ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




北原ビル。千代田区神田岩本町15。1987(昭和62)年9月13日

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入ってすぐのところ。『日本近代建築総覧』に「北原プレス機械K.K.、神田岩本町15、建築年=昭和4年、RC3階建て、設計・施工=清水組」とあるビル。「北原プレス機械」というとメーカーのような感じだが、ビルの横に「北原商店」の文字の跡が残っていて、卸売業だったのかもしれない。
壁のスクラッチタイルが建築時のものなら、相当いい保存状態といえる建物だ。コンクリートがむき出しになっている壁面は剥落する前にタイルをはがしてしまったのだろうか。
喫茶店の「アカシヤ(明石屋)」はレポートしているサイトが幾つかあり、それによると創業は1973(昭和48)年。内部は開業当時のままのようで、テーブルに砂糖壺が置いてあり、モーニングサービスもやっている。
3階に袖看板を出している「産業資材新聞社」の創立は1968(昭和43)年。創立時から北原ビルに入ったかどうかは知らないが、アカシヤよりは先だったのかもしれない。


近影。2008(平成20)年3月18日

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )






ミネギシ。千代田区神田岩本町1。1986(昭和61)年12月30日
右上:カンノ。1987(昭和62)年9月13日

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入ると北原ビルという昭和2年に建てられたビルがある。そのビルの向かい側にあったビルと看板建築である。
1階に紳士服のミネギシが入っているビルは1989年9月に現在のビルに建て替わった。『日本近代建築総覧』に「ストック・アンド・ゼノックス第4別館、神田岩本町1-9、建築年=昭和4年、RC4階建て、設計=鉄道省技師」で載っている。元はどういう会社が建てたものか判らないが、戦後まもなくの地図では「株式会社井上商店」。ストック・アンド・ゼノックスという会社は、念のためネット検索してみると、1971(昭和46)年の創立で1993(平成3)年に倒産したようだ。

角の看板建築の家は「㈱カンノ/東京カッティング神田営業所」と「エーゼット」の袖看板があるが、下写真のシャッターの張り紙は「店舗募集」だろうか。
東京ダウンタウンストリート1980's>千代田区岩本町~その三(2011.06.05)』で1982年に撮られた営業中の写真が見られる。店内に既製服が吊るされていて、「カッティング」とは布地の裁断のことらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





黒田栄次郎商店、海老原商店。千代田区神田須田町2-13。1983(昭和58)年8月

昭和通りの和泉橋のすぐ南、柳原通りを西へ入って万世橋の方を見た昭和の家並み。
写真左の黒田栄次郎商店は1987年撮影の下の写真では取り壊されている。『看板建築』(藤森照信/増田彰久、三省堂、1988年、1500円)には「…海老原商店の左側はここ数年の〈地上げ〉狂騒の中で放火され焼失した。」とある。海老原商店も被害を受けたが、すぐ修復したという。それが下の写真で、上部の銅板の飾りは作り直したばかりなので緑青の色には至っていない。現在のYKS黒田ビル(黒田機器KK )は1992年の完成だから何年間かは駐車場にしていたのかもしれない。
海老原商店とその右の「高山松蔵」は『日本近代建築総覧』に「海老原商店、建築年=昭和3年、木造3階建、設計=黒沢画伯(正面デザイン)、施工=鴻池組、看板建築」「高山巌宅、建築年=大正12年」と記載されている。この2棟の建物については『看板建築』に内部の写真や間取りとともに解説されている。海老原商店は明治20年に海老原利八が、古着の商店街として栄えていた柳原の一画に店を構えたのが始まり、とあり古着商から始まったらしいが、現在の商売はわざと伏せたのだろうか、書かれていない。
『看板建築』では「高山家」は仕舞屋の造り、としている。この家は2、3階の窓の雨戸が銅板貼りだ。銅板を貼るのは防火のためだから、雨戸も銅板貼りにすることは当然のことかもしれないと改めて気が付いた。2階窓の手すりの下に「高山松蔵」の銅板の表札がある。




上:にんべん洋服店。神田須田町2-13
1987(昭和62)年9月13日
左:源商店。1987(昭和62)年2月1日

高山家の右は銅板貼り看板建築の二軒長屋だろう。左の家の上部の壁に書かれている字は右から「ナラ洋服店」。二軒長屋と高山家の2棟3軒の銅板貼り看板建築はつい最近まで残っていたが、2014年5月に取り壊されて現在はTimesの駐車場になっている。
出桁造りの源商店と車庫として使われているらしい角の看板建築の家は、現在マンションに替わっている。その「アーバイル神田イースト」(10階建て34戸)は2004年2月の完成。写真の右枠外には横町を介して伊関電気

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





舘ネーム店。千代田区神田須田町2-15。1987(昭和62)年9月13日

神田川の南に沿って、万世橋から柳橋まで東西に通じている通りを柳原通りという。江戸期は神田川の水が増水しても下町にいかないように土手が築かれて「柳原土手」の地名で、古着屋が並んでいたという。それが明治期もうけつがれ、通りには市電も走った。大正期には古着が洋服の既製服に替わってきて、戦後は岩本町を中心に繊維業の密集地になっている。
写真は柳原通りの、昭和通りと山手線ガードの間の辺り。銅板張りの看板建築が並ぶ。中央の同じ形の3軒あるいは4軒は長屋のようだ。店は左の横町の角から「伊関電気、まりっぺ、舘ネーム店、都築商店、215ビル(古畑)」。現在は写真の看板建築はまとめて「クレアール神田」(2004年6月築、13階建て68戸)というマンションに替わった。その1階に伊関電気と舘ネーム店が無事に入っている。

テレビでも取り上げられる「岡昌裏地ボタン店」は215ビルの右にある。『東京ダウンタウンストリート1980's>千代田区神田須田町(2011.05.22)』には、1982年に撮影した看板建築の町並みが載っている。そこには岡昌裏地ボタン店の左にあった「柴田ミシン商会」の看板建築も記録されている。


伊関電気。神田須田町2-15。1987(昭和62)年2月1日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






ロケット本部(旧本間商店)
千代田区神田須田町2-1
上:1989(平成1)年2月26日
左:1986(昭和61)年12月30日

靖国通りの、中央線高架が横切る横にあったビル。ビルの看板から、電気製品販売のロケット7号店で、またロケット本社事務所が入っていたようだ。「マイコン」の看板がある。「パソコン」の言葉が定着する前の頃らしいが、どんな製品が売られていたのだろうか? 
このビルは『日本近代建築総覧』にある「本間商店、神田須田町2-1、建築年=昭和5年、構造=RC造5階建」である。昭和25年頃の火保図では「本間ラシャS貿易部」で、本間商店はこの辺りに集中していたラシャを扱う店だったと判る。
現在は「ホンマビル」(1990年7月に竣工、8階建地下1階)に建て直された。ビルの名称からすると業種は変わったかもしれないが本間商店は存続しているらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





万世本店。神田須田町2-21。1988(昭和63)年1月24日

万世橋袂の肉料理の万世の旧ビル。万世の左の細いビルは「サナダビル」。中央線高架の後ろに「ロケット8号店」、その後ろのTOSHIBAの看板が乗っているビルが「ウィン神田高橋ビル」。中央線の電車が絶妙のタイミングで画面に入っている。狙っていたのかどうか記憶にない。たぶん偶然だろう。
肉の万世』によると、創業は戦後間もない1949(昭和24)年9月9日。現本店の地に2階建て洋風の店舗を建築して精肉・惣菜店を始めた。1959(昭和34)年のパンフレットには4階建てのビルの作業場が載っていて、店舗は、隣にあった「虎野」という店を買収して増築している。以下、『秋葉原歴史記事>肉の万世』を参照する。普通の肉屋がレストランを始めたのがいつかは判らないようだ。「万かつサンド」の発売は1955(昭和30)年頃。写真のビルに替わったのは1963年(昭和38年)。そして現在の10階建てのビルに建て替えたのが1991年(平成3年)8月だ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





神田交流変電所。千代田区神田鍛冶町2-11。1992(平成4)年7月5日

JR神田駅のすぐ北、山手線と中央線が分岐する内側にある神田交流変電所の旧建屋。現在は建て替えられて、一八通りの門には「東日本旅客鉄道株式会社/神田交直流変電所」の表札がかかっている。写真の建物だったときの地図では、1950年頃の火保図では「東京鉄道管理局神田変電区開閉所」、1969年の住宅地図では「赤羽給電区神田交流変電所」、1986年では「給電保全事務所/秋葉原保全所」。
建物に関してはなにも判らない。デザインは昭和7年に建てられた神田変電所と同じモダニズムである。建築年も同じ頃のように思える。
変電・饋電(き電)・通信のもろもろ』というサイトに神田交流変電所が解説されている。この施設の役割は電気に関する知識がないと分からないのだが、一八通りの向かい側にあった神田変電所が直流変電所で、写真の交流変電所と統合したのが今の交直流変電所なのだという。
消えた近代建築>JR東日本神田変電所』によると平成13年に取り壊された。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





神田きくかわ。神田須田町1-24。1986(昭和61)年6月8日

中央通りと一八通りとの交差点角に神田きくかわ(喜久川)の古いビルが残っている。神田きくかわは昭和22年の開店で、すでに老舗である。建物は昭和初期のRC造のビルかと思うが、そのほうの情報は得られなかった。1986年の写真では建物の角に引き戸があるが、現在はその右に移された。
ぼくはこの店に入ったことはない。うな重の値段が2千円だった頃は昼食に一人で鰻屋に入ったこともあるが、3500円にもなってしまうと、気楽には食べられなくなった。うな重のランクは「並、上、特上」「梅、竹、松」などがあるが、きくかわは「イ、ロ、ハ」だそうだ。どの店でも鰻の量の差である。2尾分の「ハ」を食べるなら「イ」を二回食べるほうが粋ではないかと思う。
同じビルの奥は「恵比元(えびもと)」という居酒屋。上の写真では看板に「大衆酒場」とある。いまや聞かなくなった言葉だ。みんな自分は大衆ではないと思い始めて、世間から言葉としての「大衆」は淘汰されていったのだろう。実はぼくも「おれは大衆ではない」と思っている。勘違いしているかもしれない。



左:丸茂電気。1987(昭和62)年2月1日。右:須田町ビル。1994(平成4)年2月6日

神田菊きくかわと並んで中央通り沿いに2棟の古いビルがあった。丸茂電機のビルは現在、「マルモビル」(1990年頃の竣工か?)に、須田町ビルは、「ACN神田須田町ビル」(2008年竣工)に、建て替わっている。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




神田美容室
千代田区神田美土代町11
1989(平成1)年4月29日

靖国通りの裏手にある林文具店から南へすぐのところ。写真右から、神田美容室、奥村洋紙店倉庫、みどりや。神田美容室と奥村洋紙店とは同じ二軒長屋である。現在は写真の2棟=3軒が「ブックスビルディング」という5階建てのビルに替わっている。神田美容室はすでに廃業していて、奥村洋紙店に建築計画のお知らせが貼られている。撮影後じきに取り壊されたかと思う。
神田美容室は長屋の2階前面を増築して看板建築にしている。1階を美容室に改装したのと同時の工事だったのかもしれない。
「みどりや」は地図からもってきただけの店名だが、写真からは小料理屋のような感じだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





神田万彦。千代田区神田須田町1-28。1988(昭和63)年8月14日

中央通りの須田町交差点の南の横町を西へ入ったところ。写真右のモルタル壁の看板建築は住宅のように見える。現在は5階建てのビルに建て替わって、1階には「神田万彦/果実問屋/創業天保十年」という看板がかかっている。撮影時でも万彦の自宅兼事務所だったかと思う。
がっちりマンデー!!>…千疋屋総本店…(2014.11.09)』には、大田市場から高級果物を仕入れて千疋屋へ入れているのが神田万彦(青木稔社長)とある。千疋屋との付き合いは178年になるとか。
『子規と四季のくだもの』(戸石重利著、文芸社、2002年、1600円)を立ち読みした中に、須田町交差点角にビルを構えていた「万惣」との関係が書かれていた。初代青木惣太郎(弘化2年生まれ、川越出身)は、神田市場(多町・須田町にあったが関東大震災で秋葉原駅の北へ移転。1989年大田市場へ再度移転)の果物問屋万彦の養子になり、ノレン分け後万惣を興す、とあった。それにしても万惣は解散したということなのだろうか。
写真左の家は看板の文字がよく読めないが「時計 武田」だろうか。現在は5階建てのビルに建て替わっている。



理容室ハシモト。神田須田町1-30。2012(平成24)年3月4日

神田万彦と同じ四つ角のもう一方の角。理容室ハシモトは『 千代田区神田周辺地区における景観形成の推進のための調査』(平成17年、歴史・文化のまちづくり研究会神田研究部会)では四軒長屋としている。ハシモトが2軒を使い、写真左の壁を改装した部分に2軒、ということだろうか。昭和28年頃の火保図にはすでに「橋本床ヤ」と出ている。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ