ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 荒畑寒村著 「寒村自伝」 岩波文庫

2012年08月14日 | 書評
老兵が語る、日本労働運動・社会主義革命運動の失敗の歴史 第11回

5)ロシア革命と大正時代ー社会主義運動の復活(2)
  7月「新社会」は経営陣を堺、山川、高畠、山崎、吉川、渡辺、荒畑とし,編集責任者を荒畑寒村氏とした。「新社会」にはレーニンの「ロシア革命」、トロッキー「自叙伝」などの翻訳を掲載した。明らかにボルシェビキへの傾向を明らかにしたもので、度々発禁となった。労働組合運動は西尾末広氏の組織する大阪の職工組合期成同志会と、男爵渋沢栄一氏の庇護による「友愛会」があるのみであった。時代は職工という職業別組合から1産業を組織単位とする産業別組合を目指していた。政府は友愛会、信友会らの3団体を労働組合として認可したので組合運動は拡大した。大戦後の不景気が日本を覆い、富山の漁民の婦人らが「米騒動」を起こした。これは間違いなく「一揆」であった。寒村氏が米騒動の感想を発表すると、騒動の拡大を恐れた当局は安寧秩序違反で寒村氏、弁護士長野氏ら3名を逮捕した。「新社会」は高畠、遠藤、茂木、北原らの国家社会主義者の占拠するところとなって、国粋的(皇室中心主義)傾向が顕著となった。1918年2月寒村氏、山川氏は新社会から高畠一派を追い出し絶縁した。山川氏らは1919年(大正8年)月刊「社会主義研究」を発行し、共産主義の旗色が次第に鮮明となった。組合運動は、欧州大戦に伴う産業の発展、民主主義思想の台頭、ロシア革命の成功、米騒動一揆などによって次第に高揚期に入った。労働組合は労使協調路線の「友愛会」以外に1919年には70団体となり、ストライキ件数は500件、6万人となっていた。欧州大戦中に「工場法」が制定され、労働時間を14時間としたために労働運動が巻き起こったのである。労使間の自然発生的な賃金・労働条件争議が頻発したことで、組合運動も先鋭化の度を加えた。1919年3月に大阪の岩井金次郎氏が創刊した「日本労働新聞」に寒村氏は穏健な筆風で寄稿し援助を惜しまなかった。堺、山川氏の運動には労働運動との接点が全く無かったようだ。
(つづく)


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