ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




喫茶スミダ。中央区日本橋本石町1-1。1985(昭和60)年4月14日

西河岸橋の北詰にあった建物。写真左に日本橋川の上の首都高、その下に西河岸橋の親柱と川の堤防が写っている。この橋は大正14年に架橋され、平成2年に修復されたが、その時に親柱や欄干が造り直されている。
スミダという喫茶店が入った建物は、奥行きが正面の幅の3分の1くらいしかない小さな建物。昭和38年の航空写真に写っている建物と同じものと思われるのが昭和22年の写真にも写っている。したがって戦後すぐに建てられたものと思われる。昭和30年頃の火保図に「(喫茶店)スミダ」とあるから、かなり永く続いている店だ。昭和7年の火保図では「キッサテン」で、その店がスミダかどうかはなんとも言えない。
たしか撮影の1年後には現在建っているビルの建設工事が始まっていたと思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:たちばな鍼灸整骨院、右:SATOMIベーカリー。墨田区京島3-52。2013(平成25)年5月5日

当ブログ前回で、キラキラ橘商店街の茂手木米店の家は四軒長屋の端の1戸が残っているものと書いたが、上の写真はそこから南に続く家並み。たちばな鍼灸整骨院、整体足裏マッサージ・さくら、SATOMIベーカリーである。鍼灸整骨院の建物は片流れ屋根で平屋かもしれない。ストリートビューではまだかつての「マスヤ洋品店」の姿で撮られている。



五福家の三軒長屋。京島3-52。2013(平成25)年5月5日

古い三軒長屋だが3軒とも割と間口が広いから、元は四軒、あるいは五軒長屋として建てられたのかもしれない。一応、看板建築。昭和初年の建築、戦後まもなく看板建築風に改装したものかと無理やり推測しておく。現在は中華料理の東北と、そば処・五福家が入っていて、真ん中の店舗は空き家らしいが以前は越前屋洋装店だった。
五福家は創業76年というから昭和12年頃の創業らしいが、ずっとこの長屋で続けてきたのだろうか。『 下町人情キラキラ橘商店街』で公開している「昭和44年日本一のホステスになった」おかみさんの顔を拝見したい気もする。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:花とみ、墨田区京島3-22。右:一福・武藤水産、京島3-20。2013(平成25)年5月5日

上左写真はキラキラ橘商店街と昔ドブ川が流れていた通りが交わる京島3丁目交番がある交差点。ドブ川の通りに面した花とみの建物は道なりに折曲がっている。同じ建物の商店街側には「パリドール正盛堂」というパン屋。写真では店の前に鉢植えが並べられているが、花とみの商品なのだと思う。
右写真は左写真左奥に見えている山賀商店の向かいにある一福と武藤水産の看板建築。日曜で祭日だったので店を開いていないが、営業中の写真が取れたら差し替えることにする。一幅の手前は「キラキラ会館(京島三丁目第8コミュニティ住宅)」の前の広場。ここは昔は宇野医院、その後はデンキランドがあったりした場所。



左:こんこん、京島3-52。右:ペケロ、京島3-22。2013(平成25)年5月5日

たこ焼きとたい焼きのこんこんは四軒長屋の端の1戸が残ったもの。隣の3階建ての家(味彩たかはし)の先の「手造りの味ライスショップモテギ(茂手木米店)」が同じ長屋のもう一方の端ではないかと思う。
右写真は1枚目写真の商店街入り口を入ったところ。右端の正盛堂からペロケ、山賀商店、山田茶店、三膳屋豆腐工房、と並ぶ。
ペロケは「手作りケーキの店」とテントにあり、喫茶店なのだが「ラーメン」の提灯と赤い暖簾が店の右に架かっている。ラーメンを出す喫茶店として有名な店だ。おかみさんがいろいろと料理を作ってみると、どうしても客に食べさせたくなって、メニューが増えていったのだろうとぼくは考えている。
山賀商店は店先を見る限り花屋である。本業は家具店で「山賀家具センター」が本来の店名。鉢植えなど並べた奥には本棚やテーブルなどが置かれている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:芳野屋、右:多ぬ喜寿司。墨田区京島3-20。2013(平成25)年5月5日

「向島橘銀座商店街」の明治通りの入り口付近である。この商店街は昭和60年に道路にカラータイルを敷いたり街灯を新しくしたのに伴い、「 下町人情キラキラ橘商店街」の名称で昭和レトロを前面に押し出して活性化をはかった。それから30年、今は「キラキラ橘商店街」の名前は一般化し、昭和レトロのコンセプトはテレビの格好の対象でもある。
商店街には「グルメシティ京島店(旧スーパーダイエー吾嬬店)」があるが、ほとんどは個人商店だという。そのグルメシティの場所は商店街の名称の由来になった映画館「橘館」があったところ。この映画館は昭和6年に開館し、商店街もさっそく「橘館通り」となったようである。1968年の地図に出ているから、大方の映画館が消えていった時期に橘館も閉館したのだろう。
上左写真は商店街入り口の角にある千成屋(せんなりや)呉服店(左)と波トタン貼り看板建築の芳野屋。千成屋は創業80年を迎えるという。
上右写真は明治通りの商店街入り口から入って振り返ってみた街並み。多ぬ喜寿司は創業60年になる。左に写っている和菓子のさがみ庵は大正13年の創業。



左:荒木理容館、右:芳野屋(婦人服)。京島3-20。2013(平成25)年5月5日

「バーバーアラキ、紅月ふとん店、コインランドリー、よしのや」の4軒は古い四軒長屋である。通りからアラキを見ると平屋のように見えてしまうほど建物の軒高が低い。



左:きくの家(もつ焼)、右:向島電化ハウス。京島3-21。2013(平成25)年5月5日

橘商店街がドブ川があった通りと交差するところ。商店街の角の看板建築にした集合店舗は4軒の別々の家の前面をまとめて改装したもの。
向島電化ハウスの建物は波トタン貼り看板建築。横を見ると屋根の上に三階を増築している。この電機店も戦後まもなくの創業らしく、武藤電機商会の店名を昭和38年に今の名称に替えた。昭和41年からレコードも扱うようになったそうだ。この辺りでは売れ筋はビートルズより歌謡曲だったろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





現・爬虫類館分館。墨田区京島3-17。2008(平成20)年12月6日

明治通りのキラキラ橘銀座入り口にある看板建築にした三軒長屋。今は住宅地図に「爬虫類館分館」とあるのでなにかと思ったら「飲食とイベントスペース」だそうで、2010年3月7日オープン。写真では爬虫類館分館が開館する前で、「喫茶かみふうせん」が閉店した後の状態らしい。「エビス堂」は印刷業らしいが、たぶん廃業している。
エビス堂の隣は同じ色合いの看板建築だが、別の建物。2軒長屋だった1戸が残っているもの。



六軒長屋。京島3-20。2008(平成20)年12月6日

明治通りのキラキラ橘銀座商店街入り口のすぐ南。木造二階建ての六軒長屋が残っている。前面が改装されている三好歯科医院までが長屋である。瓦屋根も残っていて、6戸のうち4戸が商店や医院として開業中。この状況だとすぐには建て替えとはいきそうもない。「墨田氷業」と「岩下写真」の看板が目を引く。岩下写真は戦後まもなくの創業らしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ICHIOKU MARKET PART 2(旧有賀商店)。中央区日本橋横山町7。2011(平成23)年12月18日

レンガ貼りの壁がきれいなので、近代建築を模した割と最近のビルのようにも見える。写真ではよく分からないが、上部の張り出した庇とその上のパラペットを見ると古いビルらしいと判る。昭和9年の火保図に「有賀商店、コンクリート造4階建」とある建物に違いない。ネットで当たってみても有賀商店に関しては見つからないから、とっくに廃業しているのだろう。1970年頃の地図でも有賀商店である。1986年に撮った写真では「ファッションシマダA館」。
中央区立図書館』の「地域資料」に「有賀商店」のキーワードが付いた写真が2点見つかる。いずれも1957年の撮影で、残念ながらビル全体を撮ったものではない。袖看板の取り扱い商品に「洋傘・ショール・子供服・ベビー用品」とあった。

コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )





東陽ビル。中央区日本橋横山町4。左:1986(昭和61)年1月12日、右:2004(平成16)年1月10日

横山町問屋街の通りを南へ行くと清洲橋通りに出る。都営新宿線の馬喰横山駅があり、大通りの向かい角に古いビルが建っている。今は改装されてなかなかしゃれたビルに生まれ変わった。入り口を入るとすぐ階段室で、その階段室はわざわざ古いままに残したようだ。これは面白い保存方法だと思う。
『日本近代建築総覧』に「東陽ビル、日本橋横山町9、建築年=昭和4年、3階建、設計・施工=清水組」というのがあるが、所在地と階数が異なる。2階と思われる高さがやけに低いので、構造上は3階建てなのかもしれない。また、作成年度の異なる何種類かの地図で探しても、9番地にはそれらしいビルは見つからない。不動産のサイトには「大原第5ビル、竣工=1930年1月」と出ていた。
左写真の右に写っているビルは日清紡績のビルである。撮影時にはこのビルに本社を置いていたと思われる。現在は「NB日本橋ビル(1995年竣工)」に建て替わった。



左:2006(平成18)年4月1日。右:2011(平成23)年3月25日

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





海渡ビル。中央区日本橋横山町6
左:1986(昭和61)年1月12日
上:2011(平成23)年12月18日

中村與資平記念館別館>小松ビル』によると、「竣工=1928(昭和3)年、設計=中村與資平、主任技師=相坂幸治、施行者=中村工務所工事部」。当初の「小松ビル」の名称は「小松・岡安・佐藤三氏共同ビル」だったからで、「海渡ビル」になったのは昭和30年代になってから、という。
現在はタイルの剥落防止のためと思うが、壁面が改修されている。スクラッチタイル貼りのロマネスク風の重厚な感じはだいぶ薄れたが、正面玄関周りのアーチや頭柱のレリーフはしっかり残されている。左写真では正面左側の壁面にタイルが残り、その上にロンバルジアベルトも見られる。『中村與資平記念館別館』に載っている竣工時の写真では、1階の壁は石張りで、4階の窓も元のアーチ窓が改修されている。残っていると思えたタイルは、貼りかえられているのかもしれない。


横山町ビル。日本橋横山町7
2011(平成23)年12月18日

海渡ビルの向かい側にある「マスダ増本店」と「エトワール海渡ショールーム」が入ったビル。海渡の看板がある角の部分だけ古いビルの外観が見て取れる。5年前には2階から上は無塗装のコンクリートだったから、今以上に古く見えた。海渡ビルと同じ設計者による震災復興期のビルである。
中村與資平記念館別館>横山町ビルデング』によると、「竣工=昭和4年3月、設計=中村與資平、施行=中村工務所、鉄筋コンクリート造5F」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





第1コスガビル。中央区日本橋横山町9
左:1985(昭和60)年8月4日、右:1986(昭和61)年1月12日

清杉通りの浅草橋交差点の南から斜めに入っていく横山町問屋街の通りとの角にあったビル。立地とその形で誰もが目を向けるようなランドマーク的な建物だった。現在の建て替わったビルは何倍か高層になり、角は旧ビルの外観を継承するような造りになっている。しかし、ランドマークとしての地位を引き継ぐところまではいっていないのは存在感が関係するのだろうか。
建設年=1930(昭和5)年、設計=曾禰中條建築事務所、施工=鹿島組。当初の名称は「両国ビルヂング」といったらしい。
鹿島建設がビル建設の初期に手がけたもので、『 Kajimaダイジェスト>特集:ビル進化論』(2004年3月)という記事に「ビル創世記」という章を設けて第1コスガビルを解説している。

株式会社コスガは1862(文久2)年、大阪で創業した家具・インテリアの会社。東京に進出したのは1890(明治23)年で、大阪屋と称した。1930(昭和5年)、株式会社に組織変更し、小菅商店として本社ビルを建設した。売上高は1990年代がピークで、2000年代になると業績が悪化、財務リストラ、不動産売却などをするも2008年に倒産した。2009年に「株式会社コスガの家具」が新たに設立されて再出発した。(『ウィキペディア』、『家具新聞>株式会社コスガ』)
第1コスガビルは2006年10月頃に解体されているが、売却されるとすぐに建て替えとなったらしい。日本橋の問屋街にビルを建てたという誇りがビルを維持してきた原動力だったのかもしれない。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





田中写真館。墨田区向島5-50。1989(平成1)年6月25日

鳩の街通り商店街の中でも注目されていた二軒長屋。田中写真館が営業している頃の写真である。写真館はいつのまにか廃業したが、その洋風にした造りは長い間そのままで、入り口の三角コーナーのドアには「田中寫真館」の文字がそのままにしてあった。ヤシのような鉢植えの木がアクセントになっていたが、建物の左に、まだ背は低いがすでに置かれている。最近、住居用に改装されてしまった。


小井沼青果店。向島5-50
2009(平成21)年3月29日

鳩の街通り商店街の、永いこと空き家だったと思われる家で、一軒の家を2店舗が使っていたようである。左が「小井沼青果店」、右のSONYの看板の店は「イリコ(入子)テレビ電化」の文字が看板の右にあった。今、Google地図の航空写真を見ると取り壊されて空地になっている。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ