ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 「平家物語」 佐藤謙三校註 角川古典文庫

2008年06月19日 | 書評
日本文学史上最大の叙事詩 勃興する武士、躍動する文章 第73回
平家物語 卷第十二

泊瀬六代

 高尾の文覚上人は六代御前を貰い受け、あくる年正月五日に都へ着いた。翌日大覚寺に連れていったところ、北の方は長谷寺に籠って居られるとの事で、斉藤六が急いで長谷寺にゆき都の大覚寺へ北の方を連れ戻し、親子の再会をなしたという。文覚上人は出家には賛成せず、高尾で母と六代の住む家をしつらえて迎えたと云うことである。付に「六代斬られ」と云う後日譚が挿入されている。六代御前が十五歳になられたころ、頼朝より、六代御前の人柄・人物を見て将来危険人物になるかどうか文覚上人に問い合わせが来た。文覚上人はそれほどの人物ではない不覚の人だととぼけた返事をしておいたが、やはり頼朝の懸念は恐ろしく、十六歳となった文治五年の春六代を出家させられた。お供に斉藤五・斉藤六をつけて修行に出た。高野山の瀧口入道から父中将維盛が自殺した有様を聞き、熊野へ回って都へ戻られた。このまま行けば六代の命は全うできたのだが、運命はそうはさせてくれなかった。六代御前は三位の禅師として高尾で行い済ましていたのだが、建久十年正月十三日鎌倉殿が五十三歳でなくなられた時、主上は後鳥羽院であったが政治には一向見を入れず、遊びにうつつを抜かす馬鹿殿であったので、高倉天皇の第二皇子で兄の二の宮を位に就けようと文覚上人が謀反を起した。謀反が発覚して文覚上人が隠岐国へ流されると、次の将軍の時に平家の嫡嫡子で文覚上人ゆかりの人であった三位の禅師を逮捕し、相模国田越にて斬られたと云うことである。十二歳から三十歳まで命を永らえることが出来たのは長谷観音の御利生といわれたが、それにしても文覚上人に助けられ文覚上人の野心に連座したのも運命であろう。


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