ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本義隆著 「近代日本150年ー科学技術総力戦体制の破綻」(岩波新書2018年1月)

2019年09月06日 | 書評
ソバ畑

エネルギー革命で始まる「殖産興業・富国強兵」は総力戦体制で150年続き、敗戦と福島原発事故で二度破綻した 第11回

第4章) 総力戦体制に向けて(その1)

1914年西欧の列強が植民地争奪戦でこじれて欧州を舞台に第1次世界大戦となった。欧州がアジアに力を割けなくなっているのを見て、日本はドイツに宣戦布告し、「火事場泥棒」式にドイツのアジアにおける利権を奪った。山東半島、青島、南洋諸島ミクロネシアを攻略した。この第1次世界大戦の「勝利」は、引き続いてソ連建国のどさくさに乗じてシベリア出兵、そして日中戦争、太平洋戦争への道を開いた。第1次世界大戦は最初の科学戦争と言われる。一流の研究者が「毒ガス研究」に従事し、無線電信や潜水艦探知機の軍事研究に動員された。戦争と同時に科学者は「愛国者」となり戦争に協力した。国家による科学動員、科学技術研究への国家による科学者の動員政策となった。しかし日本では科学はもともと軍事優先で進められ国家第一主義が貫かれていたから、官としての研究者が戦争に組み込まれるのは当然の成り行きであった。日本では大戦中から各種の研究機関が設置された。1915年海軍技術本部、1918年海軍航空研究所、大阪工業研究所、繊維工業研究所、1919年陸軍技術本部、陸軍科学研究所、1920年燃料研究所、海洋気象台、高層気象台、1922年東北大学金属材料研究所、1923年海軍技術研究所、1925年東大地震研究所、1926年京大化学研究所などである。民間では理化学研究所が半官半民として設立された。1918年に「大学令」によって帝国大学以外の官私立大学の背地位が認められた。私立の多くの専門学校が単科大学に昇格した。1920年に学術研究会議が科学行政に中心的な役割を演じた。この研究機関の創設の背景には日本経済の発展があった。第一大戦以前は債務国であった日本は、大戦後債権国になった。植民地資源の獲得によって大正デモクラシー時代の繁栄が到来したのである。とはいうものの産業と国防は車の両輪の関係にあることは言うまでもない。第一次世界大戦後、ドイツの化学工業が主に軍事技術面より日本に強い衝撃を与えた。火薬、爆発物、燃料、医薬品などの産業は従来の金属加工関連の軍需産業と並んで重要な領域を占めた。日本と同様にドイツは資源小国としてスタートした後発先進国である。ハーバーによる空中窒素固定法は、1909年大気中の窒素と水素ガスからアンモニアを合成する方法を発明し、2013年にボッシュによって実用化された。アンモニアは硫安として肥料になり、硝酸にすれば火薬の原料となる。日本では資源問題の解決法として化学工業に大きな期待が寄せられた。「無から有を作る錬金術」が俄かにクローズアップされた。日本の近代科学工業は、ドイツに倣って軍による火薬・爆薬の製造から始まった。1895年大阪の造幣局の払い下げが日本の近代化学工業の幕開けとなった。民間の化学工業の主流は化学肥料の製造にあり、カーバイト工業も肥料生産のためであり、化学染料・医薬品製造が興った。軍はアニリン染料工業が潜在的軍需産業であることを第1次世界大戦で学んだ。化学工業が新たな軍需産業であること以上に、これからの戦争が軍事だけでなく政治・経済・思想・社会の全面で戦われる長期持久戦・総力戦である。つまり物量戦・総力戦であることが分かった。平時と戦時体制が連続して、平時から戦争の計画と準備期間になった。軍備の近代化と国家総力戦への移行が第一次世界大戦の教訓となった。金属加工産業・化学工業と並んで自動車産業の国家的育成が日本の課題となった。4つのサイクルのガソリンエンジンが実用化されたのが1870年代中頃、80年代にドイツのベンツが高速ガソリンエンジンを開発し、1890年に自動車製造会社を興した。ディーゼルエンジンの実用化が1890年代末で、20世紀に入ってガソリン自動車が実用かされ、1903年にはライト兄弟の飛行に搭載されたのはガソリンエンジンであった。1903年アメリカのフォード車が乗用車の量産に成功した。こうして第一次世界大戦における軍用自動車、戦車、航空機、潜水艦で用いられ自動車産業は20世紀産業の花形となった。1925年日本に進出したフォードとゼネラルモータースの工場は日本の自動車産業を圧倒した。大きく遅れた日本の自動車産業がようやく生産を始めるのは、国産軍用車の生産を目指した1936年「自動車製造事業法」以降のことである。日産、トヨタ、三菱重工が自動車生産を始めた。航空機産業は最初から軍用で、1910年に中島製作所がそして三菱航空機(1934年三菱重工に合併)が特許料を払って製造を開始した。三菱重工は1935年に96式艦上戦闘機を完成し世界の水準に追いついたとされる。1918年「軍需工業動員法」を制定し、戦時においては国家が工場を接収し業務に命令を出すことができる法であるが、1937年日中戦争の開始時から適用された。

(つづく)