栃木県下野市 天平の丘国見山(古墳)
世界に蔓延するポピュリズム、それは腐蝕しつつある正統である民主主義の鬼子か異端か 第10回
第6章 形なきものに形を与えるー正統の輪郭
正統の定義を考えよう。20世紀初めの作家チェスタトンは、異端者は頭が良くてカッコよく自由で進歩的で勇気ある人とみなされてきたことに反論して、芸術上の自由はあるものに本来備わっている法則にしたがうことによって得られる、制約なくして自由はないという。正統もこれと同じである。ヴィンケンティウスは、正しい解釈の道筋とは「どこでも、いつでも、誰にも信じられてきたこと」であるといった。正統とは内容の無い空疎な容器である(絵画の額縁のこと)ともいった。正統とはそれ自体で定義されず、容器(境界、輪郭)によってしか特定できない内容を持つとしか言いようがない。自由と限定の相克の弁証法を用いて、正統のありようをを考える。正統を神学的に根拠づける試みは、とにかく解決の出口のない困難に突き当たる。正統がある座としては公会議や教皇の教書、聖書等が考えられる。聖書に明示された指示がない案件にはさまざまな論争が発生した。三位一体論やキリスト論といった根本教義すら聖書的な根拠があるわけではない。ヴィンケンティウスの定義より、一般に信じられていたことを網羅的に示す事は不可能である。異端に対する正統の特徴はその全体性にある。肯定的にその内容を示す代わりに、そこを超えたらもはや正統ではありえないといった輪郭から攻めることになる。カトリック教会が古代から用いてきた異端排斥文「アテナマ」(呪われたもの)は宗教的な禁忌を示した。宗教改革後のトレント公会議では「教令」が肯定的に示され、「規定」でプロテスタントの主張を否定形で示した。このような否定形の定義(ネガティブリスト)は、言語表現の正当性とよく似ている。人は文法構造に則った正格の言語運用ができる。これを言語能力(生得で普遍的な能力)という。文法が正統な規則であるが言語運用のすべての支配法則を網羅的に記述したのではない。正統においても、「~である」と定義できるのではなく、「~は正統でない」と定義される。正統は存在論的には異端に先だって存在し、認識論的には異端によってはじめてその在処を知る事が出来る。正統のとらえ方にはこの「境界設定型」と「内容提示型」がある。内容例示型の正統表現はあくまで多くの可能性の内から明らかと思われるサンプルを示すことである。それは「原理主義」に陥りやすい。現在イスラム教において「始原への復帰」を掲げるが、その主張内容は現代的な反動で、彼らが選択的に理解した限りの原理、始原に過ぎない。プロテスタント教会でも原理主義への傾斜が激しく、「ドルト信教」や「ウエストミンスター信仰白書」をプロテスタントの正統とみなすときは「原理主義」となる。堀米庸三氏は1964年「正統と異端」を著し、封建性において自由がそれを護る力による制約と不可分であることを示した。自由は秩序による拘束なしには保護されないという。「鳥の自由」は社会の外に立つことになる。キリスト教者はすべてのものに仕える僕であると同時に、すべてのものの上にたつ自由な主人たる地位を得るのである。ハンナ・アレントによると、世界の歴史において「革命」と呼ばれるのは「アメリカ革命」だけであるという。それは植民地からの解放だけでなく、新しい自由を創設したからである。「フランス革命」は抑圧された貧しい者を解放すれば、自然に権力の移行が進むと考えたが、恐怖政治、皇帝政治、王政復古と共和国の交代劇が続いた。社会主義革命はマルクスの予想に反して、力を持たない大衆による革命は不可能で、不安定な永続革命が続くか独裁政治に陥り、貧困階級の解放にはつながらなかった。アメリカ革命は憲法の制定で具体化された。「憲法は理解され、是認され愛されなければ規範とはならない」と第2代大統領ジョン・アダムスは言った。この権威を付与するものこそ、正統性に他ならない。1620年「メイフラワー契約」とは、植民地の人々は本国とは独立に自分たちの市民政治体を形成し、自発的にその権威に従う契約である。その例が州憲法である。マサチューセッツ州では1641年に市民の法律と権利を定めた「マサチューセッツ法典」をまとめた。これはいわば「権利章典」であるが本国イギリスより半世紀も前のことである。この自由の中身は複数の「創設された自由」の集合体である。自由は形を与えなければ存在しえない。正統の概念と同じである。無制約の自由は想定していない。自由は一つ一つ吟味して加えてゆく複合体である。正統に形は杳として見えてこない。理性の能力と限界を追い続けたカントは理性によって到達できない高みがあるという。それでもなお我々は想定し、要請し、仮象するのである。有限と無限の間、可能と不可能の間に何かがあると悟った時「言葉は肉(形)となった」(ヨハネ福音書)という。キリスト教は「神が人間になった」という主張を掲げて人の救済の基礎とみなすため、とりわけ制度化や組織化への志向性が強い。しかしすべての組織は権力が伴う、すべての権力は腐敗する、宗教の権力も腐敗する。近代世界を構成する宗教関係の基本構造は、宗教権力が世俗権力と渡り合い、共存の道を探り合った歴史的経験の上に成立している。「カイザルのもの」と「神のもの」との二元論が人々の正統性のもう一つの源泉である。丸山眞男氏は、今日の日本社会では政治以外の文化的な価値が政治にすり寄って一元化され、国家権力は社会のすべてを呑み込んでゆくリバイサン化してしまったという。「反知性主義」も理性への反発ではなく、知性と権力が結びついた「知性主義」への反発という意味合いが強い。ということは知性を装う者も腐敗するということである。
(つづく)