ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




日本赤十字東京都支部。千代田区丸の内3-5。1985(昭和60)年11月4日

丸の内に都庁があった時代に、その敷地の北西角にあった。設計=岡田信一郎・岡田捷五郎(しょうごろう)、施工=清水組、1927(昭和2)年の完成である。円弧状の正面に10本の列柱を立てた古典様式のビル。重厚さはさすがで、実際以上に大きく見える。
『東京建築懐古録Ⅲ』(読売新聞社編、読売新聞社、1991年)によると、昭和19年1月に東京都防衛本部にされてしまい、戦後も占領軍に接収された。日赤が戻れたのは昭和22年10月だったという。
平成3年秋に現在の新宿区大久保に移転した。そこに、旧社屋の模型や玄関を入ったところにあった果物の柱の飾りなどが陳列されているそうだ。




上:1986(昭和61)年5月18日
左:1991(平成3)年4月21日

土木建築画報・昭和3年4月号』に岡田信一郎(肩書きは早稲田大学教授/美術学校教授)の名前で「建築工事概要」と、三浦元秀(工事主任)の「汽錘式杭打工事に就て」が載っている。それによると各階の主な間取りは、地階:食堂・倉庫・機関室、1階:玄関・受付・事務室・主事室・応接室、2階:貴賓室・御真影室、中2階:倉庫、3階:事務室・参考陳列室・会議室。直接、都庁に出る裏口がある。

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三河屋本店。神奈川県鎌倉市雪ノ下1-9。1989(平成1)年6月5日

1927(昭和2)年に建てられた出桁造りの酒屋。平成14年に鎌倉市景観重要建築物に指定された。『鎌倉市>三河屋本店』に、建物の構造や特徴が細かく記されている。それによると、三河屋は1900(明治33)年の創業。若宮大路に向いた店舗は間口5間、奥行き8間という堂々とした大きさだ。2階の正面は倉庫のように使っているらしく、窓がない。構造上は総2階で、建物本体から立派な瓦屋根の庇を持った半間の下屋が飛び出ている。これは言われないとまったく分からない。出桁造りの1階部分としか見えない。屋根は正面に見えているのは切妻だが、後ろ半分は寄棟である。



菊や。2001(平成13)年11月4日

現在は「オヴァール(OVALE)鎌倉本店」というカフェが入る3階建ての小さなビルに替わっている。
写真では営業しているのか疑わしいような様子だ。「明治生命特約店」「家具□建具」の看板、「書画骨董」の張り紙が読み取れる。「鎌倉五山」の幟は三河屋の立てたもので菊やとは無関係。骨董屋のようだ。
「菊や」をネット検索したら伊東市富戸の「カフェ菊や」が出た。この店は鎌倉の菊やの屋号を引き継いだもので、鎌倉の菊やに置いてあった食器や漆器などの販売もしているという。

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湯浅物産館。神奈川県鎌倉市雪ノ下1-9。1989(平成1)年6月5日

1936(昭和11)年築の洋風・タイル張り看板建築の建物。平成15年に鎌倉市景観重要建築物に指定された。湯浅物産館は1897(明治30)年に貝細工の製造加工・卸売りの店として創業したという。右からの「貝細工製造卸湯浅商店」の文字は建築当時のものだ。
ファサードの状態はほとんど完成当時から変わらないようで、施工がしっかりしていたのだろう。メンテナンスもちゃんとやっているのかもしれない。今も6間ある広い間口一杯を店舗にして盛業中のようだ。
鎌倉市>湯浅物産館』に、建物の構造や特徴、見所が細かく記されている。

今年(2010年)、3月10日に鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れた。強風のためらしいが未明のことで目撃者がいない。湯浅物産館はその大銀杏が写る絵葉書を売り出して評判である。ぼくは1ヶ月ほど前、鎌倉を散歩して鶴岡八幡宮で大銀杏の切り株(折れ株?)を見た。そのあと湯浅物産館の前を通ったとき、同行していた妻は「大銀杏絵葉書当店限定版」の貼紙を見て「あら」とか言って店内に入り、2枚購入してきた。

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田中屋たばこ・雑貨店。神奈川県鎌倉市雪ノ下1-9。1989(平成1)年6月5日

写真の建物は確か若宮大路にあった店だ。店名が日除けに隠れて下のわずかな部分しか見えない。両側に少しビルが写っているからストリートビューでそれを探してみた。現在三井住友銀行になっているルネサンス風のビルのすぐ北側に見つかった。清水屋本店、田中屋ビル、ホテルシャングリラ鶴岡と並んでいる。田中屋ビルに建て変わっていたわけだ。



洋館。神奈川県鎌倉市雪ノ下1-10。1989(平成1)年6月5日

個人住宅としての正統な洋館の典型のように感じる建物だ。
若宮大路の東側と覚えている。場所を探すのに、回りが写っていないからストリートビューは使えない。国土交通省国土計画局の『カラー空中写真』にあたってみた。小さい家までははっきりと識別できないが、それでも雪ノ下郵便局の南、小町2丁目との町境の道路に接する場所、と結論した。田中屋から段葛を超えた向かいである。
現在は5階建てビルで、「かまくらしるばーほーむ」、地図では「医療法人養生院/介護老人保健施設」になっている。清川病院が運営しているようだ。

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清川病院辺りの若宮大路。神奈川県鎌倉市小町2-13。1989(平成1)年6月5日

古い日本家屋の商店が並んだ若宮大路の町並み。写真中央におじさんが二人椅子に腰掛けて新聞を読んでいる。この家は家具屋だろうか。その右は八百伊という八百屋である。現在、「蔵楽」という店になっている建物だ。『家庭画報2009春/夏号』の記事に「(和雑貨とカフェの蔵楽は)築90年の古民家。元は明治時代から100年続いた八百屋さん。」とある。
写真左の「駐車こ遠慮」の看板は「吉祥庵」という茶道具の店のもの。店は写真の枠外にあって写っていないがその建物は健在で、手打ちそばの「こ寿々」になっている。



花邑。2001(平成13)年11月4日

1枚目の写真で、手前の2軒が取壊されて駐車場になっている。「三橋有料駐車場」というらしい。1時間600円は都心より5割がた高い。1枚目写真右手の煙草屋だった家がビルに変わっている。その間の2軒は変化なしで八百屋もまだがんばっている。隣に「花邑」の看板が読み取れる。同じ家のもう1軒は「Part」? その後、店は変わるが今と同じ光景である。

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吉田屋陶器店。神奈川県鎌倉市小町2-12。1999(平成11)年1月16日

確か若宮大路で撮ったはず、という記憶だけだったが、写真左の「草木ろうけつ・しのぶ」のビルはそのままあったので場所は特定できた。若宮大路の豊島屋と鶴ヶ丘会館の中間辺りになる。現在は建替えられていて、「吉田画廊」の家が敷地の左にある。
写真の建物はモルタルの壁とそこにはめられたタイルで洋風の家のように見えてしまう。ただ、唐破風の庇があるから和風の家にも見える。これで日本瓦が載っていればわりと普通の日本家屋の店になってしまうのかもしれない。間口が広いから、陶器店、和風小物店、ギャラリーと3店に分けて使っている。
吉田屋陶器店はかなりの老舗のようで、『ひいおじいちゃんの鎌倉』というサイトの地図に「85年前 吉田陶器」のキャプションの写真が載っている。1918(大正7)年の写真ということになりそうだ。この地図は、鎌倉の歴史を実地に勉強するという小学生を対象にしたイベントでの資料。2003年12月の実施である。この時、子供たちが見たのは写真の古い家だったと思う。作文から、写真中央の「大やかん」(たぶん土瓶)が印象に残った子もいるようだ。

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浅草フランス座。台東区浅草1-43。1988(昭和63)年5月14日

現在は2000(平成12)年元旦にオープンした「浅草東洋館」だが、その前は「浅草フランス座」だった。建物1階の「浅草演芸ホール」はそのまま存続している。
『ウィキペディア』『東洋館』『SMペディア>浅草フランス座』を参考にすると、フランス座の沿革はおおよそ以下のようになる。
1951(昭和26)年10月28日開館。1953(昭和28)年、渥美清が百万弗劇場から移管してくる。1956(昭和31)年、井上ひさしが文芸部員に。1959(昭和34)年11月、5階建てビルに改築。1-3階に浅草東洋劇場を開館、4・5階にフランス座を置く。1964(昭和39)年、フランス座を閉館して浅草演芸ホール(寄席)を開設。1971(昭和46)年、東洋劇場を閉館して、浅草演芸ホールを1階に移し、上階にフランス座を再オープン。1972(昭和47)年8月、北野武が入門してくる。1982(昭和57)年に再び閉館。1987(昭和62)年に三度目のオープン(写真はその翌年のもの)。1999(平成11)年に閉館。
ストリップはよく考えてみるとごく健全な娯楽ではないかと思う。とはいえ、皆がそういう認識になってしまうと娯楽としての要素が大きく欠落してしまう。淫靡なところもないと成り立たないようなところがあって、その点、世間の良識や警察が協力しているとも言える。

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富士館。台東区浅草1-43。1985(昭和60)年1月

浅草ROXの北にあった元映画館。現在はパンドラ浅草店というパチンコ屋だがその建物は仮建築だろう。
富士館は1908(明治41)年に開業しているが、1912(大正1)年に後の日活になる会社が運営するようになり、日活の封切館になった。写真の建物は大震災後の昭和2年に改築したもの。設計=僊石政太郎、施工=清水組、構造=SRC 4階建。1800人を収容する巨大な映画館として建てられている。戦時統合が解けて1947(昭和22)年、日活が独立すると「浅草日活劇場」となる。1973(昭和48)年に閉館。(『ウィキペディア』参照)
そのあと、キャバレー新世界が入ったらしい。1959(昭和34)年、瓢箪池を埋立てた跡地に東急グループの、「娯楽の殿堂」を自称した「新世界」が建てられている。1972(昭和47)年に廃業したが、そこにあったキャバレーが旧富士館に移ったものかと想像できる。
右写真左の鉄板の塀は松竹映画劇場(旧帝国館)を取壊した跡である。この劇場も僊石政太郎の設計だった。1年前に来ていれば写真を撮れたかもしれない。



窓の間の黒い壁面は一見戸袋のようにも見えるが、アールデコ風の人物像のレリーフ。たぶん竣工時のままだと思う。1986(昭和61)年10月26日

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浅草東映。台東区浅草2-14。1988(昭和63)年5月14日

六区映画館街(今は「六区ブロードウェイ」というらしい)を北にいった突き当たりにあった。正面に立てば左に浅草ビューホテル、右に花やしきが見える。1890年に建てられた凌雲閣が建っていた場所だ。現在はパチンコ屋に建替えられた。
浅草東映の場所は昭和3年に昭和座という劇場が建ち、軽演劇を興行していたらしいが、戦時中に建物疎開で取壊されている。写真の映画館が建ったのがいつなのかはっきりしない。1959(昭和34)年に向かいに新世界が完成しているが、その前後だろうか。
港町キネマ通り浅草東映、浅草東映パラス1・2』でこの映画館を紹介していて、貴重な内部の写真も10枚近く載っている。閉館したのは2003(平成15)年5月22日という。
写真中央に見える「大人のおもちゃ/ひさご書房」の看板はおじさんが持っているプラカード。ちょっとややこしいので念のため。

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浅草世界館。台東区浅草2-9。1985(昭和60)年1月(3枚とも)

この写真を撮った頃はROXY東京クラブトキワ座の三館に日本館もまだ映画館として現存していた。写真からはなんとか六区映画館街の面目を保っているというか、映画全盛期の面影が感じられる。建物自体は映画館が3館(浅草新劇場、浅草世界館、浅草シネマ)入る「浅草新劇会館」というのが現在の名称で、中映という会社が経営している。
建物は『日本近代建築総覧』では「浅草新劇場世界館(旧江川劇場)、S12、RC4、設計=加藤(秋)建築工務店、施工=清水組、備考=スパニッシュ風近代式・映画館・一部鉄骨「日本建築士」S7.12による」という記載である。『近代建築ガイドブック[関東編]』に加藤秋のことが少し書かれている。「明治22年千葉県生まれ。明治43年日本工芸学校を卒業。日本建築株式会社、東京大学営繕課などに勤務。大正7年独立して加藤建築工務所を創立。昭和14年逝去するまで映画館・商店を中心に設計」という略歴。たいした学歴も持たず、自己の努力だけでまじめに設計に取り組んできた人物だろう、としている。



浅草新劇場側の装飾

浅草新劇場は現在は邦画ポルノを上映しているが、撮影時は邦画の名作あるいは任侠映画をかけていたかもしれな。元は「江川劇場」で、実演の劇場だった。「江川の玉乗り」が有名だが、昭和になってもそれをやっていたとはちょっと思えない。戦時中松竹の経営となり「浅草松竹新劇場」と改称、清水金一の実演が売り物だった(ウィキペディア)というが、これは戦時中の短期間かもしれない。
浅草シネマは建物の地下にあるようで、元はストリップ劇場の「浅草座」だったという。ストリップ劇場といえば戦後のことで、一時期、この劇場でも興行されたのだろう。

左:上映中の映画のポスター。右:近影。2008(平成20)年4月2日

正面右の壁面に浅草で見られる映画のポスターが並べられていたようだ。どうせなら全部を撮影しておけばよかった。
現在はテラコッタの飾りやタイルの剥落を防ぐためだろう、右写真のように白いパネルで覆ってしまっている。包帯巻きにされたようで痛々しい。

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