ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




渡し舟船着き場前の民家。中央区佃1-2。1988(昭和63)年1月17日

写真の通りは右へ行くと佃川支川(佃堀)に架かる佃小橋がある通りで、写真左の家は隅田川沿いの通りとの三叉路の角にある。その三叉路の隅田川べりには「佃まちかど展示館」という小さな施設が平成24年に開館した。そこが佃の渡しがあった場所で、船着き場は隅田川に張り出した桟橋を横向きに造っていた。コンクリート堤防はなく、1964(昭和39)年に佃大橋の開通で渡し舟が廃止された後に堤防が築かれたことになる。展示館の横に小さな「佃島渡船」の石碑がある。以前あった場所からは展示館の建設により、少し動かされている。その説明版によると、「(佃の渡しは)大正15年東京市の運営に移り、昭和2年3月、無賃の曳船渡船となった。 この石碑は、この時に建てたものである」。
写真の通りは写真右端の山本菓子店の先からいくらか狭くなるが、そこまではかなり広くて広小路のような感じである。昔からの幅なのだろうか? 東京都の無形文化財である盆踊り(念仏踊り)が行われる場所として、昔から確保されていたのかもしれない。
写真の景観はずっと変わらないように思っていたが、そうはいかず、角の二軒長屋と出桁造りの佃屋酒店の間にあった2軒の民家が建て替わった。



佃屋酒店、山本菓子店。佃1-2。1989(平成1)年10月27日

1枚目写真の右端から逆方向を撮った写真。山本商店は駄菓子屋。リバーシティ21などの超高層マンションに住む子供もやってくるのかもしれない。創業100年以上としているサイトもある。佃屋酒店は戦前に建てられた出桁造りの家で、昔からある店のようだ。山本商店の建物は戦後に建て替えたものだろう。昭和20年代の火保図では、「大塚酒店」と「荒物S〈店〉山本」。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





佃大橋から。中央区佃1-3。1988(昭和63)年1月17日

佃島といえば佃煮で、佃島の隅田川沿いの通りに、江戸期から続く老舗が3軒、店を開いている。すなわち、佃源田中=1843(天保14)年創業、天安=1837(天保8)年創業、丸久=1859(安政6)年創業の3軒。
佃源田中はビルに建て替わってしまい、旧店舗の写真を撮っていなかったのだが、佃大橋から写した写真に写っているので掲載する。写真右のビルの左がそれだが、店先がどんなものなのか分からない。現在の店舗部分は旧建物を復元しているのかもしれない。写真中央の出桁造りの家が天安。写真左端の切妻屋根が丸久。丸久は2009年に建て替えられた。



天安。佃1-3。1988(昭和63)年1月17日

『東京建築回顧録Ⅱ』(読売新聞社編、読売新聞社、1991年、1700円)によると、建物は昭和7年、3代目店主のときに建てたものだが、外観は創業時のままという。二階の和室に佃島のかつての漁業風景を描いた豪華なすかし彫りの欄間がある。一階奥の工場は15畳ほどの広さ。創業以来の秘伝のタレは、関東大震災の時には何本ものとっくりに詰め、漁師に頼んで沖まで運ばせて守ったという。


民家。佃1-3
2000(平成12)年1月5日

佃源田中の横の路地を入ると、写真の家の前へ出る。佃島の旧家だろう。3枚の表札の他に古そうな、ホーローと思われるプレートが貼られている。「(月島)家庭/婦人會員/衛生」の小さな楕円形のプレート、「月島警察署/防犯灯協力の家/月島防犯協会」の細長いプレート。そして青地に白で菊の紋章と「靖国の家」。そのプレートはだれが発行したものなのだろう? 国? 靖国神社? 在郷軍人会?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





国立予防衛生研究所。品川区上大崎2-9。1987(昭和62)年11月22日

国立予防衛生研究所はJR目黒駅から北へ200mのところにあった。現在はUR都市機構の「シティコート目黒」という4棟484戸という、2002年に完成した大きい団地になっている。
建物は『日本近代建築総覧』では「国立予防衛生研究所本館、建築年=昭和7年、備考=旧海軍大学施設」とあるだけ。海軍大学校として建てられたもので、『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)には写真のキャプションに「海軍大学校/竣工年=昭和2年、設計者=大蔵省 予防医学研究所に転用されて現存。直線を基調に緊張感のある意匠」とある。大蔵省設計の建物一般に言えるが、特別な特徴がない公共建築の外観に見える。
『ウィキペディア>海軍大学校』によれば、築地から上大崎へ移ってきたのは1932(昭和7)年なので建築年もその年だろう。海軍大学校の以前は「陸軍衛生材料廠」があった。海軍大学校は高校を卒業して入るのではない。海軍に入って10年ほども実務を積んで優秀と認められた士官が選ばれて入学する。募集人員は10〜20名前後という。
『ウィキペディア>国立感染症研究所』によれば、国立予防衛生研究所は厚生労働省の施設として1947年に設立された「予防衛生研究所」が前身。1949(昭和24)年6月1日、「国立予防衛生研究所」に改称。1955(昭和30)年3月23日に海軍大学校跡地に移転してきた。1997(平成9)年、「国立感染症研究所」に改名。1992(平成4)年10月、新宿区の厚生省戸山研究庁舎に移転した。建物は1999(平成11)年に取り壊されたという。


国立予防衛生研究所。1987(昭和62)年11月22日

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





寺田カメラ店。文京区本郷5-33。1988(昭和63)年2月21日

写真の通りは言問通り(の延長)で、菊坂下交差点のすぐ北。写真左端に新坂の登り口がある。3軒の看板建築は長屋だろう。1974年の住宅地図では「寺田カメラ」とその隣が「田中椅子店」。日本家屋は二軒長屋らしく、その右端は別の1軒かもしれない。写真右のタイル壁は1986年の地図で「昇龍堂」。
現在、写真の範囲は「チェリス本郷菊坂」(1999年3月築、7階建41戸)というマンションが建っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





旅館太栄館。文京区本郷6-11。2007(平成19)年2月16日

ストリートビュー(2016年12月撮影)を見たら太栄館は取り壊されて、整地だか基礎工事だかの最中である。驚いて調べてみると2014年6月で閉館していた。「建築計画のお知らせ」では、7階建て30戸のマンションが建つらしい。完成予定は平成29年9月30日。
東京都23区&周辺のホテル&旅館>旧・太栄館』によると、太栄館は「客室(すべて和室)は全52室(12畳の部屋もある)あるほか、会食場(宴会場)は50畳、30畳、20畳の3つ。むろん大浴場も完備している」という日本旅館だった。本館、新館、別館と、3つの棟がある。
石川啄木ゆかりの宿として有名である。啄木は明治41年に北海道から上京したが貧窮して金田一京助のせわで、当時「蓋平館別荘」といったこの下宿屋に移った。喜之床に移るまでの9か月間をここで活動した。その建物は木造3階建て、中庭のあるロの字型平面。明治43年には帝大に入学した内田百閒が入っている。「太栄館」と改称したのは昭和10年頃という。
新坂の坂上にそびえていた3階建ての建物は、昭和29年に失火で焼失した。『東京の坂道』(石川悌二著、昭和46年、新人物往来社、1800円)では、昭和27年としている。建て替わった2階建ての建物もロの字型の平面なので航空写真では違いがよく分からない。最近取り壊された太栄館の本館は昭和30年頃の建築だった。
写真は新坂から見上げた別館。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )






上:胸突坂上の借家。文京区本郷5-32
2007(平成19)年2月17日
左:胸突坂、章文館。本郷5-32-本郷5-9
1988(昭和63)年10月16日

胸突坂の上半分の両側に旅館章文館があった。左写真の右が本館(白い、看板建築に見えるのはその一部)、左のビルとその後ろに隠れている切妻屋根が新館である。撮影時には坂道の南側には下から章文館、三国館、鳳明館と並んでいた。今思えばそれらを撮影していないのが悔やまれるが、当時は特に目を引く建物ではなかったらしい。
章文館は映画「男はつらいよ」第28作「寅次郎紙風船」(昭和56年12月公開)のロケ地として知られているようだ。ぼくは当記事を書くためネット検索して知った。映画はテレビで見ているが今まで気が付かなかった。この映画のおかげで章文館の玄関口がどういうものだったかが分かる。肝心の章文館の沿革は分からない。
現在は、章文館本館があった所には「ラ・ファミュ菊坂」(1995年1月築、5階建て)というマンションに、三国館があった所には「三国ハイツ」(2002年3月築、3階建て6戸)というアパートになっている。ラ・ファミュ菊坂の前庭の石や灯篭は章文館の遺構かもしれない。章文館新館は残っているが「本郷倶楽部」の看板に替わっている。ある会社の宿泊施設ではないかと思う。

その本郷倶楽部の坂道の上にあるのが1枚目写真の民家。戦前からあるものだろう。写真では2棟だが奥にもう1棟あって、3棟ともなんとなく似通った家なので借家として建てられたものではないかと思う。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





旅館つたや。文京区本郷5-32。1988(昭和63)年10月16日

写真の道は胸突坂の通りで、菊坂の通りと本郷通りを結ぶ江戸期からある道。つたやの手前の向かい側に鳳明館台町別館がある。写真はつたやの裏側で、玄関は写真の通りの北の通りにある。その本館の裏側に2棟の別館が増築されたようだ。昭和22年の航空写真にそれらしいのがすでに写っている。その写真では空襲で焼けた跡に建てられたような感じだ。胸突坂の通りの北に沿った1軒分までが消失して、それに接する北側は焼けていない。不自然な感じで、その1軒分の線は本郷通りまで続いているから、建物疎開によって家が取り壊された跡なのかもしれない。森川町が空襲で焼けなかったのは、その防火線が効果を発揮したためなのだろうか。
東京情報BOX by Mediaport によると、つたやは昭和22年創業という。鳳明館と同様に下宿屋からの転業と思える。2011年8月に閉店した。「営業時はJTBなど多数の予約サイトと提携、独自のホームページも持つ積極経営型だったが、東日本大震災の影響で修学旅行生や観光客の激減の直撃を受け」とある。2012年8月には解体され、「Lierre本郷」(2014年2月築、5階建て37戸)という賃貸マンションが建った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





鳳明館台町別館。文京区本郷5-12。1988(昭和63)年10月16日

鳳明館本館の東の玄関のある小道の向かい側に鳳明館台町(だいまち)別館がある。戦後間もない昭和26年に営業を始めている。本館だけではさばききれないほどの客があったのだろう。昭和28年には森川別館が建てられる。
台町は旧町名で、江戸期から菊坂台町があり、1965年に現在の本郷5丁目に編入された。鳳明館本館の東の道から東側は戦災で焼失している。昭和22年の航空写真には鳳明館台町別館の敷地には小さな切妻屋根の家が1棟あるだけだ。
1999年7月に「『歴史ある建物の活かし方』出版記念シンポジウム」が行われ、鳳明館の小池邦夫氏が「こだわりを持った和風旅館」という題で講演している。それによると、台町別館は自宅として普請が始まったようである。完成まで2年以上かかったそうだ。小池氏自身が建物や凝った建具などの価値を知らずに、便利なようにと改装してしまった個所があると正直に言っているのが面白い。





鳳明館台町別館。浴室が八角形のものに建て替えられている。2007(平成19)年2月17日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





鳳明館本館。文京区本郷5-10。1988(昭和63)年10月16日

鳳明館(ほうめいかん)本館は2000(平成12)年に国の登録有形文化財に指定された。そのデータベースでは、「建築年代=明治30年代、昭和初期改造。木造地上2階地下1階建、瓦葺。下宿屋として建設されたが、昭和初期に下宿屋兼旅館に改造し、さらに昭和20年に旅館建築に模様替えした。各室毎に異なったつくりで、部屋の銘木に合わせた部屋名とする。下宿・旅館が多かった本郷地区の歴史的な景観を伝える」という記述だ。
その明治30年代に建てられた元の下宿屋は、『文京の古本屋>読みもの>第十一回:「わが町探訪 第六回『鳳明館本館』では、「47室の下宿屋」としているからかなり大きい建物だったらしい。たぶん、現在の「日」形平面の外形はそのままではないかと思う。建物の西側が菊坂に向いた斜面で、胸突坂から建物を見上げると3階建てに見える。地下1階とは、その3階建部分の地上階のことだろう。
『文京の古本屋』によると、鳳朙館の創業者は小池英夫(1898-1975)という人で、岐阜県輪之内町出身。小池氏が朝陽館本館、真成館、本郷館、朝明館を営業していた同郷の種田四兄弟を頼って上京したのは大正12年。真砂町の朝盛館を買入れ事業を始める。昭和11年にそこを売って鳳明館を購入した。小池氏は建築に興味を持っていて、木場に行っては銘木を買い集めた。戦後の昭和20年に旅館に転業するさい棟梁と相談しながら、銘木に合わせた部屋に改装した。自分の趣味に合った部屋が造れてうれしかったろうと推察するが、ぼくは芸術的センスがないらしく、銘木の価値が分からない。



鳳明館本館。2007(平成19)年2月17日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





八百重、とり忠。千葉県市川市真間2-18。2005(平成17)年3月7日

大門通りから横丁側の真間大門会商店街に入って40mいくと路地が横切っていて、その四つ角の角に八百屋と鶏肉専門店が入った看板建築風の店舗がある。戦前からあるというほど古くはなさそうで、片流れ屋根のわりと簡易な造りなので、戦後になって建てられたものと思う。
下左写真は上の写真で八百重の右に写っている、看板建築の二軒長屋。店を閉めてかなりたつようで、なんの店だったのか手がかりがない。今は2棟の住宅に替わっている。
下右写真は看板建築の二軒長屋の向かいの出桁造りの家。建物は今もあるが看板を外して廃業したようだ。そのクリーニング店の横の路地の向かいは「テーラー陶山」だから、「スヤマ」は陶山で、同族の経営ではないかと思う。


左:看板建築の二軒長屋。市川市真間2-18。右:陶山クリーニング店。市川市真間2-16
2005(平成17)年3月7日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ