ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 鈴木宗徳 編 「リスク化する日本社会ーウイルリッヒ・ベックとの対話」 岩波書店

2012年08月31日 | 書評
グローバル化社会で生きる道  理論社会学の視点 第9回

2)第1部 「再帰的近代化の中の個人と社会」(3)
 第3の論者である愛知大学文学部教授の樫村愛子氏は「ラカン派精神分析学」の立場より、ベックの理論を近代社会の困難性を指摘するものとして批判評価し、そして日本社会の個人化の現状を分析した。樫村氏は最初からベックの個人化の条件が成り立たないとする。ベックは個人化が自律した個人を出発点とするが、現実には個人は脆弱で他者依存的であることを、「新心理学経済」から説き起こす。第2にベックはリスクを政治課題としテクノクラートの専有から市民の手に取り戻す事を提案するが、産業における精神衛生管理が問題解決の社会関係を抜きにして個人を病人にするやり方は、リスクを増加させる悪循環であり、権力と監視社会は個人と社会を破壊しておりよりリスクは高まっているのである。流動化する現代社会において「社会的なもの」の構造分析が必要であるのも係らず、ベック理論は社会的なものへの追求が不十分であると樫村氏は批判する。グロバーリゼーション・ネオリベラリズムを絶対的な歴史状況として歓迎していることがベックの立場である。そして日本の個人化の特殊性を、戦後一定の民主主義のもとでスタートしたが、開発主義・企業主義・家族主義的社会体制のもとで個人化が抑制されてきたと樫村氏は断定する。そういう意味で個人化は限定的である。90年代以降ネオリベラリズムによる規制緩和・福祉行政放棄によって企業の利益最大化が進行し、個人は社会に放り出される状況を「個人化」と定義すると、樫村氏は個人化の否定的側面の逆定義を行なっている。日本の民主化の不十分な国では、グローバル資本のむき出しの意図を国家が代行し市場主義の管理国家となっている。リスクが政治的契機となるとベック理論は期待するが、民主化の弱い日本では管理社会でリスクは社会分断と差別の温床となっている。それは今回の福島原発事故の風評被害をみれば、東北被災県を差別化してさらに過疎に追いやる契機となる。又日本において個人化の背景にある文化・社会的特性としての象徴性の不在(宗教など共有価値観)は、サブカルチャーの全盛を生み出した。これを退行性、病的化、ガラパゴス化と呼ぶ人もいる。個人特に若者にたいする労働環境の悪化は、引きこもり、鬱の増加、社会拒否、自閉症化、オタク文化という矮小な文化を生んだ。日本文化の特徴といえるかどうか別にして、脱力性、コミカル漫画志向、パフォーマンス表出性社会運動、炎上型ネットワークコミュニティなどである。こんなところから批判精神が育つのだろうか。
(つづく)


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