ブログ 「ごまめの歯軋り」

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森本あんり著 「異端の時代ー正統のかたちを求めて」 岩波新書(2018年8月)

2019年09月23日 | 書評
渡良瀬遊水地より筑波山を見る

世界に蔓延するポピュリズム、それは腐蝕しつつある正統である民主主義の鬼子か異端か  第8回

第5章 異端の分類学ー発生のメカニズムと中世神学(その1)

正統が規範や原理や教義から作り出されることはない。予め存在論的に正統であったものだけが、教義により認識論的にも正統と認められるのである。つまり正統は存在論の領域にある。教義を正統の根拠とするのは認識論的な理解の偏重に過ぎない。教義も正典も後追いである。ベラギウスは、人間が神の助力を得なくとも善を行い完全な人間になれると主張してアウグルチウス派から異端とされた。正統のアウグルチウスは、人間は生まれつき罪を負っていている弱い存在であるとして「原罪」という教義を生み出した。「原罪」に対して神の恩恵にすがり贖罪と祈りを捧げることがキリスト教者であることが正統とされた。ベラギウス派は自分という存在が自分の意思の産物であると思い込むことにある。ブルガリアの政治学者トドロフは現代人の自己理解はベラギウス主義から由来するという。21世紀は民主主義が内部から崩壊する危険にさらされている。その危険とは「自分自身に酩酊する意思」の思い上がりだとする。民主主義は人民、自由、進歩という3つの構成要素を持つが、その互いの制約を逃れると、ポピュリズム、新自由主義、政治的メシアンニズムという怪物を生み出すのである。この思い上がりをキリスト教ではベラギウス主義と呼ぶ。それは自由意志の力でユートピアを建設しようとする思想であり、キリスト教史に度々興った「千年王国論」という異端です。2012年トドロフはこれを「メシア無きメシア信仰」と呼んだ。自己肥大した大衆がメシアを僭称しているというべきである。政治的メシアニズムでは革命政府は必然的に恐怖政治へ転化し、友愛を唱えて植民地主義に、強圧による進歩主義の押し付けになる。ベラギウス主義は善が勝利することへのほとんど宗教的な信頼である。新自由主義による開かれた市場が富をもたらし、原発は制御可能の技術であると安全と安心を吹聴し、言論の自由は代えがたい価値を持つと考えることである。しかし現代のデマゴーグはマスメディア媒体を通じて大衆を操作するのである。流される情報そのものが選択された意図を持つ情報である。人間は決して自己の運命の支配者ではない。自由は制約された条件の下でしか存在せず、善は暴走して悪をなすのである。トドロフも民主主義以外に良い政治形態があるとは考えていないが、規制の権威構造が崩壊し、ラジカルな体制の変革が叫ばれ、自己の善を過信する異端ベラギウス主義が再興する。異端という言葉は選択というギリシャ語に由来し、「健康な全体からその構成要素であった一部が不均衡に肥大化して発生する」。全ての要素は必要でありエネルギーを持っているから健康(正統)なのである。何が正統で異端なのかは「歴史の審判」を待つことで、判定には時間がかかる。初期キリスト教ははじめユダヤ教の内部で生まれ、成長しユダヤ教という正統から異端視され排除された。キリスト教の最初の教会は「ナザレの異端」と呼ばれた。聖パウロは最初は「疫病人」とそしられた。「異端」という言葉は宗教学では「分派」ということです。日本の政党政治では党内派閥を「分派」、主流派と対立すれば「異端」。党を出れば「異教」となります。異邦人伝道を巡ってペテロからパウロに主導権が移行するプロセスは、民族宗教であるユダヤ教から世界宗教としてのキリスト教への転成の時期に相当します、イスラム教では原則的に聖職者集団が存在しないためと政教一致のため宗教的な正統性は政治的な正統性であった。イスラム教における正統性は預言者ムハンマドの血統を継承する者は誰かに集約される。スンナ派とシーア派の違いはムハンマドの従兄アリーの位置づけを巡る意見の違いによります。L正統だけがイスラム教の正統になり、宗教と政治の両権にまたがる全権が継承される。丸山眞男は儒教における正統は朱子学で異端は仏教だという。丸山は、架空のストーリーとして山鹿素行、荻生徂徠、中井竹山の儒者3人に日本という正統論と異端論を議論させている。山崎闇斎では異端に対しては戦闘的になる。彼らの正統は日本であり、どの宗派がその正統を担うかということである。幕藩体制は朱子学を正統とした。バランスを考えた論は佐藤直方の「理気論」に見られる。かれは「異端は片足で行くこと」といい、対立する者との全体的な統一を欠いた議論を戒めた。中庸や平衡は危ういバランスに上に成立する。キリスト教の三位一体論もそのような動的平衡の中からかろうじて生み出された正統であった。

(つづく)