ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



石川ビル(ひむろ)。千代田区有楽町2-3
2008(平成20)年11月5日

有楽町マリオンの晴海通りの向かい側の路地を入ったところ。写真左奥で裏のJR高架沿いの路地と合わさる三角形の街区である。昭和30年頃に建ったビルだろうか、3棟の古いビルとそれに挟まれた木造2階建ての建物が建っていた。
「北海道ラーメン ひむろ」が入っているのが「石川ビル」。角のドアはたぶん地下の「Nikka Barびいどろ」だろう。このバーは1969年の住宅地図に載っている。ビルの袖看板を見ると5階まであるらしい。3階上の壁には「ユニオンビル」の袖看板が付いている。「トラジ」の看板は「白石ビル」。石川ビルを取り囲むようにL字形平面で、裏のJR高架沿いの路地にも面していて、そのほうが店の表側である。白石ビルの左は「海鮮居酒屋 銀造」のビル。その裏が「宮内ビル」。これらの建物は2021年6月には取壊しが始まり、現在は9階建のビルを建築中。

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東宝ツインタワービル。千代田区有楽町1-5。2013(平成25)年3月1日

晴海通りの日比谷交差点付近にあったランドマーク的な割と目立つビルだったが、2019年12月末で閉館。「東宝日比谷プロムナード」(2023年3月築、11階地下2階建)に建て替わった。
東宝ツインタワービルは1969(昭和44)年5月の開業。9階地下4階建て。屋上の広告塔が特徴だが、それ以上に鋸状の壁面に縦長に並んだ窓が素晴らしい。設計は阿部設計事務所と谷口吉郎。谷口吉郎(1904-1979)は金沢出身で、1928(昭和3)年東京帝大建築学科卒業。作品には「自邸」(1935年、品川区小山)、「東京国立近代美術館」(1952年、北の丸公園)、「帝国劇場」(1966年、丸の内)、「東京公立博物館 東洋館」(1968年、上野公園)など。
1969年の住宅地図には「全日空/カンボジア航空/ツインタワー/タイ国際航空/ホテルプラザ東京/東宝ビル/キャセイパシフィック航空/紀伊国屋書店」の記載。

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上智大学クルトゥルハイム。千代田区紀尾井町7。1983(昭和58)年3月

上智大学四谷キャンパスにある、ミサと結婚式が行われる建物。クルトゥルハイムとはドイツ語で「文化の館」を意味するそうだ。「クルトゥルハイム聖堂」とも言われるらしい。『日本近代建築総覧』では「上智大学聖堂」としている。陸軍の軍人だった高島鞆之助(1884-1916)の邸宅として、明治30年代に建てられた洋館。1912(明治45)年に学校設立のため、カトリック修道会イエズス会が購入した。内部、特に2階はかなり改装されていると思われる。
「ネオルネッサンス風を基調とした建物で、外壁は、装飾を抑えた比較的シンプルな仕上がりとなっており、1階部分は石積み風、2階部分は茶系のタイル貼り、軒下から屋根廻りは木仕上げにするなど建物に変化を与えており、ペディメント(三角破風)を配した玄関が重厚な印象を与えている」( Visit Chiyoda(千代田区観光協会))。

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ホテルニュージャパン
千代田区永田町2-13
1989(昭和64)年1月4日

山王切通坂から撮ったホテルの裏側。ホテルニュージャパンが火事になったのは1982(昭和57)年2月8日で、解体されたのは1996年なので、撮影したのはその中間になる時期だ。
『ウィキペディア>ホテルニュージャパン』によると、建物はRC造10階建地下2階、客室は513室。Y字型平面のビルが3棟接続した複雑な構造である。どの客室からも外が見えるようにしたためだ。設計は佐藤武夫(1899-1972)。ホテルの開業は1960(昭和35)年3月22日。Y字型ビル2棟350室での開業らしい(ジャパンアーカイブズ>1960年)。

ホテルニュージャパンの地下にあったニューラテンクォーターの『ウィキペディア』の記述を見ていたら「最終的に廣済堂会長の櫻井義晃に売却された(1979年のことらしい)」とあるので驚いた。廣済堂という印刷会社を知っていたので櫻井氏(故人)の名前は聞いていたからだ。地味な印刷会社の社長がナイトクラブのオーナーになるとは! ゴルフ場も経営したというから、いろいろと手を出したのだろう。櫻井氏は児玉誉士夫と知り合いだったと聞いていたので、その関係で食い込んでいけたのかも知れない。

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赤坂プリンスホテル新館。千代田区紀尾井町1
1983(昭和58)年3月

「ウィキペディア」などを参照すると、赤坂プリンスホテルが開業したのは1955年10月1日で、旧李王家邸が使われたと思われる。1960年10月に5階建の別館が建てられた。それから20年が経って新館の建設が始まり、1983年3月7日に開業した。写真はちょうどその頃のものだ。
設計は丹下健三。39階建(地下2階塔屋付)で階段状の平面で、761室の全ての客室が角部屋になっている。
2001年に全面改装が行われている。2007年に「グランドプリンスホテル赤坂」と改称されたというが、あまり通用したようには思えない。「赤プリ」と言えばクリスマスの宿泊騒ぎと解体工事が話題になった。2011年3月31日でホテルは営業を終了、2012年6月から解体工事が始まり2013年7月に完了した。その後再開発が行われ、2016年7月に「東京ガーデンテラス紀尾井町」として開業した。

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財務省。千代田区霞が関3-1
上:1986(昭和61)年8月17日
左:1987(昭和62)年1月1日

大蔵省が財務省に名称変更されたのは2001年(平成13年)1月6日。写真はその15年前で、大蔵省だった時のもの。この建物は近代建築としてはあまり注目されない。外観が地味で目を引く要素がこれといってないからだろう。『日本近代建築総覧』の記載は「大蔵省、千代田区霞ヶ関3-1、建築年=昭和14年、SRC8(SRC5地下1の間違い?)、設計=大蔵省営繕管財局、施行=大倉土木、○(おすすめ品)」。中庭が2つある日の字型平面の大きな建物だ。
大蔵省~財務省の庁舎こぼれ話あれこれ』には、建物の工事の経過、大蔵省が建物を使うようになるまでどこで業務していか、建物を利用した省庁、といったことが割と詳しく述べられている。以下、このサイトよって建物の沿革を概括してみる。

大手町にあった大蔵省の庁舎が関東大震災によって焼失した。大蔵省によって各省庁の庁舎がRC造で建て直されていくが、大蔵省は1940(昭和15)年まで仮設のバラックのままだったという。霞が関の現在地に建設が決定したのが1934(昭和9)年、翌年には土台工事を開始。日中戦争が始まって1939(昭和14)に工事は中止と決まるが、工事を進めて1940(昭和15)年6月に仮竣工した。ただちに仮庁舎から引っ越しが行われたが、内装工事は続けられた。1942(昭和17)年には防空対策として屋上に厚さ45cmの耐弾層を設けている。壁のタイル貼りや修飾部分を省略して建物が完成したのが1943(昭和18)年7月。
戦後はGHQに接収されて、解除されたのは1955(昭和30)年12月。その間、四谷第三小学校を借りていた。戻ってきた庁舎はGHQによって改造されていたので、復元して四谷庁舎から引っ越しできたのが1956(昭和31)年3月31日。
それ以降の主な改修は、1961(昭和36)年になって耐弾層を撤去。1962-63(昭和37-38)年に外壁をタイル張り(250万枚)に。1967(昭和42)年、設備棟新築、暖房設備設置。1968(昭和43)年、冷房設備設置。1978(昭和53)年、庁舎西側の 4階及び 5階部分に鉄骨造の事務室を増築。

高層ビルに建て替える計画が2007年に出たが、2011年の東日本大震災復興のための増税案もあり、国民感情を考慮して耐震改修で済ませている。一般には財務省=国税庁という認識だから、血税で贅沢な庁舎を造るとは! と言われたくないのだろう。それより、戦時中・戦後の大蔵省職員の苦労は大変なものだったに違いない。

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大手町ビル。千代田区大手町1-6。2012(平成24)年6月14日

1958年(昭和33年)4月10日に竣工した三菱地所保有のオフィスビル。大成建設の施工。エレベーターや階段、通路、洗面所等の設備を建物中央部に集中させる、コアシステムを初めて採用した。また全館冷房設備にした初めてのビルでもある。当時の31mの高さ制限では8階建が普通の中で9階建(地下3階、塔屋3階)にしている。東西の長さが205mもあり、「東洋一」のマンモスビルと言われた(ウィキペディア>大手町ビル)。
1956(昭和31)年5月の着工から1958年の竣工までどういう時代だったかというと、ぼくの記憶では、1956年:プレスリー、週刊新潮、太陽の季節(映画)、1957年:南極越冬隊、石橋湛山から岸信介へ、丸の内の都庁舎落成、スプートニク1号、1958年:日劇ウエスタンカーニバル、東京タワー、月光仮面(TV)、フラフープ。ぼくが中学生だった頃と重なる。
たぶん大手町では最古参のビルだろう。周りのビルは大手町ビルより後に建ったビルが高層ビルに建て替わって、それらに埋もれた感じになった。そうなってみると、かえってこの古いビルの存在感が増してきたように思える。三菱地所もその辺を感じ取ったのかもしれない。建替えを当分やめて、2018~21年でリノベーションを行った。外観も変わってしまったが、ちょっと残念な気がする。



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東京国際郵便局。千代田区大手町2-3。2012(平成24)年6月14日

東京国際郵便局は国際郵便の交換業務を専門に取り扱う「国際郵便交換局」(無集配普通郵便局)として1968(昭和43)年10月28日に開局。国際郵便局は国際郵便物の発着の窓口業務を行う郵便局のことで、輸出税関・輸入税関等の手続きを経たのち、出発便の航空機に搭載したり、到着便の国内仕分けを行ったりする。「東京関税東京外郵出張所」が同居した。2005(平成17)年10月に江東区新砂の新東京郵便局の近隣に新局舎を建設して移転した。
収蔵庫・壱號館>旧・東京国際郵便局』によると、『郵政建築 逓信からの軌跡』という書籍からの引用として、「郵政省建築部の武田礼仁の設計」とあり、小坂秀雄の「庇の建築」を踏襲した武田の傑作ということだ。「武田氏は他に松山郵政局(1967年)を設計し、また1968(昭和43)年に設計課長となった際には、既に定着していた「庇の建築」路線の踏襲を表明したとある。また1973年から建築部長に就かれたとの記載が年表にある。」ともある。

江東区に移転後は建物は放置されていて、2015年になって解体された。今は大手町プレイスとして再開発された。写真手前の「東京郵政局」のあったところも含めて「イーストタワー」が建つ。

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逓信ビル。千代田区大手町2-3。2012(平成24)年6月14日

逓信ビル(逓信総合博物館)は大手町ビルを背にして撮るのが普通なのだが、そのほうは取り忘れたらしく写真ファイルに見当たらない。逓信ビルは1964(昭和39)年10月の竣工。設計は小坂秀雄、戸田建設の施工。日本電信電話公社のビルとして建てられたと思うのだが、逓信ビルという逓信省を引き継いだような名称が不自然な感じがする。2013(平成25)8月で閉館し、2014年8月に解体工事が始まり、「大手町プレイス」として再開発された。
設計者の小坂秀雄(1912-2000)を、ぼくはこの稿を書くまで知らなかった。日比谷公園の松本楼の生まれ。1935(昭和10)年、東京帝国大学工学部建築学科を卒業。1937昭和12年、逓信省に技手で入省。当時逓信省には山田守(東京中央電信局)、吉田鉄郎(東京中央郵便局、大阪中央郵便局)がいて、それをひきついだのが小坂。1952年、「外務省庁舎」コンペ1等入選。この頃には小坂の設計の特徴である「庇」を推し進めるようになったらしい。1960年外務省庁舎。1964年ホテルオークラ。1963(昭和35)年「丸ノ内建築事務所」を興して独立。1974年KDDIビル(市立小樽美術館情報)。

写真右の駐車場になっている場所には「東京郵政局」があった。逓信ビルと同様のデザインで、やはり小坂秀雄の設計。その写真はネットではほとんど見かけないのだが、『都市徘徊blog>東京郵政局・関東郵政局』がある。

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丸の内松竹、ピカデリー。千代田区有楽町2-5。1984昭和59年9月

写真の建物は1957(昭和32)年7月に完成したビルで、1986年の住宅地図に「有楽町センタービル」としている。1987年完成のマリオン別館がその名前でも呼ばれるらしいのだが、写真の旧ビルの名称を引き継いだのかもしれない。「邦楽座」(1925年)を建て替えたものと思える。ビルには「丸の内松竹」(地下)と「丸の内ピカデリー」(2、3階)の2館が開館した。築後27年しか経っていなかったが、建て替えのために1984(昭和59)年10月2日に丸の内松竹はいったん閉館し、丸の内ピカデリーはマリオンに移った。
写真はその直前で、ピカデリーでは『フットルース』、丸の内松竹では「グレート・メモリーズ」と題した名作上映会をしている。『エデンの東』『ジョーズ』『クレイマー、クレイマー』『暗くなるまで待って』『お熱いのがお好き』などが読める。
丸の内ピカデリーは10月6日にマリオン内に「丸の内ピカデリー1、2」として開館する。写真中央の看板はその上映予定の広告である。
1987年10月3日にマリオン別館が完成して、丸の内松竹が移ってきて、「丸の内ルーブル」が開館した。
参照:『東京都内映画館の年表

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