ブログ 「ごまめの歯軋り」

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森本あんり著 「異端の時代ー正統のかたちを求めて」 岩波新書(2018年8月)

2019年09月26日 | 書評
渡良瀬遊水地

世界に蔓延するポピュリズム、それは腐蝕しつつある正統である民主主義の鬼子か異端か  第11回

第7章 退屈な組織と煌めく個人ー精神史の伏流

19世紀末に英国のギルフォード卿が残した財産を基金として始められた神学講演シリーズを「ギルフォード講演」という。初回は1888年宗教学の父マックス・ミューラーが招かれ、1901年にはアメリカのウイリアム・ジェームスが招かれ、1988年カナダの社会哲学者チャールズ・テイラーが招かれて講演を行った。テイラーの論点は西洋近代史における世俗化のプロセスを主題としたのだが、100年前のジェームスの講演と強烈な同時代性を有していた。
ジェームスのいう宗教とはあくまで原初的に感じられた個人の直接的な情熱のことである。組織化された宗教はどのような宗教であれ、それぞれの国の因襲的儀式に従って模倣された退屈な習慣に過ぎないのである。ある宗教が正統的教説になると、それが内面的であった時代は終わり、信者はもっぱら受け売りだけの宗教生活を送るようになる。これが宗教の一般的な堕落した形態である。卓越した宗教指導者はある時期ほとんど神経病理学的な特徴を経験している。これが彼らに宗教的権威を与えている。こうした特異な精神現象を理解するための学問が「心理学」と呼ばれた。テイラーはこうした「感動した」宗教的経験はまさに現代の個人主義的で表現主義的な宗教理解につながると理解した。こうした感動は自己表現主義のナルシズムやステレオタイプ化している疑いがあるものの、「自分がそれを本当だと感じられるかどうか」を真正さの基準にするのが現代の特徴である。だからジェームスは宗教は純粋に内的な生命の表れのことであり、組織化された教義や教会の声でないと考えた。近代精神史からすると、個人の内面的で主観的な確信の持ち方は当然の帰結である。近代は客観的な世界から意味や目的という概念を取り除いてきた。宇宙自然物に意味や目的はないとした理解や実存主義は形而上学的な根拠喪失である。すると人は「偶然的な存在」に過ぎないとされた。ヴェーバーの宗教の「脱魔術化論」であった。「異端」と呼ばれるものは常に、本来的で健全な全体を構成していたはずの特定部位が不均衡に暴走した者である。「異端は選択である」が必然ではなく選ばない選択もある。デフォルト状態から逸脱するのが異端である。選ばない人が圧倒的に多い処に正統が宿る。時代は際限なく「プロテスタント病」化している。個々人が異議申し立てを続け、分裂を繰り返している。近代人が持つ制度や組織への疑念はある程度は健康な批判精神の表れであった。それが健康な程度を超えて亢進してほとんど病気といってもいいくらいです。その本質は「意志力の崇拝」つまり「やればできる」と信じたがる傾向である。この論理はやらなかったら自分が悪いということになり、失敗や敗北を合理化できない極めて不安な現代人を生むのだ。もし選ぶことを強制されているならば現代は異端が普遍化した時代である。正統の居所を追放することになる。正統の腐蝕はこうしたことから始まっているのである。この現象はアメリカでは「個人主義の宗教化」という形態で始まっている。
19世紀のアメリカの哲学者エマソンはギフォード卿と友人であった。彼の思想は「超絶主義」として知られている。既存の歴史的キリスト教全体から決別し、自然と宇宙と魂が共鳴する壮大なロマン主義的汎神論である。このような神秘主義的な宗教観には、教会や牧師という人為的組織が仲介する余地は最初からなかった。エマソンとジェームスは一直線状につながっている。「宗教は制度ではない、一人一人の心の問題である」という理解こそ現代人が宗教にたいして抱く基本的な共通理解となっているからだ。エマソンが神を抽象性へ蒸発させたとすると、ジェームスは神を個人の内面に解消したと言える。
エマソンの友人でヘンリ・デヴィッド・ソローはエマソンの個人主義的な宗教をもっと現代風に味付けした。彼は「ウォールデン」(森の生活)という自給自足と晴耕雨読の生活を送った。税金不払いや「市民的不服従」を実行し「エコロジスト」としても知られ、20世紀後半にはカウンターカルチャーの元祖と言われた。ハーバードを卒業したインテリであるが定職に就いたことは無かった。都会文明に背を向けた根っからの自然人で、エマソンの家に居候し一生独身であった。ただ彼の反抗の姿勢はあまりに軽く、人の目を気にした反抗者で、お手軽な現代子であり、ガンジーやキング牧師といった壮絶な自己犠牲とは世界を異にしている。ソロは日曜礼拝にもゆかず、教会とは宗教的不具者が年金受給者の様に過ごすところで、人間の本当の信仰は教義にはないというのがソローの宗教観であった。ソローは宗教を個人化したのではなく、個人主義を神聖視し宗教化したのである。
ここまで見てきたジェームス、エマソン、ソローの3人に共通していることは、既存の制度を否定し、その権威を否定し、代わって自己の内面を真理の最終の座としたことである。正統の消失は異端も明確な輪郭をなくし異端であることの気概もない。人々は批判することの代償を自分で支払わない。ヴェーバーの盟友であったトレルチは宗教上の正統派(チャーチ)、異端派(セクト)に第三の「神秘主義」を加えた。この類型は宗教的体験の直接性を第一義に尊重する宗教性のことである。ロバート・ベラ―はこの類型を「シーライズ」となずけた。宗教と化した個人主義のことである。連帯や規律を全く欠いており、徹底した個人主義で教育程度の高い富裕層に多く見られる。文化的プロテスタンティズムが行くつく先が、宗教と化した個人主義であろうことは予測されていた。トレンチがいう「神秘主義」型に属する人は現世に対するコミットメントが低く無関心であるが、現代の個人主義的宗教には、しばしば異端的セクトの過激さがある。権威を批判する時自分のアイデンティティを感じるようである。インターネット世界がこれに拍車をかけた。ネットには「現在の私達を支配する否定と批判、何かを罵倒せずにはいられないシニカルな気分」が蔓延している。批判者たちは正統意識に酔いしれながら容赦のない全否定を浴びせかかるのである。これは宗教学的には正統を批判する異端の宗教的正義感と全く同質であるという。正統の権威を引きずり下ろした後に残る空虚さ、これはニーチェの神を殺したのちの罪悪感である。ヴォルテールはいう「神がいなければ、神は自分で作るしかない、それが人間の運命である」と。人類の名における理性の宗教が樹立されるのである。

(つづく)