ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




浜田病院。千代田区神田駿河台2-5。2003(平成15年)12月18日

産院として有名な浜田病院は歴史ある病院で、1894(明治27)年に「東京産婦人科病院」として開設され、1914(大正3)年に浜田病院と改称された。写真の建物は、1966(昭和41)4月に建ったもので、5階建のようだ。建物全体を写した写真が『千代田遺産>浜田病院』に載っている。竣工時は病床が82あったが、1995(平成7)には、4・5階に健診センターを開設して、43床になっていた。
現在は「御茶ノ水ファーストビル」(2008年7月築、14階地下2階)に建て替わり、病院はその1-4階に入っている。

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ヴィクトリア本店。千代田区神田小川町3-4。1987(昭和62)年8月1日

神田小川町の靖国通り沿いを中心に立並ぶ運動具店の代表的な1軒であるヴィクトリア本店の旧建物。写真右奥が靖国通りの正面。
1969(昭和44)年の住宅地図では、建物がページで切れていて、北半分に「美津濃スポーツ/第一銀行神田支店」、南半分に「第一銀行事務部分室/駐車場」という記載。どうも写真のビルは第一銀行神田支店だったらしい。美津濃スポーツは靖国通りの向かい側に、撮影当時は、1951年に建てたビルがあったはずだ。
ヴィクトリアがいつから写真のビルに入ったのか、現在のビルに替わったのがいつなのかは分らない。『荷風! vol.7』(平成18年、日本文芸社、880円)によると、「昭和45年(1970)、駿河台下交差点の角地に「ビクトリア」が巨大店舗をオープンさせる」とあり、現本店はその何年か後になるのだろう。

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市川屋荒物店。千代田区神田淡路町2-4。2003(平成15)年3月23日

当ブログ前回の松林舎クリーニング店の並びで、左写真右のビルが外堀通りとの角にある。現在は市川屋の右の空き地に「エリズフローラ」(2005年8月築、5階建5戸)というマンションが建ったが、4軒の古い2階建の家はまだ残っている。「荒物金物雑貨」の看板の市川屋は日除けが同じようだから2棟の家で同じ市川屋なのだろうか。左のほうは2012年12月開店の「三日酔」という「カレーとウイスキーの店」になっている。右の空き地は「ニッポン」という理髪店だった。
出没!アド街2007.09.18神田淡路町』では市川屋は29位で「大正初期創業の荒物屋。店内には、掃除道具など日用品と共に、昭和中期に売り出された灰皿や、囲炉裏や長火鉢の灰をならす為の道具などが整然と並んでいます。」と解説されている。

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松林舎クリーニング店。千代田区神田淡路町2-4。1988(昭和63)年8月14日

靖国通りの淡路町交差点付近の裏通りで、昭和末の景観である。写真正面奥が、かつて「加島屋酒店」があった五叉路。写真左のビルは「同和病院」、正面の建物は「須田町北部会館」。
写真右の家並みが最近まであまり変わらない感じで残っていたが、写真右の電柱の後の「松林舎」が2023年5月に取り壊されてしまった。
出没!アド街ック天国 神田淡路町』は2016年放送だが、松林舎は12位で「創業明治37年のクリーニング店で、お店は女性3人の家族経営。4代目の田中すみさんはアイロン仕上げを担当していて、その丁寧さはぼたんといった老舗からも頼りにされている。」と解説されている。店主の高齢化に加えコロナ禍もあったようだが、2021年6月末で廃業していた。

松林舎。2003(平成15)年3月23日

写真左の家は、現在では建て替わったか全面改装されたかできれいな建物に替わり「八百松」という青果店になっている。松林舎は撮影した数年後だと思うが、壁面をクリーム色に塗り直している。

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神谷氷室、有限会社山形縫製。千代田区神田須田町2-1。2008(平成20)年3月18日

万世橋際の「肉の万世秋葉原本店」の裏手。この街区は中央線の高架に沿って、南を靖国通りに顔を出したごく小さい範囲で、現在はビルが4棟並んでいる他は、北の裏通りに面して神谷氷室の木造店舗があるだけ。
山形縫製のビルは縦長の小さい窓が並んでいるのを見るとRC造だろう。4階は増築されたものに思える。ストリートビューを見ると、2013~17年に取り壊されて今も3台分のコインパークになっている。
昭和30年頃の火保図では、この街区(神田須田町2-1)にある8軒のうち7軒が「ラシャ屋」で1軒が「ボタンS」。山形縫製は「昭和ラシャ」、神谷氷室は「松矢ラシャ」になっている。それが1969(昭和44)年の地図では、店は続いているらしいのに「ラシャ」の文字がなくなって単に「○○商店」となっているのが多い。「昭和ラシャ」は「昭和裁断」で、「神谷氷室」が載っている。隣接する3、5、19番地には「羅紗店」の文字が点々とみられるが、ラシャ屋の衰退が始まっているように感じる。

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池田屋ラシャ店。千代田区神田須田町1-8
2003(平成15)年3月23日

神田須田町は、戦後から1960年代にかけて「ラシャ(羅紗)屋」といった、紳士服の生地の店が建並び、「神田羅紗屋街」とも言われた。交通博物館の向かい側にあった池田屋もその一軒で、裏地やボタンなどを扱う卸問屋だった。その営業期間が不明で、撮影時では「柏山邸」である。また戦前の商売がなんであったかも不明。
建物は見たとおりの銅板葺看板建築。大正末に建てられた。3階は屋根裏部屋であることを主張するマンサード屋根という傾いた壁。その傾きが左右対称でないのは、押し入れを増築したため。1階が店舗で、2階は居間と台所、3階は寝室が2室(続・東京銭湯お遍路>看板建築。)。
2012(平成24)年10月に取り壊される際、内部が公開されてそのときのレポートがネットで見られる。

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かんだやぶそば。千代田区神田淡路町2-10。1985(昭和60)年7月7日

「かんだやぶそば(神田藪蕎麦)」は、東京の蕎麦屋といえば真っ先に上がる有名店だが、それだけに昼食にちょっと入るという店ではない。おつまみを前にして酒を飲んだ締めに蕎麦を食べて出てくる、という感じだろうか。とはいっても蕎麦だけ食べても一向に構わないわけだが、腹を満たそうなどとは思わない方がいいようだ。
「連雀町藪蕎麦」として1880(明治13)年に創業した。1923(大正12)年、関東大震災で店舗が焼失した後、同年12月に再建されたのが写真の建物。連雀町の地名が消えたのは1933(昭和8)年で、それからは「神田藪蕎麦」と改称した。
2013(平成25)年2月19日、火災が発生し建物は半焼する。翌年10月、鉄骨構造平屋(一部2階建)の店舗を改築して営業を再開した。焼け残った、釣り行燈や看板はそのまま使用しているという。

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東運電機ビル。千代田区外神田3-2。2010(平成22)年10月2日

右奥へ延びるのが「秋葉原ジャンク通り」で、中央通りの西の裏通りになる。その一帯がパソコン関連の部品を扱う店が多いのでジャンク通りとなったが、飲食店もけっこうある。ジャンク通りの南よりの四つ角に面して「東運電機ビル」という古そうなビルがあり、さらに横丁側にもう2棟の古いビルが並んでいる。いずれも戦後まもなく建てられたと思われる小さなビルで、横丁側のビルは「巴ビル」と「遠藤ビル」。
東運電機ビルは2012年8月に「野郎ラーメン」が開店した。その時壁を黄色に塗り替えている。
巴ビルは今はテナントは替わったが、やはりガールズカフェ等の広告で埋まっていてビルのファサードが見えない。「1962年2月築、RC5階建」としてある不動産サイトがあった。
遠藤ビルは3棟のなかでは最も古そうである。1950年代の建築ではないか。



遠藤ビル、巴ビル。外神田3-2。2010(平成22)年10月2日

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S家住宅(kufuku±)。千代田区外神田4-11
2013(平成25)年7月14日

蔵前橋通りの外神田五丁目交差点(地下鉄銀座線末広町駅)と山手線ガードの間の横町を南に入ったところにある出桁造の民家。戦前築の建物としていい外観だが、空襲で焼き払われた地区なので、戦後まもなく建てられたものだろう。1947(昭和22)年の航空写真ではまだ建っていないようなので1950年頃の建築だろうか。
1階の左右端に戸袋があり、その間は8枚のガラス戸なので、内側は広い土間かと思う。『ヒトサラMagazine>KUFUKU±』によると、「青果・乾物問屋兼住居」だったという。正面の大きな梁を見ても、かなり凝った造りかと想像できる。家主はこの家に相当な思い入れがあるようで、建替えなどは考えず、商売を辞めても建物の保守には気を遣っていたという。
2019年5月に、内部の様子をなるべく生かすように改装して「KUFUKU± (暮富食)」というフレンチレストランが開店した。ランチでも予約が必要という人気店だとか。


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神田青果市場跡。千代田区外神田4-14。1996(平成8)年4月27日

写真手前の広場は、秋葉原駅を電気街口改札から北へ出たところで、現在はUDXビルが建っている辺りのようだ。写真奥の低層ビルは、神田市場の最も北にあった建物。
神田青果市場が太田市場に移ったのは1989(平成元)年5月。それから7年経って、売場・買荷保管所などは解体されて敷地の北の事務所棟?が残されているが「広大な敷地を利用して大型駐車場やバスケットコートとして供用された(『 livedoor Blogアキバ>神田青果市場 秋葉原での業務開始と再移転』)」という時期。
写真の青果市場の建物は1970年頃に建てられたものと思える。『X>三日画師』に、通り側から撮影した写真が見られる。

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