癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

函館坂道紹介~その4 ⑮姿見坂 ⑯幸坂 ⑰千歳坂 ⑱船見坂 ⑲魚見坂

2019年10月16日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

⑮姿見坂(500m)<上から下へ>

 姿見坂(上から)
 かって、坂の上にあった遊郭に因む名で、遊女達のあで姿が見られたことからこの名がついた。遊郭は江戸の吉原を模し、付近は茶屋町と呼ばれて賑わいを見せたが、明治4年(1871年)の大火で焼失し、蓬莱町(現宝来町)へ移った。(坂標より)


 途中の主な建物等~(上)姿見坂から眺める北側の大黒通り 
(左下)姿見坂から眺めるバス通りの歴史を感じる住宅 (右下)旧大黒湯


姿見坂(下から)

⑯幸坂(650m)<下から上へ>

 幸坂(下から)
 昔、坂の中ほどに神社があり、これを神明社といったので、この坂も「神明坂」と呼ばれた。
神明社は明治7年(1874年)山上(やまのうえ)大神宮と現在名に改め、のち坂の最上部に移転した。
明治8年、坂下の海岸が埋め立てられ、幸多かれと幸町(現弁天町)ができたので町名に従い「幸坂」となった。(坂標より)



 途中の主な建物等(その1)~(左上)妻の叔父の骨とう品倉庫兼店舗「大正館」 (右上)中腹にある幸小学校跡地の碑
 (左下)中腹に立つ坂標 (右下)幸坂から眺める大谷派別院船見支院


 途中の主な建物等(その2)~(左上)旧ロシア領事館 (右上)突き当たりに建つ山上大神宮 
(左下)と旧常盤小学校跡地の公園 (右下)旧常盤小学校記念碑


幸坂(下から)

⑰千歳坂(400m)<上から下へ>

 明治12年(1879年)の大火以後にできた坂で、昔、坂の東側に神社があり、ここに松の木があったので、千歳の松に因んでこの名が付いた。「松蔭坂」とも呼んだ。それ以前は、東側に短い坂があって「神楽坂」と呼んでいた。これは神社の神楽殿に由来したものであった。(坂標より)


 途中の主な建物等~(左上)上の坂標 (右上)鯨族供養塔 
(左下)旧西中学校 (右下)伴田米穀店~大正5年ころに開業医の住居兼診察所として建てられたもの。


 千歳坂(下から)

⑱船見坂(400m)<下から上へ>

 船見坂(下から)
 港に出入りする船舶がよく見えることから、明治6年(1873年)坂上を船見町と名付け、
その町に通じる坂なので「船見坂」と呼んだ。
また、称名寺の下の坂なので「称名寺坂」とも呼ばれた。戦後、上が校地となり坂は途中までとなった。(坂標より)



 途中の交差点に建つまだ現役の「大正湯」~これ以外目に付く建物はなかった。


 船見坂(上から)

⑲魚見坂(400m)<上から下へ>

 坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利なところだってのでこの名が付いたと言われている。
この坂の上の方は昭和40年まで台町という町名だったので、最近まで「台町の坂」とも呼ばれていた。(坂標より)
 『新編函館町物語』(元木省吾著・玄洋社刊)は、「(坂は)明治以前からあったが、狭くて交通も不便であるし、火防上もまずいので、台町遊郭の営業者が、土地の買収費や家の立退料など出して、明治18年(1885)2月21日開通させたものである。」と述べている。



 途中にある主な建物等~(左上)魚見坂の上へ続く道~上には高龍寺があり、その先は外人墓地へ続く。 (右上)上にある旧西小学校
 (左下)下にある「新撰組最後の地碑」「魚見坂の下の坂標」「弁天台場跡説明板」 (右下)下にある厳島神社


 魚見坂(下から)

 次回は、坂道紹介~19坂以外の名前のある坂道

「江差漆工房」ほか

2019年10月15日 | 日常生活・つぶやき

 昨日の天然記念物「ヒノキアスナロ・アオトドマツ自生地」探索会の前夜、この「江差漆工房」に泊めていただいた。
 江戸時代に建てられた土蔵を改造して、2階建ての工房として活用している。ゲストハウスも兼ねているとか・・・。
 中に入って見て驚いたのが、改造も見事だが、床板、柱、梁、天井など木材部分はすべてが塗り漆でピカピカだったことである。
 古民家好きとしては、感激の造りだった。


 玄関を入ってすぐの土間と左側の居間


 居間の様子~ピンボケなのが残念


 前夜催された参加者の一部の方々との顔合わせの宴会。オーナーの室谷さんは遅れて参加。


 居間の天井もすべて漆塗り


 別の小部屋


 寝させていただいたワンフロアの2階


 前北海道知事高橋はるみ氏と前々知事の堀達也氏の色紙が飾られていた。

◎オーナーの室谷元男さん


 他サイトから借用
 今回の探索会の最大の協力者で、地元の参加者をすべて集めてくださった方である。
 本人は探索会には参加されなかったが、町の天然記念物をなんとか観光資源を活用できないかと考えてのことらしい。
 「江差町歴まち商店街」元理事長で、まちづくりグループ「江差いにしえ資源研究会」会長という名士である。
 初めてお会いしたが、江差町の歴史を活かしたまちづくりのさまざまな活動の中心になっている凄い方である。
 昨日も、下山後寄らせていただいたが、参加者から次々とお礼と感想の電話が寄せられていた。

 本業は塗料店だが、築100~200年の家屋を壊す時に出た、柱や梁に漆を塗り、テーブルやいす、お椀や箸等を作っているのだとか。
 江差の産業として根付かせるために、漆の植樹もしているそうだ。
 函館の「ギャラリー村岡」さんで、その江差漆器が展示されているらしい。


 昨日、帰る前に見せていただいた、いにしえ街道にある自ら経営している「皐月蔵(さつきぐら)チャミセ」。
 築160年の4棟連なる土蔵を改装した、カフェでありコミュニティスペースである。


 両側が土蔵の通路。昔は、このまま海に繋がっていたのであろう。
 両側には、本州から北前船で運んできた石材が使われていた。 


 イベントスペースかと思われる広いスペース


 見事な江差のヒバ材を使った梁や天井


 その前のいにしえ街道を写す。

 今度、ゆっくり江差の歴史探訪もしてみたいと思いながら、帰路に就いた。

江差・天然記念物「ヒノキアスナロ・アオトドマツ自生地」探勝会

2019年10月14日 | 登山・旅行

古事の森駐車場でのスタート前の開会のあいさつと自己紹介

過去2回下見に行った江差の天然記念物「ヒノキアスナロ・アオトドマツ自生地」だが、今日はその本番だった。

20年前に北海道新聞社江差支局長だった札幌の黒川さんが企画して、函館の自分が地元の方々をガイドするという、
ちょっと変わった探勝会となった。
参加者は、15年振りにこのコースを歩いたという超健脚84歳の北のひば山倶楽部会長の坂野さん(旧江差営林署OB)を初め、
江差高校OBの山岳会(船橋・札幌・七飯から参加された4名)、町役場職員OBや現職の方々、檜山振興局職員などなど、
20代までの14名という大所帯となった。

登山の経験のほとんどない方もいて少し心配だったが、ほぼ藪漕ぎ状態のコースをなんとか無事に踏破することができた。
Saさんの随所での詳しい解説をいただき、非常に中身の濃い探索会となった。


コースは、2回目の下見と同じコースだったが、スタート前に「檜山古事の森」へ寄って、坂野さんから説明をしていただいた。

8:00古事の森駐車場スタート~9:10九曲りへの下り口~10:15稜線分岐~11:45沢への下り口~12:30竜巻沢~14:35ゴール。
所要時間6時間35分。人数が多いので、自分が一人で下見に行ったときより2時間多く掛った。
沢へ降りる急斜面で岩に躓いて空中前転をした方もいたが、なんとか全員無事に下山することができて、大きな役目を果たすことができた。


檜山古事の森の案内板~歴史的建造物の修復に備えヒバを4百年かけて育成する「檜山古事の森」を江差町内の国有林に設定した。
古事の森は作家・立松和平氏の提唱により林野庁が全国展開しており、檜山古事の森は、全国3番目、ヒバ初のものである。


古事の森の中のヒバ(ヒノキアスナロ)の大木について説明する坂野さん


廃道化して藪に覆われた椴川林道を1時間以上歩き、沢に降りる。


沢を渡り、ヒバ林の中の九曲りを登る


稜線分岐で休憩


稜線分岐の上で坂野さんから教えていただいた300年前の山火事で焼けたヒバの痕跡。
上ノ国の方から燃え広がった山火事はここでストップしたそうだ。


これも同じく山火事の痕跡。


自生するここが南限のアオトドマツ。ちなみにヒバは北限。それが一緒に生えていることも天然記念物に指定された一つの要素である。


竜巻沢へ下りる地点で昼食タイム


竜巻沢へ下りる急斜面。下の右の方がここで空中前転をされた方。


竜巻沢へ下りた地点に生える逞しい根元曲がりヒバ


倒木が多く、跨いだり、潜ったり、迂回したりとすんなり歩けない竜巻沢。しかし、キノコをたくさん採った方もいた。


前の2回で目にできなかった奇怪な幹のブナの古木


椴川林道へ出た地点の天然記念物指定の記念碑。指定は大正11年だが、建設は昭和41年。

林道を400mほど歩いて、古事の森駐車場へゴールして、解散。

過去2回の下見の様子は、下記でどうぞ!
9月2日の下見の様子
9月26日の下見の様子

前泊させていただき、帰りもお邪魔した「漆塗工房やまも」さんの建物と江差では超有名人のご主人のことは、明日アップ予定。

函館坂道紹介~その3 ⑩日和坂 ⑪基坂 ⑫東坂 ⑬弥生坂 ⑭常盤坂

2019年10月13日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ


⑩日和坂(ひよりざか)(300m)<下から上へ>

日和坂(下から)
 坂の上から港の景色を一望でき、空模様をよく判断できるということからこの名が付いた。
また、坂の上にある船魂神社辺りからはトビの飛ぶ姿がよく見えたことから、坂の上の方を「トビ坂」と呼んだ。
日和もトビも共に天気に関係がある。(坂標より)



 途中の主な建物~(左上)日和坂から眺めるバス通りの古民家 (右上)ここで少し鍵形になっている。
(左下)右の建物は日和館(大正10年築、函館市伝統的建造物) (右下)船魂神社(北海道最古の神社といわれ、源義経にまつわる伝説もある


 日和坂(上・古民家カフェ「花かんろ」の横から)

⑪基坂(もといさか)(300m)<上から下へ>

基坂(上・元町公園下から)~真下は海上自衛隊函館基地隊(昔の函館税関)
 かっては、函館から札幌へ向かう函館本道の起点で、坂下に里数を計る元標が建てられていたので
「基坂」といった。坂の上は函館奉行所があった中心地で、江戸時代には「お役所坂」、「御殿坂」とも呼ばれた。(坂標より)



 途中の主な建物等~(上)上の坂標と基坂 (左下)旧イギリス領事館 

基坂(下から)~突当たりが元町公園

⑫東坂(あずまざか)(400m)<下から上へ>

 東坂(下から)
 明治12年(1879年)の大火までは弥生小学校の東半分に浄玄寺(現東本願寺別院)があり、
その下に坂が二本あった。西側の坂を「浄玄寺坂」。東側の坂を「東の坂」または「白鳥坂」ともいった。
大火後、坂は一本になり上まで通された。いまの「東坂」はその名残である。(坂標より)



 途中の主な建物等~(上)バス通りから東坂を見上げる (左下)中華会館 
(右下)旧小林写真館( 明治40年築・現存する写真館として北海道最古の洋風建築。2009年全面改装)


東坂(上から)

⑬弥生坂(500m)<上から下へ>

 弥生坂(上から)
 明治12年(1879年)の大火後改良された坂で、それまでは浄玄寺(現東本願寺別院)、
称名寺、実行寺が並び、「寺町の坂」といわれた。「弥生」とは、「春」を意味し、発展を祈念して付けられたといわれている。
明治15年(1882年)、坂の横に小学校ができ、坂名に因んで弥生小学校と名付けられた。(坂標より)



 途中の主な建物等~(左上)咬菜園跡~箱館戦争時、旧幕府軍総裁の榎本武揚は、幹部6人と共に、
今宵最後と一夜の清遊をここで試みたといわれている。現在は私有地となっている。
(右上)函館聖マリア教会~荘厳なゴシック様式のウエディングチャペル。 
(左下)旧愛宕中学校跡~グランドは弥生坂のずっと上にあった。 (右下)弥生小学校


 弥生坂(下から)

 弥生坂は聖マリア教会から下となっているが、この上に細くて急な路が続いている。突き当たりは老人ホームが建っている。
途中右手には、箱館戦争ゆかりの地として、己巳役(きしのえき)海軍戦死碑がある。

 この上に続く細くて急な坂は、昔は「薬師坂」または「七面坂」と呼ばれたようだ。
この道は、要塞になる前の薬師山参拝道だったようで、山腹に鳥居の遺構があるとのことでそれを探しに行ったことがある。
老人ホームの上に旧愛宕中学校のグランド跡地が残っていた。
http://sakag.web.fc2.com/hako13p-1.htm

 また、七面山だが、調べてみたら、古地図を見ると御経石がある山の一角が「七面山」と記されている。
この道からそこへの参拝道があったのだろう。実行時の境内にも「七面山」の石碑がある。
  
⑭常盤坂(500m)<下から上へ>

 常盤坂(下から)~ナナカマドの並木が印象的


 突き当たりの下にある古民家カフェ「ごはん おやつ シプル」(6月撮影)~これ以外特に目に付く建物等はなかった。


 常盤坂(上から)

 次回は、⑮姿見坂 ⑯幸坂 ⑰千歳坂 ⑱船見坂 ⑲魚見坂

函館坂道紹介~その2 ⑤南部坂 ⑥二十間坂 ⑦大三坂 ⑧チャチャ登り ⑨八幡坂

2019年10月12日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

⑤南部坂(450m)<下から上へ>

 南部坂(下から)
 幕府は、外国船の蝦夷地(北海道)近海への出没や、ロシアの南下など多難になってきたため、寛政11年(1799年)蝦夷地を直轄し、防衛のため奥羽諸藩に警備を命じた。日高海岸以東の警備にあたった南部藩の元陣屋がこの坂上にあったので「南部坂」と呼ばれた。(坂標より)


 途中の主な建物~(左上)函館まちづくり交流センター(旧丸井今井デパート) (右上)洋風居酒屋南部坂 (左下)坂道の名前の由来となった南部藩屋敷跡・旧NHK放送局跡(※学生時代にはまだここにNHK放送局があり、ここでアルバイトしたことがある) (右下)函館山ロープウェイ山麓駅


 南部坂(上から)~上の方は非常に急な坂道である。

⑥二十間坂(400m)<上から下へ>

 二十間坂(上から)
 かって、坂上に大工や工人が多く住んでいたことから「大工町坂」とも呼ばれた。函館は大火が多く、明治12年(1879年)の大火後、防火帯としてできた坂で、路幅が二十間(約36m)あるので「二十間坂」と呼ばれた。(坂標より)
 『新編函館町物語』(元木省吾著・玄洋社刊)には「道幅が二十間あるからついた名だが、昔は緑坂といった。それも明治11年頃までの地図にはどれにも出ていない。明治10年代の終りにできたものであろう」とある。



 途中の主な建物等~(左上)上の坂標識 (右上)全国最初の鉄筋コンクリート造りの東本願寺函館別院 (左下)創業1879年(明治12年)の五島軒 (右下)下の坂標識


 二十間坂(下から)

⑦大三坂(300m)<下から上へ>

 大三坂(下から)
 昔、坂の入口に大三という家印の郷宿があったのでこの名が付いた。郷宿というのは、地方から公用で出てくる村民が泊まった宿である。それ以前は、木下という人の家があったので「木下の坂」といった。昭和62年「日本の道百選」に選ばれた。(坂標より)


 途中の主な建物~(左上)数年前にリノベーションされた大三ビルヂング (右上)「日本の道百選」の石碑 (左下)亀井勝一郎生誕の家 (右下)函館カトリック教会


 大三坂(上から)

⑧チャチャ登り(100m)<下から上へ>

 チャチャ登り(下から)~大三坂から続くハリストス正教会と聖ヨハネ教会の間の細くて急な坂。
 函館では珍しいアイヌ語の坂名で、幕末頃ついた名前らしい。チャチャとはおじいさんのことで、この坂が急なため、前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。(坂標より)


 途中の主な建物~(上)ハリストス正教会 (下)聖ヨハネ教会


 チャチャ登り(上から)

⑨八幡坂(300m)<上から下へ>

 八幡坂(上・函館西高校の階段から)~観光客に一番人気の坂。CMやドラマのロケ地や観光ポスターにも良く利用されている。かつて、CMで年配の夫婦が手をつなぎながらスキップするシーンのロケ地として評判となり、「チャーミーグリーンの坂」と呼ばれることもある。

 基坂上の函館奉行所付近にあった八幡宮が、文化元年(1804年)奉行所の拡張工事に伴い、この坂の上に移されたことからこの名が付いた。八幡宮は明治11年(1878年)の火災によって焼失し、明治13年に現在の谷地頭町に移った。(坂標より)


 途中の主な建物等~(左上)上の坂標識 (右上)上は専修学校ロシア極東大函館校・下は北海道国際交流センター(旧函館白百合高校校舎) (左下)街灯に設置されている吊り花壇 (右下)レストラン 函館八幡坂Story


 八幡坂(下から)

 次回は、⑩日和坂 ⑪基坂 ⑫東坂 ⑬弥生坂 ⑭常盤坂

◎超強烈な台風19号接近


 台風19号の勢力の強さが分かる衝撃的な画像

 過去最大級の大型で非常に強い台風19号の接近で、昨夜から東海・関東には激しい雨が降り続き、厳重警戒を呼び掛け避難勧告が出されている。
 今朝の段階ですでに道路の冠水等の被害も出て、早急な避難の呼び掛けを
いる。交通機関もほとんど運休となっていて、店舗も臨時休業のところが多い。
 今日の夕方から夜にかけて東海・関東に上陸する見通しである。特に台風15号で甚大な被害を受けた千葉県はダブルパンチである。



 NHKはずっと台風関連のニュース放映を続けて、関係地域の住人に速やかな避難を呼び掛けている。昼過ぎには、多くの河川が氾濫危険水位を超えている映像や避難場が映されている。

 北海道も深夜から明朝までは大荒れになりそうだが、幸いそれほど大きな影響はなさそうな感じだが…?

「バリューストア ミニコス」初訪問in函館駅前ビル

2019年10月11日 | 日常生活・つぶやき

 
 最近、「コストコ」とか「コストコ商品」という言葉を見聞きするようになった。コストコとは、もともとは、正式社名:Costco Wholesale Corporation)というアメリカ合衆国に本社を置くウェアハウス・クラブ(会員制倉庫型卸売・小売)チェーンである。

 コストコのストアコンセプトは、入荷したままのパレットに乗っている商品を大型の倉庫に並べて販売することにより、管理や陳列にかかるコスト(費用)などを徹底的に抑える倉庫店スタイルである。入荷した商品は閉店後の深夜にフォークリフトで店内に運び、パレットに載せたままの状態で販売することが特徴らしい。

 今年の8月に「函館駅前ビル(旧ボーニアネックス)」の唯一空いていた4階に、コストコ商品を取り扱う「バリューストア ミニコス」がオープンした。会員登録が不要で、コストコから仕入れた商品が購入できるとのこと。運営会社は「キングベーク」だそうだ。
 市内ではキングストア堀川店でも、昨年末くらいからコストコ商品の取り扱いしているという新聞記事を読んだことがある。

 妻に付き合って初訪問してみた。割とがらんとしたフロアだが、大容量単位の商品ばかりずらっと並んでる。いわゆるアメリカンサイズというタイプのものばかり。お菓子、食材、調味料、冷凍食品、酒類、生活雑貨などが扱われていた。











 コストコ商品だけでなく、日本製品でもこの販売形態に合わせた大容量の商品がたくさん扱われていた。


 我が家の購入品。右上のアドベンチャーミックスは登山の行動食用。左下の冷凍ピザは直径42cm(2000円)。


 早速切り分けて(左側のはさらに細かく切り分けて)冷凍庫へ。

 妻は、安い炭酸水を買うつもりだったが、すでに売れ切れて、高いのしか残っていなかった。
 ただし、高額になるのに、現金のみの取り扱いで、電子マネーやクレジットカードは利用できないのが残念だ。2000円以上購入したら、近くのタイムズ(旧ボーニの駐車場)が無料になった。
 まあ、2人暮らしではそう何度も利用するところでもなさそうだが・・・。

函館山ふもと「19の坂道」全踏破ウォーキング & 坂道紹介~その1

2019年10月10日 | ウォーキング・ジョギング・マラソン

 函館山の麓には海に向かって名前の付いた坂道が19本並んでいる。これらは函館が箱館といわれた、開港間もない時代の中心が函館山ふもとの西部に集中していたことによるもので、当時の函館を偲ばせる名前が現在も残っている。この坂道を含む景観が西部方面の観光地の一翼を担っていると言っても過言ではない。

 なお、いろいろ調べていたら、この19のほかに、昔から名前の付いてる「さくら坂」「地獄坂」「すりばち坂」「テンコの坂」「みやま坂」という5つの坂もあるようだ。

 これらの坂道は部分的に歩いたり見たりはしているが、これらのすべてを意識したことはなかった。19本あるということも今回初めて知ったくらいである。
 そこで、今日はとりあえず、青柳坂から魚見坂までの19本の坂道をすべて繋いでウォーキングがてら、写真を撮りながらじっくり歩いてみようと思った。妻も仕事の原料が切れたので一緒に行きたいと言う。


<本日歩いたコース>

 車を青柳坂の近くに置いて、青柳坂の下からスタート。同じ坂を往復するのではなく、下から上まで登ったら、次の坂の上から下まで下るを繰り返すようにした。

 歩いた距離は、スタートの青柳坂の下からゴールの魚見坂の下までで約10.5km。9:50にスタートし、魚見坂下でゴールしたのが13:30で、所要時間3時間40分だった。
 さらに、途中で昼食を食べて、車を置いてある地点までの歩きが2.5kmで、合計13kmのアップダウンウォーキングだった。歩数計は約21,000歩。

 これまで歩いてじっくり見ることは少なかったので、いろいろ収穫が多かった。それらを含めて撮った写真を中心に、数回に分けて紹介する予定である。

坂道紹介~その1~まずは、①青柳坂、②あさり坂、③護国神社の坂、④谷地坂

①青柳坂(約400m)<下から上へ>

青柳坂(下から)
 昔はこの坂を「聖天坂(しょうでんさか)」といった。聖天とは大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)という仏教の守護神のことで、坂の途中にある天台宗天佑寺にまつられている。昭和40年まで坂上に春日町があったため「春日坂」ともいわれた。現在は、青柳町の方へ向かって登ることから「青柳坂」と呼ばれている。(坂標より)



 途中の主な建物~(左上)別名の「聖天坂」の名の由来となった大聖歓喜天を祀る天佑寺 (右上)古民家を利用した居酒屋「桜路」 (下)青柳小学校


青柳坂(上から)

②あさり坂(約300m)<上から下へ>

 あさり坂(上から)
 明治11年(1878年)、英人ジョン・ミルン、米人エドワード・モースらが来函し、函館在住の英人ブラキストンと協力して貝塚などを発掘したが、この坂の付近から古代人が食べたアサリ貝の殻が数多く発見されたので「あさり坂」と命名された。(坂標より)


 途中の主な建物~(左上)人気老舗の佐々木豆腐店 (右上)旧井上米穀店~看板がはずれされてしまったのが残念 (下)あさり坂下の阿佐利精肉店~店名は坂の名前に由来。


あさり坂(下から)

③護国神社の坂(約700m)<下から上へ>

 護国神社の坂(下から)~高田屋嘉兵衛の銅像と函館山
 別名「汐見坂」ともいい、昔は「招魂社の坂」とも「倒産坂」ともいった。汐見坂は坂上に汐見町ができ、その町名からとったもの。招魂社の坂は明治2年(1869年)に建立された招魂社(現 護国神社)に登る坂ということから呼ばれ、現在の名になった。倒産坂は坂に面して門を立てると罰が当たって“かまど”がつぶれるといわれ、昔は門を坂に面しないようにした。(坂標より)

<追記>明治2年に、「招魂場」、その後招魂社と変わったらしい。境内に高田屋の亀石を使用した「招魂場」の石碑があるとのこと。(ご指摘いただきました)


 途中の主な建物~(左上)千秋庵総本家 (右上)茶房ひし伊~旧入村質店の建物を改造。3回の大火すべてに焼け残ったのは、函館でもここの3棟だけとのこと。(左下)ツタが絡まる石灯篭 (右下)函館市公民館


 護国神社の坂(上から)

④谷地坂(約300m)<上から下へ>

谷地坂(上から)~初めて通った路だった。
 この坂と道路は昭和9年の大火などでいくらか変わってこそいるが、大体においてほぼ同じ位置で江戸時代からあったもの。谷地頭(やちがしら)は昔、遊興地として有名になったので、そこに行く坂として付けられたものらしい。(坂標より)


 谷地坂(下から)~特にめぼしい建物はなかった。

  <追記>どうやら「谷地坂」の位置は違うようで、はこだて検定のテキストの最新版から削除されたらしい。
 地元では谷地坂と呼ばれていないが、函館市が谷地坂という坂標を立ててしまったらしい。その根拠は1982年の北海道新聞社刊「はこだて歴史散歩」にそう書いてあったから、というのが理由とのこと。
 古地図研究家の著書には、もう1本十字街寄りの道を「谷地ノ坂」としている説もあるそうだ。

 残りの⑤から⑲までの「坂道紹介」は3回に分けて、順次アップしていく予定。

400勝投手金田正一氏の死去に思う

2019年10月09日 | 日常生活・つぶやき


 プロ野球に興味を持ち始めた子供のころから印象に残っている選手を5名上げるとしたら、長嶋、王、金田、野村、稲尾である・・・その金田氏が10/6に86歳で亡くなった。

 記録の数字だけでも改めて眺めても凄いのひと言である・・・日本プロ野球史上唯一の通算400勝達成投手にして、同時に298敗の最多敗戦記録をもつ。更に通算奪三振(4490奪三振)、通算完投(365完投)、通算イニング(5526回2/3)、通算対戦打者(22078打者)、通算与四球(1808与四球)はいずれも日本記録。NPB史上最年少ノーヒットノーラン達成者。史上2人目の沢村栄治賞3回受賞者。
 このほかの日本記録として、シーズン20勝以上:14年連続14度)、64.1イニング連続無失点、最年少200勝達成:24歳309日、公式戦開幕投手:14度(国鉄10度・巨人4度)、連続シーズン100奪三振以上:16年もある・・・・どれを見ても、今では考えられない数字ばかりである。

 何より凄いと思うのは、14年間在籍した国鉄スワローズは、9年間が5位か6位という弱小球団だった。その球団での勝利記録である。もし、最初から打者の援護をもらえる常勝球団の巨人に在籍していたら、あと50勝は確実に増えていたと思う。しかし、弱小球団ゆえに反骨精神を燃やし続けたと言えるのかもしれない。今でも記憶に残る長嶋氏のデビュー戦を4打席4三振で仕留めたシーンなどは、その典型かもしれない。

 引退後はロッテオリオンズ監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めたが、現役時代の実績だけでなく、その強烈なキャラクターと温かい人柄で多くのファンに愛された方である。

 このたびの逝去に当たって、いろいろな方が思いを語っている。同じ反骨精神では共通の野村克也氏の話が一番面白い。
 野村氏は、400勝の根底にあったハングリー精神だと言っている。在日韓国人として生まれ、裕福とは言えない家庭で兄弟も多く、長男として弟たちの面倒を見るために高校を中退してプロに入ったという。

 また、練習量もケタ外れだった。シーズンオフは徹底的に身体を休ませるが、キャンプに入ると人が変わったように身体をいじめる。チームが課す練習は「生ぬるい」と言って、自分だけハードな別メニューを組んでいた。若手選手をいつもふたりくらい連れていってトレーニングをするのだが、若手が「きつすぎる」と音を上げていたという。

 また、食欲も怪物並みだったが、身体のケアに対しても細心の注意を払っていた。寝るときは左腕にサポーターをつけ、真夏でもクーラーは使わなかったし、ヒゲを剃るときも、カミソリでなく電気シェーバーを使っていた・・・そうだ。

 2度と現れることのない「怪物」だが、それなりの努力の結果だったということであろう・・・ご冥福を心から祈りたい。 

麺屋いっ徳の「二郎風極太坦々麺」

2019年10月08日 | 食べ物


 我が家からほど近い田家町に3年ほど前にオープンした麺屋いっ徳。オープンした時に行ったが、しょっぱかったという印象しかなかった。

 しかし、最近はいろいろなメニューが増えて、なかなか評判が良い。中でも、惹かれたのは、函館では貴重な二郎系のラーメンである。
 二郎系ラーメンとは、東京の「ラーメン二郎」を典型とするラーメンの系統を指す言い方。面は極太のわしわし麺、その麺を覆い尽くすほどモヤシ等の野菜が山盛りに盛られ、ニンニクや背脂などのトッピングを任意に選べる、といった点をおおむね共通の特徴としているらしい。

 この店の二郎系のメニューは「二郎風極太 ラーメン」と「辛シビ 二郎風極太 担々麺」の2種類のみである。
 坦々麺も好きだし、太麺も好きなので、「辛シビ 二郎系極太 担々麺」を食べてみたくて出掛けた。辛シビは辛くてしびれるということのようだ。自分たちが行ったときは増税前だったので880円だったが、現在は税込みで900円になっているらしい。


 このインパクトにまずは驚く。上は、唐辛子と花椒で真っ赤だ。他人の画像で見ていて知ってはいたが、これには思わず「おおすごい!」と思わず声を上げてしまうほどである。

 このままでスープだけを飲んでみたら、ほとんど辛くない。どうやらスープの中に入る唐辛子を上にかけているらしい。この唐辛子と花椒を混ぜて食べると辛シビレベルになるようだ。

 スープに混ぜながら食べてみたら、目で見るほど辛くはなかった。濃厚スープでニンニクも効いていて、好きな味だった。さらにお気に入りの極太麺が、これまた歯ごたえがあって美味しかった。またチャーシューも厚さが1cmほどもあり、これも美味しかった。癖になりそうな一品である。


 二郎系は麺の量も多いので、食べきれるかなと心配だった。そこで、妻には「台湾まぜそば」を注文してもらって、シェアして食べた。しかし、思ったほど多くはなかった。大丈夫食べきれる量だった。

 この台湾まぜそばもまた美味しかった。最近は博多風とんこつラーメンにも力を入れているようで、1番人気になっていた。次回はこれも食べてみたいものだ。

紅葉の名所「福原山荘」(鹿追町)ほか

2019年10月07日 | 登山・旅行


 かんの温泉への道道1088号の道すがら、たまたま目にした「福原山荘」の看板。駐車場が数ヶ所用意されているので気になって寄ってみた。
 9月中旬から10月中旬の約1ヶ月の間、期間限定で私有地が無料で一般に特別公開される紅葉の名所だった。

 敷地面積が8万5000平方メートルの個人の私有地。十勝地方に店舗を展開している「スーパー・フクハラ」の創業者である、福原治平氏の別荘の敷地。現在は、福原氏の美術コレクションを展示している「福原記念美術館」が、この福原山荘の管理・運営を行っているという。非常に手入れの行き届いた広大な庭園だった。















◎そのほかの光景


 かんの温泉の紅葉


 足寄川沿いの紅葉


 然別湖畔の紅葉


 然別湖畔の紅葉


 毛嵐の立つ然別湖


 陸別の道の駅~2006年に廃線となったふるさと銀河線の駅も兼ねていた。旧陸別駅周辺は、「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」として約1kmにわたって整備されている。


 ふるさと銀河線を走っていた車輌~銀河鉄道999をデザインした車輌もあった。構内にはふるさと銀河線を運行していた車両6両が動態保存され,乗車体験と運転体験ができる観光施設「りくべつ鉄道」として再出発している。2000円で運転体験ができるようになっていた。




 鹿追町の町民ホール前の動物をかたどった可愛い植栽。


 十勝と言えば、やはり豚丼~音更町の国道241号の町はずれにできた新しい有名店・豚丼専門店「かしわ」。水ナラの木炭を使用した炭火にこだわった炭焼きの肉がとても柔らかくて美味しかった。

「なつぞら」関連地巡りin十勝

2019年10月06日 | 登山・旅行
 昨日は、「なつぞら」のロケ地を巡りを中心にアップした。今日は、ロケ地以外の「なつぞら」と関連したことがらや場所を中心にアップしたい。

 4℃まで下がった寒い朝を迎えた道の駅しほろ温泉のすぐそばに、もう1ヶ所ロケが行われた場所があった。

◎今年の3月に閉校した士幌町下居辺小学校※なつの高校時代のワンシーンが撮影


 閉校前の昨年に9人の児童全員が見学する中でロケが行われたそうだ。
 場面は、小学校時代ではなく、なつが農業高校高校に入って、遅刻して怒られそうになった時に、遅刻の理由が「牛がお産をして遅くなった」で、注目を浴びたシーンである。


 そのロケのときに児童たちと一緒に写した写真。

◎柳月の「あんバタサン」~※ドラマの中の雪月の「おばたあんサンド」のモデルになった


 ドラマで雪月の「おばたあんサンド」が登場した時には、24時間体制で生産しても間に合わなかったそうだ。今でも1人2箱までと制限されていた。


 購入したのは昨日の帯広市内の支店だったが、今朝のコーヒーと一緒に朝食代わりに食べた「あんバタサン」と「なつどらクリム」。「なつどらクリム」は「なつぞら」が放映されてから登場したお菓子。

◎然別湖~※ドラマの中の演劇の演目やなつのデビュー作の「白蛇姫物語」はこの然別湖に伝わるアイヌ伝承


 今朝の毛嵐を上げる然別湖と唇山(天望山)


鹿追町にゆかりのある「なつぞら」の場面の紹介~毎年7月第一日曜日に然別湖畔で「白蛇姫まつり」が開催される。
アイヌ伝承の白蛇姫物語(クリック!)


 然別湖畔の紅葉


 然別湖畔の白雲岳・天望山登山口から然別湖と冬に2度登っているナイタイ山を眺める。

◎神田日勝記念美術館~※ドラマの中の天陽のモデルが神田日勝


 鹿追町にある神田日勝記念美術館~今年になって客が6倍に増えているという。


 撮影禁止なので、公式サイトから借用。凄い数の入館者だった。


 パンフレット


「なつぞら」グッズコーナー

◎共働学舎新得農場・ミンタル~※ヒロインの広瀬すずがロケの合間に良く訪れたカフェ


 新得のロケ地の近くにあるミンタルカフェと売店~今や「なつぞら」ファンの聖地となっている。


 我が家の昼食~広瀬すずが良く食べた一番人気の「ラクレットオーブン」(上)と「フロマージュ・ブラン」(下)


 昼前にはほぼ満席になっていた。ここも客が急増しているらしい。
 このあと帰路に就いて、19時30分には無事帰宅できた。「なつぞら」三昧の2日間だった。

 このほかに鹿追町の紅葉の名所「福原山荘」にも寄ったが、これは明日アップ予定。

「なつぞら」ロケ地巡りin十勝

2019年10月05日 | 登山・旅行

 9月末で終了したNHKの朝ドラ「なつぞら」、連ドラはほとんど観ない方だが、珍しくこれだけは、最初から最後まで欠かさず観続けた。留守の時は妻が録画してくれていた。ストーリーの面白さもあるが、大好きな十勝が舞台だったことも大きい。

 妻の希望もあり、その十勝を舞台としたロケ地巡りにやって来た。昨日の夕方に函館を出て千歳の道の駅まで走って車中泊。

 今朝は日勝峠を越えて、まずは新得町へ。ここでは「柴田牧場への道・放牧地」「柴田牧場家屋の玄関前と風呂場・新牛舎」が見られる。

 まずは、新得駅に寄ってみた。


 駅にも「なつぞら」コーナーがあった。出演者のサインも展示されていた。


 ロケ地巡りのパンフも用意されていて、それぞれの地図なども載っていたので、分かりやすかった。

しばた牧場への道(新得町)


 しばた牧場への道のロケセット入口。臨時駐車場も用意されていた。左奥に見えるのは、4回(冬2回、夏2回)登っているオダッシュ山。この山のお陰で、ドラマの最初から舞台は新得町だとすぐに分かった。
 この道をまっすぐ徒歩3分くらい進むと、柴田牧場の看板がある。


 しばた牧場の看板と木柵。


 なつが悩んだ時に座る丸太椅子。


 昭和20年代の設定で架けられたオダッシュ橋から看板を眺める。

 この場所では、実際に出会いや再会、別れ、冬のシーンなど多くのシーンが撮影された。ドラマが放映された現状のまま保存された、唯一のロケセットとのこと。
 
柴田牧場家屋の玄関前と風呂場・新牛舎(新得町)
 同じ新得町の国道38号を車で10分ほど富良野方面へ走ると、実際の北広牧場の施設の中にこれらのセットが公開されている。
 

 柴田家が住む家は、もともとは陸別町の昭和20年代に建てられた馬小屋を撮影用に改築したもの。美術スタッフによって家屋に見せる工夫が施され、家屋の三角屋根の玄関部を増築した。
 この家屋は、撮影終了後に陸別町から、玄関部分をここに移設し、一般公開している。




 柴田牧場の新牛舎~北広牧場の使われていない牛舎に、おとなしい牛を15頭入れて撮影をしたとのこと。


 牛舎の壁に貼られていた写真の中から。


 壁に貼られていた写真と牛舎のコーナーの様子。


 牛舎の入口に貼られていた出演者の顔写真一覧。


 ソフトクリームと顔出しパネル。

天陽の馬小屋(アトリエ)と天陽の家 (帯広市)
 これらは、帯広市の真鍋庭園で公開されている。車で1時間ほど移動。


 天陽の馬小屋(アトリエ)


 ドラマの中で天陽が描いたことになっている馬などの作品が展示されている。


 天陽の家~昭和30年代をイメージした家。


 ドラマでは、昭和20年代と30年代の2軒が使われたらしい。

柴田牧場のサイロ(陸別町)
 帯広から約100km北上して「日本一寒い町・陸別町」へ向かう。

 このサイロは、もともとロケで使われたものを、道の駅前多目的広場に移設して公開されている。


 もとのロケセットの写真。このサイロがここに、玄関部分は新得町に移設して公開されている


 道の駅の中の「なつぞら」コーナー。


 「なつぞら」関連のお土産物コーナー。

 これで十勝のロケ地巡りは終了。このあと、車中泊する道の駅しほろ温泉まで走って、入浴後にこのブログをアップ。

台風崩れの雨

2019年10月04日 | 日常生活・つぶやき




 台風18号は日本海に進み、昨日、温帯低気圧に変わった。今日はその低気圧が津軽海峡付近を通過する影響で夜半から雨が降り続いていた。しかし、風もなく、それほどの雨でなかった。昼前には止んで、午後には青空も覗いた。

 最近の台風は、必ずどこかに豪雨災害をもたらしている。今回の台風18号も、九州や四国に大雨を降らせた。温帯低気圧に変わって、珍しく函館付近を通過するというので警戒していたが、どうやら心配はなさそうである。しかし、道東には大雨警報が出されて、結構降っているようだ。その点、この函館は自然災害の少ない町である。

 9月中旬には一時的に寒くなって、東北の山旅では2℃という気温も経験した。函館もそのころは寒かったようだ。しかし、9月の下旬からは夏のような日が続いていて、この時期としては珍しく半袖と素足で過ごしている。今日もこの低気圧が南から暖かい空気を運んできたせいか、最高気温が23℃を超えたようだ。
 
 この低気圧も、明日には北海道を抜ける予報である。その後、一気に秋の気配が深まりそうな感じだ。遅れがちな紅葉もこれで少しは加速するだろう。

恵山・新ルート開拓(磯谷道峠~東尾根)

2019年10月02日 | 登山・旅行

 ホテル恵風の駐車場から、この後登る東尾根(左の尾根)を眺める。上に連なっている岩崖が気になった。

 磯谷道は、江戸時代から旧恵山町御崎地区と旧椴法華村の間を繋ぐ生活道路で、昭和40年代辺りまで利用されていた旧道である。
 2015年以来4度ほど歩いているが、そのたびに、記録は目にしたことはないが、峠から東尾根を山頂まで登ってみたいと思っていた。恵山の上部の斜面は基本的に薮がほとんどなくどこでも登れそうだからである。おまけに鹿道が発達しているので、それも利用できそうである。


 GPSトラックログをもとにしたルート図。

 ホテル恵風の駐車場を起点に、磯谷道~東尾根~山頂と登り、下山は正規の登山道(権現台コース~椴法華コース)を下って周回する計画を立てた。

 駐車場から見上げた感じでは、気になるのは、上の方に連なる岩崖である。良く見ると左端の方から巻けそうな気がする。最悪無理であれば戻っても良いと思ってスタートした。

 結果、やはり核心部は、岩崖を回り込む標高450からその上に続く急な岩尾根の標高550までの間だった。しかし、ここは期待した通り、はっきりとした鹿道が続いていたので、非常に助かった・・・というより、東尾根に取り付いてからは、山頂まで自分が考えていたルート通りに鹿道が続いていたと言った方が適切である。

 9:10ホテル恵風駐車場~9:40磯谷道の峠手前~10:55頂上1105~11:45権現台コース登り口~12:20ホテル恵風。 
 登り1時間45分、下り1時間15分、山頂休憩10分。総所要時間3時間10分。


 駐車場から工事用道路を登り、水無沢を横切って磯谷道に取り付く。下から水無沢を見上げる。
 この涸れ沢を遡行し、途中から右岸尾根(下から見て左の尾根)を登った記録が見つかっている。いずれはトライしてみたい。


 昨秋のライフスポーツ登山会の前に付けたテープがまだ残っていた。この先で、峠までは行かずに、右手の東尾根に取り付いた。


 東尾根に取り付いてすぐの・270地点を通過。このような岩がもう1つあった。


 鹿道ができている薮のない尾根を登って行く。


 400mを超えた辺りから450m付近の顕著な尾根の末端を狙って斜めに進むつもりだったが、鹿道もそちらへ続いていた。


 地図上の顕著な尾根の末端は、予想した通り、岩崖の末端だった。


 基部を辿って少し下ると、回り込む地点に鹿道ができていたので、それを利用して登った。


 回り込んで鹿道を辿ると岩尾根に出た。その岩の上からホテル恵風と恵山岬灯台を見下ろす。


 右上には、下から眺めたときに見えた岩崖が続いている。


 真上を見ると、これから登る岩尾根が見える。この尾根にも多分鹿道が続いているだろう。


 急な岩尾根だが、案の定、岩の間を縫うように鹿道が続いていた。ありがたくそれを辿らせていただく。


 途中から振り返ったら、恵山岬から続く幅広の尾根を横切る磯谷道がくっきりと見える。


 右下には、御崎の集落と漁港が見える。新しいコースは眺めが新鮮である。


 550mを超えると、斜度が緩んでくる。ここも鹿道を辿る。


 やがて、山頂の権現神社の白い鳥居が見えてくる。


 頂上到着。天気は良いのだが、霞んでいて、下北半島や遠望は見えなかったのが残念。
 おにぎりを食べていたら単独の男性が登って来た。飽きるほど来ている頂上なので、10分ほどで下山開始。

 10/27には、恵山支所主催の紅葉登山会で権現台コースの引率を依頼されている。また、10/21にはライフスポーツの秋の登山会で椴法華コースから岬展望へ登ることになっている。今日の下山コースはその下見も兼ねることになった。


 ちょっとコースを外れて、水無沢の上から下を覗きこむ。


 下って行くと、10数名のグループが登って来る。顔なじみの方が数名いたので挨拶をして別れた。


 恵山の一番の紅葉スポットである通称日本庭園は、ナナカマドの紅葉が目立つ程度だった。


 しかし、少し下って振り返ると、それなりに紅葉が始まっていた。登山会のときが楽しみである。10/21のライフスポーツ登山会はここを往復するが、10/27の恵山登山会もここまで下りて来るつもりだ。

 ホテル恵風の日帰り温泉とどぽっくるに入って帰路に就いた。


 帰路では、最新の鎌鹿さん情報で得た恵山ローソンのメガソフト(216円)を食べた。恵山をバックに撮影。

猫額庭最後の花

2019年10月01日 | 花・紅葉だより
◎クジャクソウ(孔雀草)

 6月に10cmくらいの苗を1株いただいて植えたのに、背丈90cm、幅75cmほどになり、無数の花と蕾を付けている。
 名前の由来は、孔雀が羽を広げたように枝を広げることによるとか。まさに!





◎狂い咲きのテッセン(鉄線)

 なぜか、下から新しい蔓を伸ばし、収集用のゴミ箱に絡みついて咲く3ヶ月遅れの「テッセン」


良く見たら、階段の手すりにも、これから咲きそうな蔓が伸びている。


 ほかのテッセンは、すでにこのような実を付けている。

◎狂い咲きのラベンダー

 毎年この時期に数輪は咲くラベンダー~狂い咲きなのか2度咲きなのか?現在も10輪ほど咲いている。