ブログ 「ごまめの歯軋り」

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森本あんり著 「異端の時代ー正統のかたちを求めて」 岩波新書(2018年8月)

2019年09月18日 | 書評
茨城 そば畑

世界に蔓延するポピュリズム、それは腐蝕しつつある正統である民主主義の鬼子か異端か  第3回

第1章 異端好みの日本人ー丸山眞男をよむ(その1)

丸山眞男氏が正統と異端をどのように理解していたかを見ていこう。丸山氏の正統への関心は敗戦直後に書かれた「超国家主義の論理と心理」にすでに表現されている。そこで彼は「正統性」と「合法性」とを区別し、近代国家では政治的支配の正当性を合法性に求めることを指摘している。それは本書の第6章中世神学に置いて取り上げられる。丸山氏は1965年の講義において北畠親房の「神皇正統記」を取りあげ、「正統」と「正理」という術語を導入した。ここで「正統」とは血統や世襲の論理であり、「正理」とは特定共同体の利害を超えた客観的規範の論理である。丸山氏の正統論に沿うと、「L正統」とは権力継承の正閏を問うものであり、「O正統」とは教義解釈の正邪を問うものである。ここでは「正統」とは「L正統」となり、「正理」とは「O正統」をさす。親房は「邪なる者は久しからずして滅び、乱れたる世も正に復る」という。皇統が簒奪されたり断絶するのは、正しくない不徳の天皇が横暴を振ると、その皇統を絶ち傍系から正しい政治を行う皇統を誕生させるという、皇統の断絶を可能とする中国思想の革命思想を日本的に焼き直した皇統の垂直移動と平行移動に置き換えたものである。(アミダ籤のような構図)そういう意味では「神皇正統記」は血統的な正統に固執しない、規範的な「正理」の論理を打ち立てたと言える。もともと神道は教典もなく開祖もない氏族祭祀であった。それが仏教と習合し、中世以降は儒教と癒着する。これを融通無碍というか、教義を議論しない神道の根本的性格である。正統論のもう少しまとまった記述は「文明論之概略」に見られる。福沢は読んだギゾーの言葉に「政統」という訳を与えた。現在の「正統」には「正」という字を与えるほど規範的な規範的な性格はない。丸山氏は正統と異端の議論は共産主義には起きるが、ファシズムにはないという。共産主義は特定の民族・国家を超えた普遍的な価値観を主張するが、ドイツファシズムはゲルマン民族の伝統を絶対視する部族主義であるからである。だから同じファッシズムのドイツと日本の間で正統争いは起きない。ソ連体制の中から「スターリン批判」が起きるのは、カトリックに対する宗教改革と同様な修正(全的否定ではない、主導権をめぐる正統争い)であるからだ。正統と異端の戦いは昔から「自分は正統、相手は異端」で終始するものである。正統は時に権力をもって異端を抑圧し、邪教の烙印を押して排除してきた。これらは「L正統」による「O正統」の「迫害」という構図である。江戸幕府による朱子学の国教化は、本来「O正統」と判断される学問すら権力によって「L正統」として定立された例である。福沢の師ギゾーも指摘するように、およそ権力という者は自己の正統性の根拠がむき出しの暴力に過ぎないことを示す。しかしたとえそうであっても権力は自らが「暴力以外の資格」によって存在し始めたと主張する。すなわち権力は政治的な正統性は暴力では擁護できない事を知っている。政治的な正統性は「由緒の古さ」「古来」という時間的に先んじていることをもって自己の権力の根拠とする。古代権力は過去を捏造したり、詐称することで神話を作る。近代国家とはローマ帝国滅亡後多様な原理や価値の普段の対立や闘争によって形成されたとギゾーは考えた。福沢もギゾーを踏襲した。その多様性を特徴づけるのが、聖権と俗権という独立した二つの権力の拮抗である。人間に精神と肉体があるように、俗権は身体有形の世界を支配し、聖権は精神無形の世界をを支配する。この両権の独立と併存こそが西洋文明の核心を構成したという理解である。しかしキリスト教は個人的な信仰から出発したが、地上に巨大な組織と秩序とネットワークをこしらえた。「教会」とそれを支配する「聖職者集団」である。近代市民社会は聖俗の二元的価値の区別を前提に成立したが、信仰共同体の存在があって宗教以外の価値、学問芸術文化を共有した。

(つづく)