ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 パスカル著 「パンセ」 岩波文庫 上中下

2018年06月14日 | 書評
17世紀フランスのモラリスト文学の最高峰 パスカルの人間研究と信仰告白に迫る 第16回

5) キリスト教護教論

Ⅱ 人間と理性の領域

「パンセ」には護教論の構想と直接関わるとは思えない人間学的考察が、とりわけ雑纂の部類に残されている。Bファイル(3-31)には、精神の働きとタイプ、言語とコミュニケーション、美と美的体験、紳士の資質、法律と正義の根拠といった多岐にわたるテーマを論じている。これらの断想がモラリスト文学として「パンセ」の魅力として愛読されてきた。パスカルが「神なき人間」で言及する考察は人間の在り方と行動をありのままに観察し価値判断なしにさらけ出している。人間は己の領域を超えて全体を支配する支配欲から遁れられず、人間の感情、欲求、信念にはそれを正当化する根拠がない。それがむなしいということである。今ここにない願わしい目標に達することを幸福と考え、いつも幸福に飢えている。無限の空間、永遠の時間に飲み込まれる恐怖と虚無感、身体も頭脳も心情も変化してやまない人間に一貫した自分があるのだろうかという疑問は消えることは無い。本当に自分が存在するのだろうか。したがって自分が愛されることは不可能である。こういった悲観的で破壊的な考察は、予断を排した冷静な人間観察の結果はモラリスト特有の到達点である。キリスト教徒としてのパスカルの信念とどういう関係にあるのだろうか。キリスト教の最大の特徴はキリストの与えた愛であった。愛は対象とする人間の性質と価値を前提とするものではなく、神の愛は価値の評価に応じて注がれるのではなく、逆に愛が注がれることによって価値が創出されるのである。人の価値を前提とした人間的な愛は「卑しむべき私」を露呈する。このように「パンセ」のモラリスト的考察の背後には、護教論者のキリスト教的考えが常に控えている。パスカルが神中心、キリスト注進の強固な信仰を保持していたにもかかわらず、人間的領域の独自性とその価値に深い洞察を注いだ。それは個人の次元では「紳士」、集団の次元では政治社会の形成と維持に考えが及ぶのである。紳士の振る舞いはつまるところ私に偽装と隠蔽、自己愛の上手な使用かもしれないが、パスカルにとって紳士の特質は普遍性にあった。「…家」と呼ばれる専門家の肩書ではなく、「すべてのことについていくらかを知る」という意味で「普遍性」、バランスの取れた信念を表すものである。モンテーニュ-は「私という普遍的な存在」と呼んだ。社会的属性を剥ぎ取った一個の、しかし丸ごとの人間である。その自覚が社会的交流の糸口である。紳士の理想は、人間が堕落の中にあって、なお他者との全人的な交わりを可能とする証となると考えた。社会的関係の領域になると、自己中心的私と他人の私が共同して一定の社会経済政治的生活があるとした、19世紀のアダム・スミスの「国富論」がある。しかしパスカルの17世紀にはまだ共同社会は王国・領主国と教会の社会があるのみであった。「人々は欲心を基礎として、そこから統治と道徳と正義の素晴らしい規則を導いた」とパスカルは指摘した。この指摘はアダム・スミスの「道徳感情論」と同じ見解である。パスカルは政治社会の形成と秩序、秩序維持の指導理念となる正義と力の関係、それらを媒介する想像力などについて断片的ではあるが多くの考察を為した。むなしく惨めな人間が作り出す政治社会は君主制であろう共和政であろうと、政体の如何を問わず、不正を産みだし「狂愚」である。にもかかわらずある秩序が曲がりなりにも形成され平和がもたらされるのが見事だという。それに宗教を絡めると神権政治となる。それにはパスカルは反対する。宗教が政治に従属するのでもなく、政治が宗教に従属するのでもなく、政治に独自の論理と価値を見出すあくまで政教分離なのである。

(つづく)


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