ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月15日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第3回

4) 病身
幼少より私は病弱で高熱と悪夢を恐れた。私の部屋は家の西の端にあり日当たりのよい部屋であった。母親の琴の音が音楽との触れ合いの始まりであった。物売りの声、ラッパの音、自動車の音、音の世界はすべてこの部屋で聴いた。外で遊ぶことの少ない少年は、すぐに文字を憶えた。そのころ金王町の家には父の姉の長男が同居しており、早稲田大学の学生であった。剣道部主将をしていて体の頑丈な青年であった。私はこの従兄によく遊んでもらった。この従兄は大学を卒業すると田舎へ帰り地主の旦那となって、農協の仕事を切りまわした。村で唯一学のある人だったからだ。戦争中は母と妹(妊娠中)の二人が父の実家(そのころ祖父母はすでに亡くなって、従兄が主であった)に疎開しお世話になった。いつも頼りがいのある味方であった。父には腕力も権力もなかったが、叔父(祖父の長女の夫)は県知事になって多いに権力を振い、県庁の課長らは叔父の前に平伏した。自分の家の中だけで権力をふるった祖父と較べて、叔父の権力は計り知れない人々を動かした。父のもとで自分は腕力も権力にもそれほど魅力は感じないで育った。少年時代、私は自然科学の本だけを読んでいた。他に本を知らなかっただけのことである。自然科学を学んだというより、世界を解釈することの喜びを学んだというべきかもしれない。世界の構造には秩序があるということを疑ったことはない。多くの本を読み、多くの言葉を憶え、それ以上に多くの疑問を持った。相談できる相手は父しかいなかった。そのため同学年の子どもと会話することは全くなかった。父には幻滅をごまかすほど忙しい仕事はなかった。人生に幻滅を感じることを理論化することに熱心であった。

5) 桜横町
私の親戚の子どもたちで、町の小学校に通っている者は一人もいなかった。男の子は暁星や師範学校付属小学校、女の子は雙葉や聖心という名門私立に通った。つまり中産階級の子弟だけが通う学校である。良家の子弟は町の子と交わることは適してないと考えたからである。しかし私の父は町の子と交わることが大切と考え、普通の小学校に通わせた。なぜか起源のはっきりしない平等主義が父にあって、その考えは合理化されていた。学校で何の差別もなく遊んでいた級友の態度が、自分の家の前に来ると微妙に変化する。驚いて引き返すか、門の前で入るのをためらうのである。道玄坂の夜店の日に父母と散歩に出た。学校では動作の鈍いそれでいて皆から親しまれていた子が夜店のかき氷屋できびきびと働いていた。目が合うとその子は気まずそうに「今忙しいからまたね」といって引っ込んだ。忙しいことを一度も経験したことがない私は、その子の再発見であると同時に私自身の位置と役割を再発見した。成績が抜群に良い大工の息子の家に遊びに行ったとき、家の中は鉋屑で散乱しており、表の角材に腰かけて話をした。赤ん坊の御守りや家事で家では勉強ができないようで、最初から私とは出発点が違っていたことに後ろめたさを憶えた。近くには実践女子大があり、八幡神社が子供の遊び場であったが、学校のかえりその仲間に加わったことはない。要するに私は間違って紛れ込んだ局外者にすぎず、仲間として扱いようのない存在であったようだ。八幡神社から学校までの道には両側の桜が植えられ桜横町と呼ばれていた。住宅に交じっていくつかの商店があって、文房具屋で買い物をした。八幡様の境内を抜けると、金王町まで永井邸の金網が続いた。それは広大な立派なお屋敷で、その金網は世界を分けてコミュニケーションを不可能にするものであった。

(つづく)

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