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ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 南川高志著 「新・ローマ帝国衰亡史」 岩波新書 (2013年5月 )

2014年01月23日 | 書評
栄えていた国が滅びるということ 第7回

5) ローマ帝国の変質ーウァレンティ二アヌス皇統の混乱

 ユリアヌス帝の戦死後、364年ヨウィアヌスが皇位についたが1か月後に死亡し、代って43歳のワァレンティニアヌスが皇帝となった。ワァレンティニアヌスは属州パンノキア(今のクロアチア)の農民の生まれで、軍人となった。3世紀の軍人皇帝のやり方は4世紀後半でも生きていた。ウァレンティ二アヌス帝は弟ワァレンスと帝国を2分し、宮廷から財政まで2分割した。これを帝国の東西分裂と意義付ける人もいるが、396年のテオドシス帝の死後を東西分裂とするのが通説である。西のミラノにいるウァレンティ二アヌス帝と東のコンスタンチノーブルにいる弟との連絡はできており、帝国としての連動性はあったとみるべきであろうか。365年ウァレンス帝がペルシャに向けてコンスタンチノーブルを出発すると、プロコビウスが反乱を起こしてコンスタンチノーブルに入り皇帝を僭称した。ウァレンス帝はこれを撃って反乱は終息した。また西の諸部族はユリアヌス帝の死後不安定化していたが、ウァレンティ二アヌス帝は10年間フロンティア諸部族の反乱に忙殺される。367年ブリテン島でスコッティ族の反乱がおき、テオドシス(後の息子であるテオドシス帝と区別して、父テオドシスと呼ぶ)を指揮官とする機動軍を派遣して秩序を回復した。368年ウァレンス帝は息子グラティアヌスを正帝に就任させ、息子とともにアラマン族の平定に出発した。戦いは有利に進んだが、ドナウ川の諸部族の動きが不穏であったので、369年アラマン族と講和を結んだ。375年いまのブタペスト付近にクァディ族が侵入したので制圧に出かけたが途中ウァレンス帝は病死した。ここでウァレンティ二アヌス皇統の混乱が起きた。メロバウデス将軍がウァレンティ二アヌス2世を担いで皇帝とした。「第3の新しいローマ人」といわれるフランク族出身のメロバウデスは宮廷の実権を握り自身もコンスル職(元老)に就任した。ローマ軍はコンスタンティヌス大帝のころから外部部族を組織的にローマ軍に編成し、同盟部隊という独立した指揮系統をもつ軍となった。こうしてローマ軍の中に私的な部隊が増えてきた。機動軍は総司令官のもと、歩兵長官と騎兵長官が指揮したが、ウァレンティ二アヌス朝の4世紀後半より帝国内に生じた重大な変化の一つは、この総司令官職をはじめとして軍の要職に「第3の新しいローマ人」が就任したことである。皇統の乱れや支配の脆弱に乗じて、フロンティアを巡って諸部族とローマ帝国の争いが目立つようになり不安定要素が増えてきた。これらが5世紀以降に始まるゴート族の「民族大移動」の諸民族国家形成の基礎となる。410年スペインに侵入して西ゴート王国を建て、イタリアに侵入して東ゴート王国を建てた。ローマ帝国東半では皇帝勢力と官僚・宦官を活用した東洋的統治体制ができていったのに対して、帝国西半では諸部族のローマ化による実力を背景に秩序が安定せず、皇帝権力は軍事指導力に頼る傾向が強まりフロンティア支配は次第に揺らいできた。370年代にゴート族を東の黒海あたりのフン族が圧迫した。376年ゴート族のテルウィンギを率いるアラウィウスはシリアにいたウァレンス帝に使者を送り、兵士の提供と交換に属州トラキアへの移動の許可をもとめた。ウァレンス帝はこれを認めた。これが「ゲルマン人族の大移動の始まり」であった。378年ゴート族とトラキア地区の軍司令官の間で衝突が起き軍司令官側が敗北し、ウァレンス帝はローマ軍を率いてアドリアノープルでゴート軍に大敗し戦死した。帝国東半は皇帝を失いウァレンティ二アヌス2世は幼少だったので、テオドシス1世が即位した。379年テオドシスはドナウ川中流域の拠点都市シルミウムで東ローマ帝国の皇帝となった。

(つづく)


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