ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 海老坂 武著 「加藤周一ー20世紀を問う」 岩波新書2013年

2018年10月12日 | 書評
博覧強記の知の巨匠の伝記、日本思想と文学の「日本らしさ」を問い続けた軌跡をたどる  第10回 最終回

第7章) 希望の灯をともす―20世紀の語り部

加藤周一氏は政治的アンガジュマンを避けている知識人だという印象が強い。観察・分析・提言はするが、運動に加わるとか党派にくみすることはなかった。戦後一時期過激な発言はあったが、1951年より5年間フランス留学へ、1960年カナダ・ブリティッシュコロンビア大学教授として赴任、1969年西ベルリンのベルリン自由大学教授として赴任、1974年アメリカのイェール大学客員講師となって渡米の他にも、1978年スイスのジュネーブ大学客員教授、1983年英国ケンブリッジ大学、イタリアヴェネチア大学局員教授、1986年メキシコのコレヒオ・デ・メヒコ大学客員教授、1987年アメリカのプリンストン大学で講義、1992年ドイツベルリン自由大学大学客員教授、1994年中国北京大学で講演、1997年アメリカのポモーナ大学客員教授、2001年中国香港中文大学で講演といったふうに、海外での活躍が長かったせいもあって、国内の各種運動には全く関与していない。1955年フランスから帰国後、加藤氏はアジア・アフリカ作家会議に加入した。日本では堀田善衛氏、野間宏氏らが主導していた。1958年にはタシケントで行われた国際準備委員会に参加し、その時「ウズベック・クロアチア・ケララ紀行」という紀行記を出した。3つの社会主義国訪問と比較が目的の旅であった。1958年「政治と文学」など一連の論文を発表したが、世界情勢の分析が主で加藤氏は「現実主義」のカードは離さず、決して理想主義に走ることはなかった。60年安保改定には、協同討議文書の署名には加わったが、その存在意義は薄かった。すでにカナダ行きは決まっていたせいか運動に身は入らなかった。1980年代後半から2000年代にかけて、加藤氏は書くことから語る事へ重点を移していったようだ。20世紀の語り部として、戦争責任、核戦略問題、アメリカを中心とした核・石油戦争など世界情勢の分析、憲法九条の会への参画などの活動である。これらの時事問題への発言が多くを占めたが、内容が雑多になるので省略する。晩年の加藤氏の執筆活動で、1980年7月から亡くなる2008年7月まで28年間続いて朝日新聞に連載(月1回)された「夕陽妄語」が傑出している。そこで述べられた政治と文化に関するエッセイ(時評)を分類すると、次の二つが主となる。
① 国際政治の動きについての観察と分析である。冷戦終了から湾岸戦争、9・11、アフガン・イラク戦争という一連の世界情勢に加藤氏は常に鋭いコメントを出し続けた。核の傘の無意味さを訴え続けた。しかしオバマ大統領さえコントロールできない核廃絶問題は実現しそうにもない。
② 日本の保守化、右傾化、新国家主義への警告である。憲法九条の無理な解釈から海外派遣容認、そして最後は九条改定、軍備強化、徴兵という戦前日本への回帰現象を警告する。何を主張しても日本の右傾化、軍国主義は強まってゆく。
③ 科学技術の危うさと原発問題である。専門化によって理解不能な社会が暴走した結果が原発村と原発事故であった。
こうしたことに加藤氏は悲観主義者にならざるを得ない。懐疑主義者は判断を停止し沈黙する。それでも加藤氏の意志は楽観論者である。イタリア共産党のアントニオ・グラムシは「知性のペシミズム、意志のオプチミズム」といった。加藤氏もそのような気持ちなのだろう。彼が語るのは誰についても、故人の志であり、姿勢であり、仕事の意味である。、つまりは持続する志である。

(完)
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