日本初めての全国的統治政権「ヤマト王権」 第11回
3) 東アジアと倭の五王ー5世紀の日中外交史 (2)
5世紀の日本の実情を知らせる同時代史料が3つある。市原市の稲荷台古墳出土の「王賜銘鉄剣」、行田市の稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」、熊本県和泉町の江田船山古墳出土の「銀錯鉄剣」である。錯とは鉄の中に金銀などの他の材質を象嵌して研磨した製品をさす。そこに彫られた銘から同時代の実情が伺い知れるのである。稲荷台古墳出土の「王賜銘鉄剣」には、ヤマトの王から東国の首長に下された剣である。当時外交的には「倭国王」を名乗っていたが、国内でも「王」であった事を示している。熊本県和泉町の江田船山古墳出土の「銀錯鉄剣」には「ワカタケルの大王」の名が見え九州の首長に下した子孫繁栄を願う剣である。西暦417年の銘がある行田市の稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」には「ワカタケル」(第21代雄略天皇)に仕えた四道将軍「オオヒコ」の族「オワケ」の9代の子孫の名前と官職名「杖刀人」(軍人)、仕えた天皇の名(ワカタケル)と地位(天下を治める補佐役)、都の所在地まで記されている。稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」は第1級の史料といえる。これらの鉄剣の技術的製法や文字の字形そして鉄の材質からして朝鮮半島の影響を受けていることは事実として、中国の素材の提供を受けてヤマトの中央部で制作された可能性は高い。「金錯銘鉄剣」にみえる「杖刀人」、「銀錯鉄剣」には「典曹人」という官職名が見える。前者は武官、後者は文官である。この様に5世紀後半には漢字表記の職名を記す分業的支配システム(王廷組織)が存在していたようである。これを古代史では「人制」と呼ぶ。
(つづく)
3) 東アジアと倭の五王ー5世紀の日中外交史 (2)
5世紀の日本の実情を知らせる同時代史料が3つある。市原市の稲荷台古墳出土の「王賜銘鉄剣」、行田市の稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」、熊本県和泉町の江田船山古墳出土の「銀錯鉄剣」である。錯とは鉄の中に金銀などの他の材質を象嵌して研磨した製品をさす。そこに彫られた銘から同時代の実情が伺い知れるのである。稲荷台古墳出土の「王賜銘鉄剣」には、ヤマトの王から東国の首長に下された剣である。当時外交的には「倭国王」を名乗っていたが、国内でも「王」であった事を示している。熊本県和泉町の江田船山古墳出土の「銀錯鉄剣」には「ワカタケルの大王」の名が見え九州の首長に下した子孫繁栄を願う剣である。西暦417年の銘がある行田市の稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」には「ワカタケル」(第21代雄略天皇)に仕えた四道将軍「オオヒコ」の族「オワケ」の9代の子孫の名前と官職名「杖刀人」(軍人)、仕えた天皇の名(ワカタケル)と地位(天下を治める補佐役)、都の所在地まで記されている。稲荷山古墳出土の「金錯銘鉄剣」は第1級の史料といえる。これらの鉄剣の技術的製法や文字の字形そして鉄の材質からして朝鮮半島の影響を受けていることは事実として、中国の素材の提供を受けてヤマトの中央部で制作された可能性は高い。「金錯銘鉄剣」にみえる「杖刀人」、「銀錯鉄剣」には「典曹人」という官職名が見える。前者は武官、後者は文官である。この様に5世紀後半には漢字表記の職名を記す分業的支配システム(王廷組織)が存在していたようである。これを古代史では「人制」と呼ぶ。
(つづく)
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