癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

<5日目>36築館宿~37高清水宿~38荒谷宿~39古川宿~40三本木宿〈32km〉(8時間35分)

2019年04月15日 | 登山・旅行
 今朝になって、すでに築舘宿に着いていることが判明。しかも、このすずはる旅館周辺が宿場の中心地だったとのこと。確かにそばに栗原市役所もある。宿の主人は、当時の面影を残すものはないという。見落としたものがあるかも知れないが、そのまま前進することにした。

 5:15、雨予報だったので、完全装備で玄関を出たら、すでに止んでいた。しかし、その後1時間ほどは降ったり止んだりを繰り返した。その後晴天になったが、風が非常に強かった。

 ここ2日間は好天で暖かかったので、ついに、開花したソメイヨシノが迎えてくれた。日当たりの良いところは、すでに3分咲きくらいにはなっていた。

築館宿~高清水宿

       
 宿の前の街道を下って行くと右手に「奥州杉薬師如来」の看板と登り階段が現れる。ここを登っていくと薬師堂の姥杉、樹齢1200年を越える杉の大木が現れる。落雷や火災にあったため上部は切断され、幹の片側は表皮がむけてしまって痛々しいが枝も繁っていて元気な様子だ。

     
 その先の交差点の間から地図上では街道が延びている。よく見ると、細い自然道は確かにある。それを下ってしばらく進むと、街道の正面に人家がある。そこで街道は行き止まり。左手奥は私有地で行き止まりとなっている。その民家の方の話によると旧国道を造るときに、旧国道の土地と街道だった土地とを交換し、畑にしてしまったので街道は消失してしまったとのことだった。少し戻って左へいけば国道にでられるとのこと。確かにガイド地図を見たら、そうなっていた。

     
 国道を少し進んでいくと、左へ入る。その先に、自然道が見え、奥州街道の標識がたっていた。昨日も歩いた昔のままの街道歩きとなる。

     
 昨日同様、見事なまでの苔まで生えた街道が保存されている。車止めもないのに、タイヤ痕もないことに驚く。

     
 昔のままの街道を抜け、車道に出たところに「明治天皇行幸記念碑」があった。

     
 その先の農道を進むと、石造りの奥州街道の標識が現れ、その先の右側に農道に転用されている自然道の街道が続く。

     
 その街道を進んで行くと、交差点に出る。その角に力石の山神様の碑がある。

     
 そのすぐ先に、石母田氏が百姓一揆勢を説得してくい止めたという「三迫百姓一揆旧蹟」がある。

     
 その先に再び保存整備されている街道があり、立派な標石が立っている。このような立派な標石はここまでで5本ほどあった。
 国道へ出たところにコンビニがあったので、サンドイッチとカフェラテの朝食とした。

     
 ついに、開花したソメイヨシノ第1号との対面である。そこは善光寺の境内だった。昨日までの2日間の好天で一気に咲いたようだ。このあとも、あちこちで目にすることができた。さらに南下する明日か明後日には満開のソメイヨシノを楽しめることだろう。

     
 この善光寺は、奥州藤原氏第二代の基衡が父清衡の菩提を弔う為に、信濃善光寺を模して創建したもので「阿弥陀如来像」が祀られている。

     
また、寺の入口には「北条塔」といわれる板碑や石塔が並んでいる。鎌倉幕府執権北条高時が新田義貞に敗れて自害したのを悼み、北条の縁者が建立したとのことである。

     
 いよいよ高清水宿へと入っていくが、「本陣」とかかれた看板をめにする。ここが本陣だったのか?と思って少し進んだ。

     
 その先の右手に、鉄柱に書かれた、明治天皇が巡幸のおり休息した旧本陣沼倉屋跡を示す碑があった。宿場の面影を残すものはこれくらいだった。

     
 左手に門構えの旧家が現れる。門柱には「まるさん醤油醸造元」と書かれている。

      
 集落の端の下り坂を暫く進むと、右手の小道の角に七清水の一つである「本町裏清水」の石碑が現れる。高清水宿は古くから高台の地に清水がわいていたことに由来するもので、七清水と呼ばれるように七箇所から水が涌いていたとのことである。その一つがこの本町裏清水だが、枯れてしまったようだ。

高清水宿~荒谷宿
 
 荒谷宿までは、途中から国道4号に合流する。国道は真っ直ぐだが、街道は蛇行しているので、昔の街道が国道を横切りながら続いている。そちらを歩く。車の轟音から解放されるだけでも快適だ。

     
 荒谷宿に入り、先に進むと右手に郵便局が現れるが、ここは本陣跡だとのことである。その隣は庄屋だった家であり、郵便局長のお宅でもあるとのことだ。

     
 その先に、藁屋根の古民家然とした2棟が建つ旧家と思われる屋敷が現れる。どうも居住している雰囲気ではない。

     
 その裏へ回ったら、ソメイヨシノが咲き、敷地内に大きなマンションかと思うような介護老人ホームが建っていて、その名もずばり「庭の里」。前の屋敷の庭園が由来なのだろう。

     
 そのすぐ後ろの斜面に、一面の菜の花が咲いていた。

荒谷宿~古川宿

 東北本線を左に見ながら南下する。これまでにも、ライラック色のラインを入れた北海道新幹線が疾走する姿を見るたびに、郷愁に似た感情が湧く。
 県道を黙々と進む。古川の繁華街へと入っていく。その先の十日町交差点を右折すると七日町となる。

     
 往時の宿場に入ることになるが、現代的な商店街となり街道筋の面影を残すものはなにもない。

     
 曲がり角の奥に古川城址があるというので、進んでみる。大きなクランドを持った小学校が現れる。そこが古川城跡である。
 案内板によるならば、古川城は中世のころ大崎氏の家臣だった古川氏が居城としたことに始まり、やがて伊達政宗の重臣鈴木元信が居をかまえた城でもある。元信の没後は伊達藩の直轄地となり城は廃止されていたと説明しいる。なお、大正デモクラシーの思想的指導者だった吉野作造の生地でもあるので、「ゆかりの学舎」と案内板に記されている。

     
 街道に戻って少し進むと、歌枕の地として名高い緒絶橋が現れる。案内板にはこの地は玉造川(現、江合川)の川筋が7世紀ごろから東に移動してしまったことによって残された川筋であることから、玉の緒(いのち)の絶えた川・緒絶川と呼ばれ、その上に架かる橋は緒絶橋と呼ばれたと解説してある。また、「みちのくの をだえの橋や 是ならむ ふみみふまずみ こころまどはす」と藤原道雅が詠んだ歌が勅撰和歌集に選ばれたことによって歌枕として定着し、全国に知られるようになったことも記してある。私にとっては初めて知ったことであるが・・・・。
 
     
 この角の建物は、橋平酒造の建物で、川には鯉が泳ぎ、橋の隣りには櫺子格子の食事所があり、またその横から入る敷地の中には、蔵造りのみやげ物屋や食事所があり、観光地となっている。

     
 ちょうどお昼になったので、その中の蔵造りのレストランに入り、日替わりランチを食べた。

     
 しばらく進むと、右手に瑞川寺が現れる。伊達政宗の重臣鈴木元信が再興した寺であり、風格のある山門は古川城の搦手門を寺門風に改築して寄進したものであり、室町時代の建築様式のものだとのことである。

古川宿~三本木宿
 
 古川宿を出て、2kmほどの直線道路を進む。やがて国道4号と合流する。三本木宿へと入って行くが、今夜のバリュー・ザ・ホテル古川・三本木がその手前なので、その入口の三本木郵便局を今日のゴールとした。

     
 13:50、ホテル到着。早かったがチェックインさせてくれた。何とも不思議なホテルだった。市街地ではなく、広大な敷地の中に、今は営業していない?ボウリング場や廃棄物処理工場などがあり、その前に、新しい2階建てのマンションのような宿泊棟がずらっと並んでいる。530室もあるそうだ。
 詳しくは分からないが、東日本震災の復興支援を目的に建てられたホテルだそうだ。部屋は新しいので非常に快適だ。
 周りに食事が摂れそうなところもない。当然食事付きとなるが、2食付きで5985円という安さである。しかも、うれしいことに朝食は5:00からとのこと。
 
 今回初めて、夕食前にブログをアップできたのて、ゆっくり夕食を楽しめそう。

     
 管理棟の広さや食堂と厨房の広さに驚く。10人は楽に座れるテーブルが40席以上。合宿には最高だろう。生ビールもあったが、缶ビールの自動販売機もあった。安いので料理はあまり期待していなかったが、バイキングで何を食べても美味しかった。洒落た料理はないが、おばちゃん方の味付けが良いのだろう。
 これまで、きちんとした夕食を食べていなかったので、しっかりと栄養補給に努めた。


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