ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

小林秀雄全集第14巻「無常という事」より「伝統」

2006年12月31日 | 書評
伝統

志賀直哉氏が1928年に「夢殿の救世観音を見ていると、その作者というような事は全く浮んで来ない。それは作者というものからそれが完全に遊離した存在となっているからで」と述べた文章があるが、小林氏は見事この文章を伝統という言葉に置き換えた。はたして志賀氏が伝統を意味したのかどうかは別として。美しい仏像を見て美しいと感じる我々の心が綿々と続いていることが伝統なのだろう。仏像がいつ誰によって作られたかではなく、いわば時代に制約されないで日本人の美しいと思う心が連続していることが日本の伝統である。私もまさに正しい定義だと思う。しかしながらこの伝統も意識しないと直ぐに忘れられる運命にある。万葉の伝統を回復したのは鎌倉の実朝と明治の正岡子規であった。かく努力するという行為が鑑賞であり伝統である。私見だが、推古時代の仏像は私は嫌いだ。なぜかというとこの時代の仏像は朝鮮から直輸入した金ぴかの騎馬民族由来の衣装をしており、しかも硬質の冷たい形式で技術が稚拙であるからだ。これがダイレクトに日本の美意識の伝統だとは思えない。日本の仏像の美が完成するのはもう少し時代を待たなければならない。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿