癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

<2日目>24石鳥谷宿~25花巻宿~26黒沢尻宿~27金ヶ崎 宿<42.6km>(10時間15分)

2019年04月12日 | 登山・旅行
 今日は宿の関係で、距離は長かったが水沢宿までの予定を立てた。しかし、途中の間違いや街道が下水浄化センターで寸断されていて、トータルで4kmほど遠回りをしてしまった。しかし、GPS計測の距離は参考にしたカイドよりかなり長く、1つ手前の金ヶ崎宿手前で42.6kmもあり、所要時間も10時間15分になっていた。そこで、金ヶ崎駅から電車に乗って、水沢駅前のホテルへ移動した。

24石鳥谷宿~25花巻宿

 日の出時刻に合わせて、5:00に宿を出る。朝はマイナス気温だったが、天気が良かったので徐々に暖かくなった。
     
 歩き始めてまもなくの好地一里塚跡案内板。江戸から133番目の一里塚と解説されている。 

     
 その先の左手に「石鳥谷・宮沢賢治塚の根」の看板があり、その空き地に「石鳥谷肥料相談所跡」の案内板が現れる。「昭和3年3月15日から一週間、宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました」とある。賢治はここから眺めた一里塚の情景を『春と修羅』第三集に書いているとのことである。塚の根は一里塚のことか?

 石鳥谷は南部杜氏の里を謳っていて、国道の道の駅に「南部杜氏伝承館」があるが、朝早いので開いていない。残念ながらパス。

     
 右手にひばの古木が現れる。名木「逆ひば」の名称。見る角度によっては根本が細く見えないことも無い。弘法大師の杖が根付いたという説があるとのことだが、全国あちこちに似たような伝説がある。

     
 街道を進んでいくと、次の一里塚が現れた。江曽一里塚である。東側のみが現存していると案内板に説明されている。塚の隣には明治天皇御小休所の石碑がある。道を挟んで、天保8年の大飢饉の餓死者の慰霊碑も立っていた。
 花巻空港を左に見て、交通量の多い国道を進む。やがて、国道と別れて花巻市街地へと入っていく。

     
 裏通りのような道へ入っていくと、「花巻城下町発祥の地」の碑があり、四日町が最初に宿場となり次に八日町と一日市町が開かれたとしるされている。また、その右奥の花北地区コミュニティ消防センターの横には「明治天皇御聖蹟」の案内板があり明治9年と14年に明治天皇がこの宿場に宿泊したことが記されている。昨秋もあちこちで目にした石碑である。

花巻宿~黒沢尻宿

 街道は、花巻城址の坂を上っていく。「早坂御門跡」の説明を読むと、街道は城の敷地の中を通っていたようだ。

     
     平成4年に復元された西御門周辺。

     
 城址から眺める花巻市街地。城址のほとんどは花巻小学校の敷地になっている。登校してくる子供たちと挨拶を交わしながら坂道を下り、城址を抜ける。

     
 市役所の辻向かいに建つ「時鐘 盛岡南部城鐘楼」。ここの城は花巻城だが・・・?
 城址をあとにして、市街地へ降りていく。コンビニのイートインで、コーヒーとサンドイッチの朝食を摂る。

     
 「宮沢賢治生家」の標石が立つが、この家は現在も居住しているので、この建物ではないだろう。

     
 花巻市街地を抜けると、のどかな農村風景の中の街道歩きとなる。南城小学校の校門の中にある「奥州街道名残の松」。この先にも1本残っていた。往時はずっと続いていたらしい。

     
 北上川の流域に広がる水田の向こうに見える真っ白な早池峰山。やがて、北上市へと入っていく。

     
 見事なほどに当時のままの原形を留め、左右健在な「成田の一里塚」。これほどのものは本当に珍しい。江戸から129里、盛岡まで10里と記されている。

     
 さらに、1里進むと、今度は「二子の一里塚」が現れる。ここも左右とも健在だが、片方の木が生えていない。江戸から128里、盛岡まで11里を示していると案内板に紹介されている。しかし、左の塚は隣の神社の森とかぶっているのでパッとしないのが惜しい。
 このあと、どこで分岐を見失ったかわからないが、気がついたら、コースから外れて東側の道を歩いていたことに気づく。途中から北上工業団地の中を抜けて街道へ戻った。1~2kmほどの遠回りになったようだ

 まもなく、黒沢尻宿へと入っていく。ここは北上市の市街地である。
 
     
 繁華街の百貨店の前に「本町の起こり」の説明板が立っていた。それによると、この辺りか黒沢尻宿の中心地で、本陣や脇本陣があったと記されている。

     
 その斜め向かいの十字路の角の松屋呉服店の場所に本陣があったらしいが、標柱も立っていない。

     
 その十字路の先はアーケード街になっていて、少し先の北上信金の前に、これまでの奥州街道で初めて目にした脇本陣の標柱が立てられていた。

     
 北上市街地を抜けたら昼になった。食事できそうな所を探して歩いていたら、60種類の海鮮丼すべてが500円というテイクアウトの店を見つける。海峡丼を購入。そばの和賀川に架かる九年橋の下の遊歩道の階段で食べた。まぐろ、いか、甘えび、いくら、とびっこ、ほたて、かにの7種のネタが乗っていた。函館朝市でも同じような店はあるが、これほどのネタは載っていない。
     
黒沢尻宿~金ヶ崎宿

     
 橋を渡ったら右手に鬼柳関所跡が現れる。ここは南部藩の南端の関所で、二名の役人の他同心、足軽などが常駐し鉄砲や弓などを備えていた。関所は川を利用し橋を渡らないと通行できないように作られていたようである。

     
 少し進むと、右手に境塚が現れる。この塚を境いに北は南部領、南は伊達領を示す塚であり、復元されたものだという。藩と藩との境を示す塚で、奥羽山脈の駒ヶ岳頂上から太平洋の唐丹湾まで約130kmに渡って、460基築かれていたとのことである。重要な場所には藩毎にそれぞれが大きな塚をつくり並べて置いていたとのことで、往時は領地争いが激しかったようだ。 

       
 まもなくして、相去御番所跡が現れる。ここは伊達藩の北境の番所があった所で、往時は武頭や足軽ら102名が街道の両側に暮らし、勤めを果たしていたとのことである。

     
 街道をまっすぐ進んでいくと、浄化センターにぶつかる。立入り禁止の看板があり、抜けれそうにもない。参考にしてきた搖次郎さんも反対側から進んで、やはりここにぶつかり、戻って迂回したようでそのコースも書かれている。しかし、いくら探してもそれらしい道はない。
 仕方ないので、1kmほど戻って、国道に出て大回りをして、六原駅から街道へ向かった。結局3kmほど遠回りをしたようだ。

     
 街道へ出たところは瘤木という地区で、往時の街道の案内板が設置されていた。

     
 この先には、しつこいほど奥州街道の標識が設置されていた。これよりも、浄化センターの迂回路の表示が欲しい。  

    
 途中から切断された大きな杉株が現れる。ここが清水端の一里塚跡だ。西側はなく、東側だけが残っている。

    
 やがて、金ヶ崎宿へと入っていく。この時点で、42km、10時間を超えていた。宿場の入口の金ヶ崎駅口を今日のゴールとして、駅へ向かった。
 15:58の電車で次の水沢駅へ。駅前の水沢グリーンホテルにチェックイン(素泊まり4300円)。着替えをしたが、エアコン故障しているらしく寒い。フロントに電話して見てもらったら、やはり壊れているとのことで部屋を変えることになった。まずは風呂に入ってビールを飲んだら、外に食事に出るのが億劫になった。フロントでカップ麺を2個買って夕食代わりにした。
 落ち着いてブログを打ち始めたのが18時過ぎで、アップがすっかり遅くなってしまった。


「3日目へ」
のページへ