ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




JR上野駅(正面玄関口)。台東区上野7-1。1995(平成7)年頃

昭和末に建替えて高層ビルにする計画があったのが、バブル崩壊で立ち消えになったそうで、現在も昔のままの姿を拝見できる。まだ暫くはこのまま現存し続ける感じだ。そのせいか、あるいは、機能性が求められる種類の建物ということが大きいのだろう、建物自体にあまりときめくような魅力が感じられない。やはり大振りなのだろうか。
初代駅舎が関東大震災で消失した後、1932(昭和7)年4月に完成した2代目駅舎である。設計は鉄道省、施工は鹿島組。 『鹿島の軌跡>第7回 上野駅の歴史』には、「鉄道省にとっても近来にない大建築工事で、設計者酒見佐市ほか十数名の技術者が配置された」と記されている。 『土木建築工事画報』の第8巻3号(昭和7年3月号)に「上野駅本屋新築工事概要(鉄道省東京第一改良事務所長・平井喜久松)」が載っている。
写真の車が止まっている入口は地下1階の荷物の搬入口。その上が乗降客の出入り口で、昔はその手前が道路になっていて車を横付けできた。




JR上野駅(広小路口)
上:1995(平成7)年頃
左:2007(平成19)年4月20日

上の写真ではまだ煙突があり、屋上に平屋のプレハブが乗っている。現在ではかなりすっきりしてしまった。

石川啄木の歌以来ということもないだろうが、上野駅は東北地方と直結したイメージがある。終戦直後の混乱期では「地下道の浮浪者」は1950年代になっても見られたと思う。その後の高度成長の前、集団就職が上野駅と結びつく。それと家出娘、そこからの連想で「若いお巡りさん」。「駅前旅館」もその頃のイメージに入ってくる。若い人にはなにをいっているのか分からないかもしれない。1960年代には上越や東北へのスキー客で賑った。自家用車が普及する前で、みんな大きい荷物を背負い、スキーを手に持って列車に乗り込んだ。ぼくもまだ若かったからそれだけの元気があったのだ。
日本の戦後の歴史は上野駅を抜きには語れないようである。

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磯辺ビル。中央区銀座7-13
1987(昭和62)年5月5日

昭和通りの1本西の裏通り。写真左の工事用フェンスのところが交詢社通りとの角で、松沢商店がこれからビルを建てるのだろう。写真では磯辺ビルには田丸屋酒店が入っているが店舗ではないと書いてある。現在は「郷(さと)」というそば屋になっている。
昭和10年頃の火保図にRC3階で「山本」となっている建物だろう。ロマネスク様式を思わせるデザインを取り入れた小さな店舗建築である。昭和30年代の火保図では「磯部法律事務所」の記載。この大きさでは高層化も難しいので、今まで残ってしまったのかとも思うが、ビルのオーナーがビルに愛着をもっているのかも知れない。

ビルの前の通りの向かい側(西側)は、明治期までは三十間掘の河岸地だった。東豊玉河岸と西豊玉河岸である。大正期には飲食店や会社の木造建物が建ち並んでしまったかと思う。三十間掘には、交詢社通りに賑橋(にぎわいばし)、花椿通りに出雲橋が架かっていた。賑橋は関東大震災後に新たに架けられたもの。
「出雲橋」をネット検索したら「はせ川」という小料理屋が出てきた。以下は『 新潮社>雑誌> 新潮』の『 立ち読み>2011年11月号「吉田健一」長谷川郁夫』の一部。
 出雲橋のたもとに、“はせ川”という小料理屋があった。長谷川春草・湖代の俳人夫妻が昭和六年にはじめた小さな店である。春草は渡辺水巴の弟子。開店に際しては同年の久保田万太郎が、素人の春草を昔馴染の浅草の料理人に紹介して四季折り折りの鮮魚や野菜の見分け方や調理法、商売の方法を学ばせるなど、なにくれとなく世話を焼いた。
 窓の下は三十間堀。対岸の舟宿には貸舟が繋がれていた。「あの三十間堀は南北に通じてゐるから、『はせ川』のはうから見ると、西陽が向ひ側の舟宿にカンカン当つて、それが川波に反映してゐてね――あれは忘れられない風情ですね――」とは、河上徹太郎による回想である(「出雲橋界隈」)。
「厚板に丸太の脚、四、五人掛けのテーブルが四卓というこの小体な店」とあり、文士や文芸雑誌の編集者のたまり場になっていたという。
井伏鱒二と荻窪風土記と阿佐ヶ谷 第一部』にも「はせ川」が出てくる。『荻窪風土記』は新潮文庫で持っているので開いてみた。「外村繁(とのむらしげる)のこと」の章に、「そのころ(昭和13年)旧市内では、私は出雲橋の長谷川か新橋の吉野家で飲んでいた」とか、戦後、三好達治のカッパの詩に清水崑の絵で暖簾を作って常連客にも配ったことなどが出ている。サイトには「昭和52年に店仕舞」とあり、当書には「長谷川は数年前に転業して画廊になった」(『荻窪風土記』の刊行は昭和57年)とある。
はせ川のあったのは出雲橋の西の袂らしいから火保図に出ていないかと見ると、昭和30年代の地図に、花椿通りの角から2軒目に「長谷川のみや」がある。現在は長谷川ビル(銀座7-11)で長谷川画廊が入っている。どうもこれが怪しい。

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上野労働相談所。台東区上野7-3。1983(昭和60)年頃

JR上野駅の正面玄関前の広場の北に沿った家並み。1986年の地図では左から、昭栄ビル、上野労働相談所、福田アドセンター、寿屋、八ツ目漢方薬局、昭和通りの上野駅東交差点。
1958(昭和33)年の区分地図では、上野労働相談所は「上野公共職業安定所(車坂25)」なので、元は職安だったのを、台東区役所のそばにその職安を移して、こちらは「労働相談所」という位置づけにしたのかと思う。
『日本近代建築総覧』では「上野労働相談所、建築年=1925(大正14)年、構造=RC3、設計=下谷兵事会、昭和14年以前は市民食堂」。「兵事会」というのは、ネットにある記述から想像すると、徴兵をスムーズに実行するための末端の組織か、それに携わる人のようである。イメージとしては在郷軍人会ともダブって来る。なぜ設計者として出てくるのか不思議だ。
「市民食堂」として建ったらしい。後に職安になったという経過は、深川の 「内職補導所」(現・深川東京モダン館)と同様だ。建物自体のデザインもなんとなく共通するものがある。
冷たい月の陽炎LIBERTSTYLE 深川モダン(2010.04.10)』を参照すると、1918年の米騒動をきっかけに、下層階級の救済のために東京市は市営の食堂(公衆食堂)を設置する。関東大震災後もその必要性は増して、最盛期には都内に16箇所が存在したという。そのうちの「上野食堂(下谷区車坂町)」がこれだ。1936年から役目は終わったとして順次閉鎖していったという。


小泉ビル
上野7-2。1983(昭和60)年頃

写真右に写っているのは昭栄ビルで、上の写真左に写っているビル。このビルは今も健在。「政治結社日乃丸青年隊」の看板と窓に「青思会」の文字があるのは小泉ビル。窓の間の壁はスクラッチタイルだから、元は全面にそのタイルが貼られていたのだろう。
現在は「南大門上野駅前ビル」というのに替わった。やはり主に飲食店が入っている。

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改造社ビル。中央区銀座5-13。1992(平成4)年2月16日

前の大通りは昭和通り、写真左が晴海通りとの三原橋交差点。中央のビルが改造社ビルで、今も健在だからけっこう有名だ。改造社書店と日之出寿司本店が入っている。正面の右半分がタイルや瓦が剥ぎ取られて壁面を白く塗っている。装飾を施した古いビルがどのように経年変化するかを、まともに見せられる思いである。普通ならタイルや瓦の剥落を恐れて事前に取り去ったことが考えられる。しかしそれなら半分だけ改修するというのも変だ。改修をした人が古いビルはみっともない、と考えて真新しいビルに見えるように直したのかもしれない。今ならちょっと考えられないが、昭和初期に建てられたビルが普通に存在していた頃なら、こういう例はけっこうあったような気がする。
現在では下右の写真のように、改修によって瓦はなくなってしまった。
改造社ビルの左に越中屋商店が入っているビルは林ビルというが、やはり戦前の古いビルである。現在は三原橋交差点角のぎんざ日之出寿司と林ビルは「デュープレックス銀座タワー(2006年10月竣工)」に替わった。



左:1986(昭和61)年5月11日、右:2000(平成12)年1月19日

ウィキペディアで、改造社書店が雑誌『改造』と円本の改造社の末裔と知って驚いた。今の今まで出版社の改造社とこの改造社書店とが結びつかなかったのはうかつだった。ただし改造社ビルが、改造社が建てたかとなると疑わしい。昭和10年頃の火保図では「采女会/倉」、昭和30年代のそれでは「三原橋ビル/不二貿易KK他六社」という記載だ。
改造社の円本、『現代日本文学全集』の1冊が手元にある。15年ほど前に神保町で100円で買ったものだと思う。昭和5年の発行で、奥付の住所は東京市芝区愛宕下町4-40だ。残念ながら「定価1円」という文字は入っていない。
昔の出版業界については、ぼくはもっぱら『私の岩波物語』(山本夏彦著、文春文庫、1997年)を参考にしている。

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中村整骨院。中央区銀座8-14
上:1987(昭和62)年5月5日
左:1987(昭和62)年12月27日

昭和通り沿いの銀座8丁目にあった銀座第一ホテル(現在は三井ガーデンホテル銀座プレミア)の向かい。1986年の住宅地図では、上写真左から「銀座はりセンター、空き家、テーラー野口、渡部工業」だが右の2軒はすでに取り壊されている。昭和40年代の地図では、空き家の看板建築の家は「中村整骨院」。昭和30年頃の火保図では「日本接骨師会」となっている。あまり見かけないデザインの看板建築だ。なんとなく大正期のデザインという気がする。

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古萌(こほう)会館。中央区銀座8-16。1987(昭和62)年12月27日

昭和通りの蓬莱橋交差点付近の裏路地で、中銀カプセルタワービルの後ろにあった長屋。同じ造りの看板建築の三軒長屋が2棟並んで建っていた。今はビルに替わった。
古萌会館というのは会社名で、そのホームページによると関西調理師紹介所である。このあたりから築地にかけては料亭が多くある。客が立て込んだときには古萌会館に電話すれば板前を派遣してもらえるのだと思う。昭和28年5月に銀座8-11で創業したという。当時の住所で銀座東8-11ならこの長屋の場所である。現在では少し北へ移って、小さいビルに入っている。
古萌会館の左の家にショーウインドウがある。東屋履物店だった名残だ。古萌会館の右の家は、かつては秋山テーラー。
下左写真の角の家は、上写真左端の建物。


左:1987(昭和62)年12月27日、右:1990(平成2)年5月6日

この長屋は『Index to Anthologies> 東京真空地帯 中央区銀座』で取り上げられている。

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近藤パン店、山崎金物店。千葉県松戸市松戸。2003(平成15)年9月28日

旧水戸街道の角町交差点付近。ヤマザキパンの店が近藤商店、出桁造りの家が金物屋の山崎商店。近藤商店の左の小松湯は現在では取り壊されて跡地は駐車場になっている。
近藤商店の横を見ると古い看板建築のようにも見えるが、いつごろの建築なのか判断できない。正面のヤマザキストアの造りは、同じものを他で見たことがある。



天野理髪店。1989(平成1)年4月2日

昭和2年に江戸川に葛西橋が架けられて、そこから角町交差点への通りが通じた。水戸街道(国道6号)は、その道筋に移ったのである。現在では新葛飾橋を通って市街をパスする道路に再度移った。写真は角町交差点の角の古そうな出桁造りの家が並ぶ光景。
現在、写真右の八百萬はビルに建て替わったが、2軒の出桁造りの家は健在。床屋は古くからある天野理髪店。その隣の家のガラス戸には「宮下洋服店」とある。

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マチ生花店。千葉県松戸市松戸。1989(平成1)年4月2日

旧水戸街道の松戸郵便局の南の並びである。左から、松葉屋化粧品店、マチ生花店、平内屋鮮魚店。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)の「昭和12年の家並み図」では「OKタクシー、町山花屋、平内屋魚店」で、花屋と魚屋は戦前から替わっていない。写っている建物は今も健在だが、平内屋は「ユートオートサービス」とい店に替わっている。
松葉屋の左は水戸街道の渡船場へ続くわりと広い横町で、「下横町」といった。かつては渡し舟を降りるといったんこの角に出て北へ向かった。「角町」という旧町名もそのへんが由来だという。角から南への道は「八幡街道」といったそうだ。



小野寺理髪店。松戸市松戸。1989(平成1)年4月2日

下横町より南の家並みで、写真左端はほとんど角町交差点。現在は写真左端の家が残っているが他は建て替わったか空き地になっている。写真から、右の床屋はガラス戸に「オノデラ」、赤いテントには「JEANS FIRST」、左の看板建築に「翠松堂書店」の字が読める。葬儀が行われているようだ。
『昭和の松戸誌』の「昭和12年の家並み図」では、左から「小松屋履物店、翠松堂、銅半、ランプ屋、石井魚店、奈良橋理髪店」。翠松堂は解説文に「福岡書店と並ぶ二軒の本屋。園芸学校の学生が相手の小さな店。品のある女主人が印象的。・・・松井天山の昭和十二年判絵図が張ってあった。今はない」とある。「奈良橋理髪店は移転、後は小野寺理髪店に替わる」ともあった。

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松戸宿本陣。千葉県松戸市松戸。2003(平成15)年12月2日

写真の左手にすぐ、旧水戸街道の宮前町交差点、右手にすぐ江戸川の堤防である。写真の家は撮影時では民家だったようだが、松戸宿の本陣だった建物。松戸宿には、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠28軒という構成だった。宮前町交差点のすぐ南、松戸郵便局のところが脇本陣跡である。18世紀半ばに建造された茅葺屋根の本陣が1867(慶長3)年に焼失した。その後に再建されたのが写真の家だ。
2004年6月に取り壊されて、現在は3階建てのマンションに替わっている。ぼくは明確に本陣とは意識していなかったらしく、撮った写真はこの1枚しかない。歴史的にも貴重な建物と思うが、保存できなかったのは費用の関係だろう。土地を買い取るか借りる費用、建物を維持していく費用が松戸市では捻出できなかったのだろう。近年名が知れるようになってきた戸定邸と一体にして、その別館のような扱いが出来なかったのかとも思うが・・・
玄関部分が松戸市立博物館に保管されている。その展示と市内の史跡を示す標柱などの設置を進めるために 「松戸宿振興会」が資金援助を募っている。

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上:相幸酒店。千葉県松戸市松戸
2007(平成19)年3月28日
左:フタバ時計店。1989(平成1)年4月1日

春雨橋そばの 岡山栄泉堂から少し南へ行ったところ。相幸酒店は旧水戸街道沿いに見られる古い商店に多い構えの家だ。店舗の裏に住居や倉庫が長く続いている。明治末の建築かもしれない。『昭和の松戸誌』(渡邉幸三郎著、崙書房出版、平成17年)では、屋号は「相模屋の幸三郎名より」ということだ。
相幸酒店の左は「宇田川ビル」で、店は「京葉ガスサービスショップ春雨橋店」。『昭和の松戸誌』記載の昭和12年家並み図では「宇田川家具店」だが、燃料を主に扱っていたそうだ。京葉ガスの店になったのもその関係だろう。
写真右の駐車場にあったのが左写真の2軒。フタバ時計店は、昭和12年家並み図に「双葉屋時計店」として出ている。

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