ブログ 「ごまめの歯軋り」

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死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年02月01日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第17回

Ⅲ.原民喜著著 「原民喜全詩集」 岩波文庫(2015年7月) (その1)

1941年(昭和16年)、原民喜はリルケの詩に出会い強く打たれたという。原にとってリルケは心惹かれる懐かしい作家の一人である。リルケは詩人を志す若者に宛てた手紙の中(若き詩人への手紙)でこう書いた。「あなたが書かずにはいられない根拠を深く探ってください。それがあなたの心の最も深いところに根を張っているかどうかを調べてごらんなさい。何よりもまず、あなたの夜の最も静かな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい。私は書かなければならないのかと」 詩人とは単に詩を書き記す者の呼称ではない。むしろ詩によって生かされている者のみに捧げられるべき名である。そういう意味で民喜は詩人である。小説「夏の花」がよく読まれているとしても、民喜は稀有な詩人である。民喜の生涯も死に始まり死で閉じられた。民喜は10代の初め家庭内同人誌にすでに詩を書いている。しかし生前に詩集を世に問うことは無かった。彼が亡くなって4か月後1951年7月に「原民喜詩集」が細川書店から刊行された。1944年9月妻貞恵が病のために亡くなる。まさに伴侶というべき存在で、うまく世間と付き合えない夫の通訳として相談相手として彼を支えた。妻と死別してから彼は妻あてに手記を書き続けた。半身をもぎ取られた形の民喜は書き続けることでどうやら命をこの世に繋ぎとめている。「もし妻と死別したら、1年間だけ生き残ろう、悲しい美しい1冊の詩集を書き残すために」原民喜詩集はそういう作品集である。義弟の佐々木基一氏に宛てた遺書で民喜は「妻と死に別れてから後の僕の作品は、ほとんど全てが、それぞれ遺書だったような気がします」と書いている。原爆に遭遇して書き残すべきことが生じたため余計に5年間生きたような形になったが、妻が亡くなって6年半後に命を断った。詩集の原稿は遺書17通と共に自宅に置かれていた。そこには衝動的な他の要因は全く考えられず、計画されたとおりに実行されたこの世との別れであった。今も愛する妻を待たしてはいけない、心に誓った妻との約束をまもった律儀な夫であった。散文詩「一つの星に」には失意の原を慰めるために星の光となって現れる貞恵が描かれている。「わたしが望みを見失って、暗がりの部屋に横たわっている時、どうしてお前はそれを感じ取ったのか。この窓の隙間に、さながら霊魂のように滑り落ちて来て憩らっていた稀なる星よ」本書の「拾遺詩篇」に「かげろう断章」として収められている作品は、原民喜自身が遺稿として整理していたものである(未完であるが)。1956年青木文庫版「原民喜詩集」に初めて収められた。これらの作品のほとんどは4行詩である。民喜は俳句の枠を破って創造した形式である。夜は、民喜にとって妻と言葉を交わすひと時であった。昼間の喧騒は使者からの呼びかけはかき消されてしまう。星あるいは月の光は彼にとって妻の来訪をを告げるものであった。月光は「新しい望み」であることを啓示する。青木文庫版「原民喜詩集」は大きく3つに分けられる。散文詩群、「原爆小景」、「魔のひと時」である。「原爆小景」の最初に置かれた「コレガ人間ナノデス」を記す。

(つづく)



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