⑮姿見坂(500m)<上から下へ>
姿見坂(上から)
かって、坂の上にあった遊郭に因む名で、遊女達のあで姿が見られたことからこの名がついた。遊郭は江戸の吉原を模し、付近は茶屋町と呼ばれて賑わいを見せたが、明治4年(1871年)の大火で焼失し、蓬莱町(現宝来町)へ移った。(坂標より)
途中の主な建物等~(上)姿見坂から眺める北側の大黒通り
(左下)姿見坂から眺めるバス通りの歴史を感じる住宅 (右下)旧大黒湯
姿見坂(下から)
⑯幸坂(650m)<下から上へ>
幸坂(下から)
昔、坂の中ほどに神社があり、これを神明社といったので、この坂も「神明坂」と呼ばれた。
神明社は明治7年(1874年)山上(やまのうえ)大神宮と現在名に改め、のち坂の最上部に移転した。
明治8年、坂下の海岸が埋め立てられ、幸多かれと幸町(現弁天町)ができたので町名に従い「幸坂」となった。(坂標より)
途中の主な建物等(その1)~(左上)妻の叔父の骨とう品倉庫兼店舗「大正館」 (右上)中腹にある幸小学校跡地の碑
(左下)中腹に立つ坂標 (右下)幸坂から眺める大谷派別院船見支院
途中の主な建物等(その2)~(左上)旧ロシア領事館 (右上)突き当たりに建つ山上大神宮
(左下)と旧常盤小学校跡地の公園 (右下)旧常盤小学校記念碑
幸坂(下から)
⑰千歳坂(400m)<上から下へ>
明治12年(1879年)の大火以後にできた坂で、昔、坂の東側に神社があり、ここに松の木があったので、千歳の松に因んでこの名が付いた。「松蔭坂」とも呼んだ。それ以前は、東側に短い坂があって「神楽坂」と呼んでいた。これは神社の神楽殿に由来したものであった。(坂標より)
途中の主な建物等~(左上)上の坂標 (右上)鯨族供養塔
(左下)旧西中学校 (右下)伴田米穀店~大正5年ころに開業医の住居兼診察所として建てられたもの。
千歳坂(下から)
⑱船見坂(400m)<下から上へ>
船見坂(下から)
港に出入りする船舶がよく見えることから、明治6年(1873年)坂上を船見町と名付け、
その町に通じる坂なので「船見坂」と呼んだ。
また、称名寺の下の坂なので「称名寺坂」とも呼ばれた。戦後、上が校地となり坂は途中までとなった。(坂標より)
途中の交差点に建つまだ現役の「大正湯」~これ以外目に付く建物はなかった。
船見坂(上から)
⑲魚見坂(400m)<上から下へ>
坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利なところだってのでこの名が付いたと言われている。
この坂の上の方は昭和40年まで台町という町名だったので、最近まで「台町の坂」とも呼ばれていた。(坂標より)
『新編函館町物語』(元木省吾著・玄洋社刊)は、「(坂は)明治以前からあったが、狭くて交通も不便であるし、火防上もまずいので、台町遊郭の営業者が、土地の買収費や家の立退料など出して、明治18年(1885)2月21日開通させたものである。」と述べている。
途中にある主な建物等~(左上)魚見坂の上へ続く道~上には高龍寺があり、その先は外人墓地へ続く。 (右上)上にある旧西小学校
(左下)下にある「新撰組最後の地碑」「魚見坂の下の坂標」「弁天台場跡説明板」 (右下)下にある厳島神社
魚見坂(下から)
次回は、坂道紹介~19坂以外の名前のある坂道