ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





上:竹内商店、左:自販機の店
港区虎ノ門3-10。2014(平成26)年4月23日

竹内商店があるのは桜田通りと愛宕山の間の裏通りで、栄閑院という寺の境内に建てられた借家と思われる家。写真右の寺は興昭院。栄閑院(猿寺)には杉田玄白の墓がある。
竹内商店は段ボールなどの梱包資材の店。看板には「内外木箱梱包」の文字もある。簡易看板建築といった建物だ。この辺りは空襲の被害を免れた地区で、今はもうほとんど残っていないが、古い木造家屋は戦前築の可能性がある。竹内商店の建物は2015年頃に取り壊された。
東京―昭和の記憶->愛宕山西側』に1985年撮影のこの辺りの写真が見られる。そこに写っている竹内商店の家は二軒長屋で、なくなった左側は「宮入会計事務所」。

銅板張り看板建築の自販機の店の前を右に行くとすぐ愛宕隧道。建物は右へも続いていたように見えるが、『東京―昭和の記憶-』に四軒長屋と思われる看板建築として記録されている。1969年の住宅地図では「三村塗装店、磯部タバコ店、三洋自転車、東京出版所(1982年の地図では「清水商店」)」。
現在の「菱和パレス虎ノ門」という9階建35戸のマンションは2000年12月の竣工。

下の写真は竹内商店の向かい側。写真右の門は宝瑞院という寺。古い2軒の家ははたぶん1棟の二軒長屋で、古い航空写真を見ると寄棟屋根の1棟に見える。三差路の角にあり、左のほうが「魚亀」という魚屋だった家。最近、右側の家が取り壊された。


魚亀。虎ノ門3-8。2014(平成26)年4月23日

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磯村ビル。港区虎ノ門1-1。1986(昭和61)年8月17日

外堀通りの虎ノ門交差点付近の北の裏通りを東に向けて撮ったもの。右手前から、ローレルビル、磯村ビル、虎ノ門実業会館新館(東海銀行の看板)……。磯村ビルは建て替わったがローレルビルと実業会館が今もそのままだから、景観はあまり変化していないと言えると思う。
古そうなビルがあるな、ということでとりあえずカメラを向けただけの写真で、肝心の磯村ビルに近寄って撮ることもしなかったので、磯村ビルの写真はこの1枚だけである。
『日本近代建築総覧』に「磯村ビル、港区芝虎ノ門(旧町名)、建築年=昭和11年(1936)、構造=RC5階建、設計=吉武長一、施工=大林組」で載っている。
吉武長一(よしたけちょういち、1879-1953年)は村井銀行のお抱え建築家として村井銀行の建物を多く設計して、京都に3棟が残っているらしい。東京では「安藤記念教会」(港区元麻布、1917年)がある。当ブログでは鎌倉の「日本基督教団鎌倉教会」(1926年)を収録してある。

名称からして「磯村産業株式会社」という会社が建てたビルと思われる。そのHPの「当社の歴史」には、1907(明治40)年に群馬県高崎に山林を取得して製炭業を始め、1936(昭和11)年に改組して「磯村産業株式会社」としている。写真の旧磯村ビルが建った年だが、それとの関連は書かれていない。1991(平成3)年に「港区虎ノ門に現在の磯村ビル完成」と出ている。2019(平成31)年、本社をみなとみらいクイーンズタワーに移転した。ビルの名称も変わるのかもしれない。

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日本基督教団 芝教会。港区虎ノ門1-20
2007(平成19)年3月9日

桜田通りの東の虎ノ門1丁目は、ぼくがご無沙汰している数年の間に大変貌を遂げてしまった。環状第2号線(新橋-虎ノ門間)の開通が2014年3月、同5月に「虎ノ門ヒルズ 森タワー」(地上52階地下5階、高さ247m)が竣工した。その南、愛宕1丁目に「虎ノ門ヒルズ レジデンシャルタワー」(地上54階地下4階、高さ215m、住居550戸)が2021年1月竣工予定。そして写真の教会があったところは、虎ノ門1-17~20番地の4つの街区をまとめて「虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー」(地上36階地下3階、高さ183m)が2020年1月に竣工、6月に開業した。
再開発された地区には「森ビル」が8棟あった(1982年の住宅地図による)が、まとめて建て替えてしまったことになる。

日本基督教団 芝教会」は、1874(明治7)年に創設された日本で最も古いプロテスタント教会だという。1936(昭和11)年に写真の会堂を建てて西新橋3丁目から移転した。
建物は『日本近代建築総覧』では「芝教会、港区芝西久保桜川町、建築年=昭和11年、構造=木造1階建、設計=間野貞吉」。西久保桜川町は旧町名、木造というのはなにかの間違いで、RC3階建てである。
「日本基督教団芝教会」の保存活用に関する要望書』(2015年1月、日本建築学会関東支部が、芝教会と港区教育委員会に出した要望書)には、間野貞吉(まのていきち1903~1979年)は、「新潟県直江津市(現上越市)出身、東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、復興建築助成株式会社、日本万国博覧会工務部などを経て大林組に入社し、晩年まで勤務」「大林組では、全国のゴルフコース及び施設の設計を手掛け……戦後日本のゴルフ施設建設に貢献した建築家として知られる」「父・松蔵が教会の熱心な信徒であり、その縁で教会堂建設を依頼された」などとある。施工は「竹村工務店」。

都市徘徊blog>日本基督教団 芝教会』には、2013年に撮影された内部の写真が載っている。そこに見られるステンドグラスや照明具などは、建て直された教会に移されたと思われる。

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渡辺ビル。港区浜松町2-4。1990(平成2)年

JR浜松町駅の西、北に世界貿易センタービルがある街区の南にあった、スクラッチタイル張りの古いビル。角の入り口の表札は「渡邊ビルヂング」だ。『日本近代建築総覧』では「渡辺ビル、港区浜松町1-4-12、建築年=昭和6年(1931)、構造=RC3階建、設計・施工=大林組」となっている。
浅い凹型の平面、冂型のモルタルの窓の縁取り、六角形の穴が開いた屋上の手すりなどちょっと普通でない造りがみられるビルだ。正面入り口は建物のコーナーではなく、東側の北側にあり、その入り口から塔屋までの壁面と屋根に装飾を集中させている。柱型の頂部からは猛獣の首が突き出している。塔屋の屋根は和風で、帝冠様式といえなくもないが地上からはその屋根はよく見えない。
現在、「浜松町駅西口開発計画」(世界貿易センタービルの建て替え)が進んでいて、渡辺ビルは2015年8月で解体された(都市徘徊blog>渡邊ビルヂング)。

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エスペランサ靴学院。台東区東浅草1-8。2011(平成23)年9月11日

写真は吉野通り(山谷通り)の東浅草一丁目(旧今戸一丁目)交差点の一つ北の交差点で、その西南角に小さいが震災復興期に建ったビルが残っている。1973(昭和48)年創立の「エスペランサ靴学院」という、靴づくりの専門学校が長年使っていたが、2020年3月に閉校し、大阪で再出発するという。
エスペランサ靴学院>学院について>設備紹介』によると、建物は1928(昭和3)年に建てられたとあるが、詳細は分からない。元は銀行とするサイトがあって、2か所ある入り口の重厚な感じはいかにもありそうである。1966(昭和44)年の住宅地図では「菅原建設KK」。

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台東区立東浅草小学校(東南角と正門)。台東区東浅草2-27。2011(平成23)年9月11日

土手通りの吉原大門交差点の南東の裏手にある小学校。台東区立東浅草小学校は2001(平成13)年4月に待乳山(まつちやま)小学校と田中小学校が合併して発足した小学校で、校舎は待乳山小学校だったもの。つまらない校名にしたものだが住所が東浅草だから無難なのだろう。1966(昭和41)年の住居表示実施前は「浅草日本堤二丁目」で、学校の南に隣接する「日本堤公園」は旧称のままだ。
『日本近代建築総覧』では「区立待乳山小学校(旧東京市待乳山尋常小学校)、東浅草2-27、建築年=昭和3年、構造=RC3階建、設計=東京市、施工=芝江初五郎、「東京市教育施設復興図集」による」。その『東京市教育施設復興図集』(東京市役所編纂、昭和7年)に、「東京市待乳山尋常小学校」の名称で、住所=浅草区地方今戸町(じがたいまどまち)十五番地、創立=明治6年2月、規模=20学級、起工=昭和2年6月1日、竣工=昭和3年5月31日などとあり、本工事の請負者として芝江初五郎の名前が出ている。



台東区立東浅草小学校(南面)。2011(平成23)年9月11日

内部は改装されているのかもしれないが、外観は竣工時のままを保っているように見える。南側の「屋内体操場」(『復興図集』での名称、体育館)は、竣工時の外観と違っているので建て直されたのだろうか。平面の大きさは変わらないので、補強等の改修で済んでいるのかもしれない。
東側に正門があるが、かつては北の日の出会商店街の通りにあったようだ。そこが現在は保育所(台東区立東浅草こどもクラブ)の建物があって、そのために正門を替えたのだと思われる。



台東区立東浅草小学校(西面)。2011(平成23)年9月11日

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恵門荘。台東区日本堤1-17
2011(平成23)年9月10日

土手通りの吉原大門交差点と吉野通り(山谷通り)の東浅草二丁目交差点を、東西につないでいるのが「日の出会商店街」の通り。写真はその通りの中央あたりを北に入ったところにあったアパートと思われる建物。
この辺りは、「山谷地区」と言われたところで、写真の建物の周辺は今でも「簡易旅館」が密集している。写真の建物もあるいはそれだったのかと考えられなくもないのだが、旅館だとだいたいそれらしい玄関がついているものだし、住宅地図では個人名になっているのでアパートと決めて、「恵門(えもん)荘」とかってに命名した。現在、建て替わったマンションが「サン・グリーン恵門」(2012年9月築、7階建)という。

下の写真は1枚目写真の右奥の建物。1986年の住宅地図では「アパート」。建物の奥は恵門荘と同じだけの長さがある。恵門荘ともに「サン・グリーン恵門」に替わった。


アパート。台東区日本堤1-17。2011(平成23)年9月10日

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橋場交番。台東区橋場1-31。2005(平成17)年7月31日

明治通りの白髭橋の西、清川二丁目交差点から南へ250mで、西からの「アサヒ通り」と合わさる「橋場交番前」交差点。写真は交差点の東南角にあった交番。今は交差点西北角のセブンイレブンの隣、アサヒ会通り沿いに移転している。戦前の建物が手狭になって建て直したのかと思う。写真の交番は取り壊されて1台分の駐車場になっている。
2010年1月のストリートビューでは駐車場にするための工事中のように見える。取り壊されたのは2009年だろうか。

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かぶちゃん。台東区橋場2-3。2019(平成31)年4月13日

写真左端の建物が、「五軒長屋」と同じ角の南の角に建つ建物。その右の看板建築に「居酒屋かぶちゃん」の袖看板が付いているが、その店は引き戸の玄関から、写真中央の日本家屋のほうである。玄関の前に鉢植えを置いてしまっているから、店は閉めたようだ。
『加藤嶺夫写真全集 昭和の東京2台東区』(株式会社デコ発行、2013年、1800円+税)の写真(かぶちゃんの前の通りの一つ右の街区から撮っている。昭和45年撮影)ではこの家並みに薬屋がある。1966(昭和44)年の住宅地図にある「カブキ堂」がそれかと思うが、「かぶちゃん」の店名との関連がありそうだ。
写真右端の家は四つ辻の角にある。『写真全集』の写真では床屋だ。


かぶちゃん。2019(平成31)年4月13日


橋場米穀店。橋場2-2
2019(平成31)年4月13日

「五軒長屋」の角を南へいってすぐのところ。戦前からの長屋の1軒が残っているものと思える。後ろの二階が家全体の形としてしっくりこない。平屋に二階を増築したのかもしれない。商売はやっているようには見えない。

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八軒長屋。台東区橋場2-12
2019(平成31)年4月13日

白髭橋の南西の矩形の地域が橋場2丁目。その中心辺りが12番地で、その東側の道路に2棟の看板建築の長屋が南北に並んでいる。写真手前が北の八軒長屋。2間の幅しかない1軒もあるが全長30mである。片流れ屋根の簡易な造りだ。1階上の浅い庇に鋸刃模様が浮き彫りされている。
北の角が「倉島木工製作所」で看板に「仏壇製造倉島」とある。その隣は2軒分の「張替本舗 金沢屋」、畳や襖の張替、リフォームをする店。南のほうに「三谷友電社」という電気工事の会社があり、他は住居と思われる。

下写真の五軒長屋は改修済み。八軒長屋と同じ片流れ屋根なので、改修前は八軒長屋と同様な外観だったのかもしれない。





五軒長屋。台東区橋場2-12。2019(平成31)年4月13日

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