならない、ということです。
仮に、見知らぬ子供が溺れ死んだとしても、それでも我が子を助けるために自分は当然のことしたのだ、と後悔をしないだけの覚悟が必要なのです。
さて、今度はいわれのない差別について考えてみましょう。
先ほどいわれのない差別とは、本人が責任を取るいわれのない差別のことだと述べました。 なぜ本人が責任を取る必要がないのか?
それはいうまでもなく、その差異を本人が自ら希望して選択したものでないからです。
自らの選択に寄らない差異とは、具体的にいうと、国籍であり、性別であり、血液型であり、その他諸々、これらのことで人は決して差別されるべきではないのです。
逆に言えば、人は自らの意志で選択した結果に対しては、多少の差別を受けても仕方がないのでは、と思います。
多少差別を受けたぐらいで、その結果を後悔するぐらいなら、最初からその途を選ばなければいい。それだけのことではないでしょうか。
本作を鑑賞すれば誰しも、ナチスのホロコーストは間違いであった、ひいては人種差別はするべきではない、そう思うはずです。
しかし世の中にはいわれのない差別が満ち溢れています。特にインターネットでは韓国人、中国人を蔑視する発言が多く見られます。
A.韓国人にキチガイがいる。
これは事実です。韓国人に限らず、日本人にも、デンマーク人にも、アメリカ人にも、ドイツ人にも、ユダヤ人にも、どこの国にも、どの人種にもキチガイはいます。
B.韓国人はキチガイである。
これは事実ではありません。民族性の違いはあったとしても、韓国人の多くは、常識的で、話がわかる人達です。このことは実際韓国人、中国人に知り合いがいる人ほど認めることではないでしょうか。
しかし、インターネットで韓国人、中国人を蔑視、冒涜する発言をする人たちはしばしばAとBを混同しているように見受けられます。
一部の暴走する韓国人を例に挙げて、だから韓国人は○○だ、などと結論付ける。それは間違っています。
例えば、日本人で例を挙げれば、市橋達也はキチガイである、市橋達也は日本人である、であるから日本人はキチガイである、という三段論法を持ち出されたらどうでしょう。
ちょっと待てよ、といいたくなりますよね。市橋達也を日本人に代表にするな、と。
簡単な理屈のはずですが、理解できない人も多いようです。
それでもなお韓国人、中国人を差別するというのであれば、それはそれで構わないでしょう。
なぜならその人たちの胸の中に、韓国人、中国人を差別する、正当な理由があるのでしょうから。
しかし、前述の通り、差別する際には、それ相応の覚悟が必要です。
例えば、子供でも、恋人でも、両親でもいい、その人たちにとって大事な人が、何らかの免疫不全の病気に罹ってしまった、助かるためには臓器の提供しかない、そしてそのドナーが韓国人であったというような場合、いや、韓国人のような劣等人種からの臓器提供は受けない、ときっぱり拒否をして、子供を、恋人を、両親を、見殺しに出来るぐらいの覚悟があって、初めて差別というのはしてもよいものなのだと思います。
『シンドラーのリスト』を見ての感想というには些か大仰で的外れなものになったかもしれませんね。
でも、常日頃考えていることなので、記事にするにはいい機会だと思ったのです。
いつになく長文なので、最後まで読む人もあまりいないかとは思いますが、差別について一考する機会にでもなれば幸いです。