ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




横浜大桟橋診療所。横浜市中区海岸通1。2009(平成21)年7月26日

大桟橋にあった「公益社団法人日本海員掖済会」の診療所のビル。「掖済(えきさい)」とは、腋(わき)に手を添えて救い導くことを意味するとか。掖済会は明治13年に前島密が中心になって設立された。たぶん当時からの名称なのだろう。病院ではないので病室はないようだ。テナントとして幾つかの会社が入っていたらしい。
週刊 横濱80’s>商船運輸現場事務所』によると、ビルは1955(昭和30)年に建てられ、後に5階が増築されたが再び5階は撤去されて4階建てに戻された。当サイトには1982年に撮影された5階建てのビルの写真が載っている。
2013年頃には診療所は閉鎖され、2016年頃にビルは取り壊された。現在は公園のようなただの広場になっている。


左:2009(平成21)年7月26日。右:ストリートビュー2016年4月より

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同發菓子工場。横浜市中区山下町95。2009(平成21)年7月26日

本町通りの西の裏通りになるシルク通りの東端にある倉庫だったと思われる建物。写真左に行くとすぐ中華街で、同發菓子工場の後は「横浜中華街パーキング」という大きなビルの駐車場。「中華菜館 同發」は横浜中華街の広東料理の大型店。中華菓子や点心の売店もある。「同發菓子工場」というから月餅や肉まん等を作っていると思われるが、よく分らない。
週刊 横濱80’s>同發菓子工場が「工場」の建物について詳細に調べていて、昭和2年頃に建てられたナブホルツ商会の生糸倉庫だった可能性があるとしている。『横濱80’s』が参考資料の1つにしている『開港のひろば第59号、「横浜の外国商館」展余話』(横浜開港資料館発行)』に「山下町95番地に1887年(明治20年)から1931年(昭和6年)まで生糸の輸出と時計の輸入製造販売を行っていたスイス系商社のナブホルツ商会(Nabholz & Co)」という記述があるそうだ。1931年以降は、「絹・人絹織物の輸出を行っていたインド系商社のキシンチャンド・チェララム商会、ジ・ラムチャンド商会、ウトマル・エンド・アスダマル商会の三社」が進出する。
開港のひろば第127号』には、横浜の政財界が関東大震災で神戸へ去ったインド商人を呼び戻すべく、「横浜市の低金利融資を受けた日本絹業協会が、住居・店舗・倉庫一体型で、すぐに商売を始められるインド商人専用の建物を建設した」とある。同發菓子工場の建物がその1棟かもしれない、ということだ。
「シルク通り」の名称は生糸の貿易商がこの通りを中心に多数あったことによるのだろう。写真の建物が同發のものになったのは1970年代前半という。

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アパート。横浜市中区山下町73。2002(平成14)年1月19日。

本町通りの県民ホール入口交差点の南西角にあったアパート。写真右が本町通りとの角で、そこから南に入った横丁から撮っている。写真左の建物も窓が同じデザインなので右の建物と同じアパートなのだろう。古い航空写真を見ると、写真左の棟はシルク通りで曲がって、L字型平面をしている。
現在は「アクティ横浜山手」(2006年11月築、13階建108戸)という大きなマンションに替わっている。

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横浜税関紅葉坂寮。横浜市西区紅葉ケ丘8。2010(平成22)年4月10日

掃部山公園のすぐ南、県立音楽堂の向かい側にあった建物。1970年頃の建設だろうか。横浜税関紅葉坂寮の土地建物は2013年1月、関東財務局によって競売で売却された。現在は「クオス横濱紅葉坂」(2015年2月築、7階建64戸)というマンションが建っている。

写真の寮の南に隣接して「第三管区海上保安本部紅葉ケ丘宿舎」があった。ベランダのある一般的なマンションの外観で、2017年に取り壊された。写真は撮らなかったがストリートビューで見られる。現在は「KDXレジデンス横濱紅葉坂」(2021年3月築、6階建75戸)というマンションに替わった。


横浜税関紅葉坂寮。写真中央の塀の表札が「第三管区海上保安本部/紅葉ケ丘宿舎」

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花咲団地。横浜市西区花咲町4–111。2003(平成15)年2月8日

紅葉坂の下からなんとなく撮った写真。花咲団地は日本住宅公団により建てられた団地。日本住宅公団は1955年7月の設立で、1981年10月で解散、2004年7月に都市再生機構(UR)が引き継いでいる。
『ウィキペディア』によると、「住棟の1階部分はすべてピロティ構造になっている。また、斜面に立地するという立地条件から、全ての住棟は階段状の形状の設計になっている。竣工は1958年(昭和33年)、4棟から構成(4階建て、北廊下型、3LDKのみ)賃貸住宅 - 37戸。分譲住宅 - 51戸全88戸」。写真手前から1号棟~4号棟。入口が塞がれているように見えるが防犯のためだろうか。
2008年から建替えが進められ、2011年11月に「横濱紅葉坂レジデンス」(壱番館98戸、弐番館88戸、参番館182戸)が竣工した。今でも「花咲団地」で通用するのだろうか。

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矢澤煉瓦蔵。静岡市葵区七間町8
2020(令和2)年11月18日

駿府城を背にした静岡県庁の正面から南へ通じている通りが「七間町(しちけんちょう)通り」。600m余で駿河町通りにぶつかり、その先は駿河町通りになる。七間町は古くからの繁華街で、明治期には演劇などの娯楽街として栄えたらしい。1948(昭和23)年には七間町通りにアーケードが架かり、七間町のシンボルだった「地球ネオン」ができた。空襲で焼失した後、3年で復興してしまったらしい。1950年代までは映画館が建ち並び、最盛期には10館もあったという。

矢澤煉瓦蔵は七間町通りの中程を東へ入ったところにある。明治末の建築で、漆器店の倉庫だった。煉瓦造2階建。2011(平成23)年9月、静岡市の「景観重要建造物」に指定された。現在は「GALVO GALLERY」というブティックが入っている。

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静岡銀行本店。静岡市葵区呉服町1-10。2020(令和2)年11月18日

静岡市の駿府城の南の繁華街に戦前に建設されたビルが3棟残っている。何れも中村與資平設計になる、静岡市役所本館、県庁本館と静岡銀行本店である。静岡銀行本店は本通り(県道208号)の呉服町一丁目交差点から西へ向かう呉服町通りとの角にある。本通りの向かい側には日本銀行静岡支店と清水銀行静岡支店があってさながら金融街だ。
静岡銀行本店は「三十五銀行本店」として1931(昭和6)年に建てられた。設計=中村與資平、施行=清水組、構造=RC造3階建。西と北面に4本のドリス式オーダーをもつ古典主義様式の重厚な銀行建築だ。
昭和15年1月15日の大火、また昭和20年6月19日の空襲では周囲の木造家屋はすっかり焼失したと思われるが、銀行社屋は類焼を免れている。RC造だったからにしても、緻密な設計と施工が関係しているのだろうと思わずにはいられない。

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静岡県庁本館。静岡市葵区追手町9。2020(令和2)年11月18日

1937(昭和12)年6月竣工、設計=中村與資平、施行=勝呂組、RC4階一部5階建。ただし、泰井武の原案に基づいて中村が実施設計をした。中庭が2カ所ある日の字形の平面。
ふじのくに文化資源データベース>静岡県庁本館』によると、1934年、新庁舎建設が県議会で可決されて、浜松出身で静岡市役所を設計した中村に依頼しようとしたが、費用が高すぎるとして、懸賞募集をおこなうことになる。中村はいったいどんな建物を考えたのだろう。県庁だから市役所以上に豪華なものにしようと考えたのだろうか。『国指定文化財等DB>静岡県庁本館』には「昭和9年の懸賞設計当選案(泰井武案)に基づき,大村巳代治ら県営繕の実施設計により竣工」と解説文にある。泰井は1926年開催の神奈川県庁舎懸賞設計に応募し、三等二席に入選している。
「帝冠様式」と言われるが、見た感じは無理矢理日本趣味を付け加えたようには見えない。すっきりとまとまった近代建築だと思う。


静岡県庁(北側)。2014(平成26)年11月18日

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静岡市役所本館。静岡市葵区追手町5。2014(平成26)年11月28日

静岡市役所の向かい側は県庁だが、その横が駿府城の「大手御門跡」の石垣。追手町(おうてまち)は大手町と同じ意味だという。
静岡市役所本館は、設計=中村與資平、施行=勝呂組(かつろぐみ)で1934(昭和9)年の建設。RC4階建、塔屋付き。1986(昭和61)年に新館が完成し、それ以降「本館」と称されたのかと思う。スペイン風の様式建築で、完成時は塔が市内のどこからでも見えたに違いない。時代は様式建築の時代は過ぎた頃だと思うが、中村與資平の強い希望があったようだ。静岡市も同郷の出身である中村に是非、という思惑があったのだろう。市役所にしては贅沢な建物だが、今ではかえって市のステータスになっている。
勝呂組は、『ふじのくに文化資源データベース』によると、1882年頃創業の地元の土木工事施工会社。東海道本線富士川橋梁に携わり、阿倍川橋(1923年)と富士川橋(1924年)が現存する。建物では静岡地方裁判所(1913年)、県庁本館(1935年)など。1962年に別子建設と合併して住友建設になり、現在は三井住友建設。



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河村内科医院。横浜市西区宮崎町40。2010(平成22)年4月10日

紅葉坂登り口から南の方に曲がった坂道にあった洋風の医院。2015年に解体され、「グリューンハイム紅葉坂」(2016年9月築、7階建17戸)というマンションが建った。医院は南の駐車所だった場所に一戸建ての診療所が建てられた。
『日本近代建築総覧』に「河村医院、建築年=昭和初期、木造2階建」で載っている。正面は1階が前に出ていて。その上はベランダ。さらに玄関の庇が前に出ている。まったくの洋館に見えるが、この部分は2階では半間ほどの厚みしかなく、商店だったら看板建築である。これという装飾はついていないが、玄関の柱の上部に切り込みのような飾りと、屋根の下に持送りがついている。後は住居部分だと思うが、さらに後に別棟の住居があった。



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