ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月14日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第2回

2) 土の香り

父の生家は埼玉県熊谷に近い村で、江戸時代名字帯刀を許された名主の家であった。大正時代、森林と耕地を持ち大勢の小作人に耕作させる豪農であった(当時は4部が自分取り、6部が地主納め)。二男一女の三人の子があった。長女は隣村の豪農に嫁していた。長男は東京に住み不労所得で生きていた。生家には寄り付かず、何にもせず、どんな職にも就かなかった。祖父母が年老いて、妻だけが子供ずれで老夫婦のお世話をしに熊谷に移住した。怠けていても楽に暮らして行ける人間が、一生怠けていただけの事であった。次男だった父は東京で医学を学んで町医者になって以来、生家を訪れることは稀であった。小学生の頃、熊谷の実家を訪れるには上野に出て信越本線に乗り、汽車が荒川の鉄橋を渡ると別の世界になった。航空機に乗って離陸した時と同じ感覚である。小さな駅で降りて自動車に揺られ停留場に着くと、そこから麦畑や田の中を歩いて、藪や竹林をくぐって農家の土塀沿いや桑畑の道を歩いた。田舎の匂いを胸いっぱいに吸い込み、田舎の少年少女の好奇心の目に曝され、村で一番大きな家にたどり着いた。電気はまだ来ていないので照明は石油ランプかろうそくで、風呂や便所は暗闇の庭にあった。暗闇や墓場、幽霊への恐怖はなかった。母屋と新座敷には渡り廊下があって、冠婚葬祭の宴にはこの新座敷が使われた。相手に見られながら相手を見るという相互的な関係は都会育ちの私には最初からなく、何時までもよそ者として生きざるを得なかった。それは自ら選んだ「観察者」の生き方であった。

3) 渋谷金王町

父は埼玉県の地主の次男に生まれ、浦和の中学を卒業し、第一高等学校から東京帝国大学医学部に進み、大学病院の内科医局町になった。大学時代の同窓には斎藤茂吉や正木不如丘らがいたが、父は詩歌文筆の道には縁がなかった。内科教授選出について医局と当局の意見がことなり、父は医局を去って開業した。開業するといって、田舎の父親が渋谷の金王町の土地を買い、売りに出ていたさる豪邸を解体して運ばせたものである。訪れる人は一日に一人か二人、開業に成功しなかったというよりむしろ若い隠居風の男が、あえて偉業を心の赴くままに営んでいたというべきかも。「医者は薬屋ではない」とか「医者は太鼓持ちではない」というように、不愛想で「商売気」がなかった。それでも父をかかりつけの医師にしていたのは、東京駅の設計者で明治建築史上に名を遺す辰野金吾とその長男でフランス文学者辰野隆東大教授であった。父が往診する患者にはある財閥の本家もあった。米国製の車で父を迎えに来た。父に便乗して青山通りを走った覚えがある。家では私の下に妹が生まれたが、平等に取り扱い、手を上げることはなかった。二人の子供の教育には熱心で、間違ったことをすると罰を与えられるが納得がゆくまで子供に説明をした。家庭は子供にとって全く自己完結的な閉鎖的世界で、理解することができる小さな世界に生きていた。父親は頑固な無神論者で、子どもの教育とキリスト教が関わり合いを持つことは歓迎しなかった。幼稚園に入ったものの、なじめずに退園した。「両家の子弟」という言葉の範囲で完璧な子供時代であった。

(つづく)


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