ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




五軒長屋。墨田区文花3-6。2004(平成16)年1月24日

十間橋通りから宮田通りへ入ってすぐのところにある商店長屋。片流れ屋根の看板建築風長屋だ。写真では「斉藤モーターサイクル」が看板をあげているだけで、他は住居になっているようで1階は住宅の造りだ。

下の写真は五軒長屋に続く家並み。写真右は四軒長屋。現在はその右側の2軒が取り壊されている。ただしストリートビューには写っているからわりと最近取り壊されたのだろう。シャッターの家の前に床屋の回転看板が放置されている。 金子理髪店だった。写真左奥に行くと向島警察署の横を通って明治通り・丸八通りとの小村井(おむらい)交差点に出る。



四軒長屋。墨田区文花3-6。2009(平成21)年1月19日

宮田通りは、たから通りの旧道(曳舟たから通りの西をくねりながら通っている道路)を延長する形で中居(中井)掘の宮田橋までを大正7年に開通させた。向島警察署の前の通りを「中居掘通り」という。昔は道路の東側に中居掘というたぶん排水路だった掘割があり、その向島警察署の前に架かっていたのが宮田橋。「宮田」はこの辺りの字(あざな)である。宮田通りの名前は宮田橋からきているというより、当時は地名としての宮田がまだ生きていたと思うからそこからの命名だろうと思う。宮田通りはその1・2年後には旧中川の平井橋まで開通した。(『八広の爺ちゃん墨田区の小中学校>押上小学校』参照)
中居掘は1954(昭和29)年に埋め立てられ、道幅が拡げられた道路は「中居掘通り」になった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






旧・弘盛庵。墨田区文花3-8
上:2009(平成21)年1月19日
左:2013(平成25)年5月5日

十間橋通りの文化3丁目バス停の辺りから、斜めに東へ別れる通りがある。その通りは向島警察署の横を通って明治通りを突っ切り、平井橋で旧中川を渡って総武線平井駅の辺りで蔵前橋通りに出る。一般的かどうか、どのあたりまでを言うのか知らないが「宮田通り」である。その十間橋通りとの鋭角の角から看板建築にした古い店舗が3棟残っている。現在も営業しているのは赤い日よけテントの武藤商店(タバコ店?)だけのようだ。
宮田通り側の角に玄関を持ってきた家は「弘盛庵」というそばやだった家。ショーウインドーが残っている。入り口周りにギリシャ神殿風の柱や洋風のレリーフがあって、日本そばの店として造られたのではなさそうだが、そこに「生そば」の暖簾がかかっていても特に違和感はないかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





富士屋の四軒長屋。墨田区文花3-2。2004(平成16)年1月24日

十間橋通りの「文花3丁目」バス停の辺り。写真右奥にすぐ、曳舟たから通りとの「たから十間橋」交差点。看板建築風の四軒長屋は、現在、取り壊されて駐車場になってしまった。建物は片流れ屋根なので、日本家屋の前面を洋風の造りにしたものとは異なるが、戦前の建築ではあるようだ。写真では富士屋(「惣菜の店」の看板だが、精肉店)とやじま染物店が営業している。左の家の古い看板は読めないが、1985年の住宅地図では「平井商店」。その家の前に「中国物産店/直輸入販売/杜食品」の看板が置かれているが、路地を入った東武亀戸線の線路際の杜食品工業のものだ。



宮林理化学硝子。文花3-2。2004(平成16)年1月24日

1枚目写真右に写っている看板建築の二軒長屋。左の家の欄間?に「宮林理化学硝子㈲」の表札が出ている。いわゆるガラス屋さんのような社名ではないので、薬品用のガラス容器でも制作しているのだろうか?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






都立港工業高校。港区西新橋3-18
2009(平成21)年6月8日

港工業高校は2004年に廃校になったから、撮影時ではすでに港工業高校ではない。最近、取り壊されてほとんど更地になっているのを目撃した。跡地は慈恵大学が都から土地を借りて、大学と病院のビルを建てる。土地の賃貸料金は年に約7千5百万円。
学校の敷地の西側に長く伸びている校舎は愛宕高等小学校として昭和3年に建ったもの。高蔵氏からのコメントによると、港工業高校は昭和21年4月に、高輪工業、渋谷工業、麻布工業が統合して開設され、昭和23年に開校した、ということだ。
愛宕高等小学校の創立は明治41年という。1907(明治40)年に小学校令が改正され、義務教育(尋常小学校)が4年だったのが6年間になり、高等小学校の修業は2年間となった。それに伴って愛宕高等小学校が設立されたということだろうか。2年間では中途半端に思えるが、それで社会に出ていく子供が普通にいたわけだ。より上級の教育を受けようという子供は、高等小学校ではなく、中学校に進んだ。高等小学校は区立ではなく東京市立で、各区(旧区)に1校はあったようだ。1941(昭和16)年、名称が国民学校高等科と変わったから「愛宕国民学校高等科」と称しただろうか。1947(昭和22)年、学制改革により、新制中学校に改組された。おそらく愛宕中学校(現・御成門中学校)に引き継がれたものと思う。
関根要太郎研究室@はこだて>旧愛宕高等小学校』によると、「設計:東京市、施工:鴻池組、竣工:昭和3(1928)年12月24日、構造:鉄筋コンクリート造3階建て」ということだ。各階の庇が水平に伸びているが、その庇が壁と曲面でつながっているのが外観の特徴だ。校庭の方に教室があるのが普通だから写真の窓は廊下側だろう。

コメント ( 9 ) | Trackback ( 0 )





民家。神奈川県横須賀市汐入町4。2002(平成14)年2月9日

汐入子乃神通りの汐入南郵便局(現在廃局)から家屋にして南へ10軒ほど先に、目立って立派な出桁造りの民家がある。10軒ほど飛ばしてしまったが、詳細に見れば汐入南郵便局と写真の民家の間にも、通りの両側に古い家屋が10軒以上残っている。写真の民家が目立つのは、家屋そのものの高さが高いのと元の状態がわりとよく残っているからだ。1階の半分が硝子引き戸なので、その部分は中は土間で、昔は商品を置いで卸業でもしていたのではないだろうか。

その民家から1軒おいて大黒湯。周辺は駅前の商業地からは離れた住宅地で、この辺りの家はみな浴室は備えていると思える。よく商売が続いているものである。建物はいつ頃建てたものなのだろうか? 戦後まもなくのように見受けられるのだが……。

汐入子乃神通りは谷筋を山へと登る坂道で、坂本町に入るまで、まだしばらく続く。ストリートビューを眺めただけだが、その両側は大黒湯までと同様に、点々と古い商家や民家が残っている。目立つものとして、大黒湯隣の新聞販売店だった家、トタン貼りの看板建築、鈴木呉服店、汐入宮元町内会館と隣のショーウインドーがある元商家、近田酒店とその隣の銅板貼りの家を挙げて置く。


大黒湯。横須賀市汐入町4。2002(平成14)年2月9日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





小松園茶舗。神奈川県横須賀市汐入町4。2002(平成14)年2月9日

汐入子乃神通りの子乃神社の向かいの辺りである。古い商店の建物が4棟並んでいる。洋風看板建築の家は看板がないので住居になっているらしい。小松園茶舗、山本氷燃料店、ドン(スナック?)が営業中だ。
現在は、ストリートビューで見ると、氷店はそのままだが、あとの3棟は住宅に建て替わったり月極駐車場になっている。



汐入南郵便局。汐入町4。2002(平成14)年2月9日

1枚目写真の右枠外に汐入南郵便局がある。2階に銅板貼りの戸袋があり、1階の庇も銅板が貼られている。正面はかなり平面的だが屋根の出桁も見える。裾のモルタル仕上げの枠のような壁が特徴的で、最初から郵便局として建てられた建物であることを示しているように思う。2011年9月20日で廃止されてしまった。
郵便局隣はお花畑(イノマタ生花店)。出桁造りの古い建物である。バス停は京急バス衣笠駅行きの「汐入四丁目」バス停。鈴蘭灯の街灯は今は替えられている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






上:信州庵、子乃神窯
左:旧・野田理容店
神奈川県横須賀市汐入町4
2007(平成19)年11月16日

汐入大通り商店街は汐入駅から南へ来て、交差点の中にある交番(汐入町連絡所)のところで終わる。その先は汐入町4丁目に変わり、街灯も汐入大通りのものとは異なり、「汐入子乃神通り」の標示板がかかっている。商店街の組合は「汐入宮元商店会」だ。この商店街沿いに子乃神神社があり、昔は宮元町といったらしい。
商店街の名残りは感じられるが、駅から遠くなる分、汐入大通り以上にさびしい。古い建物がけっこう残っているのは、商店街の衰退が戦後まもなくから徐々に続いてきたからだろうか。
1枚目の写真は子乃神通りに入ってすぐのところ。左から、信州庵(生そば)、子乃神窯(陶芸教室?)、大八(居酒屋)、タバコ店。

床屋だった看板建築の家は大八の向かいにある。野田理容店の名称は『 イトシノヨコスカ 汐入を歩く1』(リンク切れ)で知った。床屋だと一目で判る一階の造作が、廃業して久しいらしいのにちゃんと残っているのが街の観察者にはうれしい。建物は大震災復興期のものとしても、看板建築や床屋の造作は戦後のものかもしれない、とも思える。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





あうとろう亭。神奈川県横須賀市汐入町2。
左:2002(平成14)年2月9日、右:2007(平成19)年11月16日

汐入大通りの汐入駅のすぐ裏を西に入っている横丁がある。すぐに汐入小学校のある山に突き当たってしまうが、両側に歩道もあるけっこう広い通りだ。「汐留通り」の標示板がある街灯が並び、「汐留商店会」が組織されている。その通り沿い、通りの横丁に古い商店建築が何棟か残っている。
あうとろう亭が入る建物は居酒屋を3軒収めた長屋で、建物はだいぶ傷んでいる。戦後まもなくの建築のように思う。あうとろう亭は汐留商店会のHPに、2011年12月に汐入大通りの方へ移ったとあるから、長屋の方は建て替えになるのかもしれない。

下の写真2枚は汐留通りの南側。下右の写真の左に遠藤青果店が写っている。2012年3月で閉店したという。


左:十返り(カフェバー)、萬菜(沖縄料理)。右:大建設備工業
汐入町2。2007(平成19)年11月16日


ひとみ(小料理)。汐入町2
2007(平成19)年11月16日

汐留通りから南へはいった横丁に銅板葺看板建築を白く塗ってしまった飲屋があった。この横丁の街灯は汐留通りのものと同じだが「睦通り」の標示板がついている。「汐入二丁目睦商店会」が組織されているらしい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





左:そば処なるせ。神奈川県横須賀市汐入町2。2007(平成19)年11月16日
右:町内会館。2002(平成14)年2月9日

汐入本通りの商店街に残る大正末の建物。入母屋屋根の家は学習塾にも部屋を貸しているようだが、「汐入二・五丁目連合町内会館」の板の看板を下げている建物。ルーバーの窓のように見えるのは、アーケードの通気口のようだ。
「そば処なるせ」は標準的な銅板葺看板建築だが、戸袋や軒下の飾り罫など、割と凝った造作である。
横須賀市>オールディズinよこすか』の「往来の風景 汐入・上町」に、大正末期の汐入大通りの写真が載っている。ちょうど、なるせと町内会館も入った写真だ。関東大震災から復興したばかりの商店街で、看板建築の店舗が多かったようだ。
町内会館の裏側は「学校通り」の街灯がある山裾の裏道である。そこにも何軒か古い建物が見られる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





イマイ玩具店。神奈川県横須賀市汐入町2。2002(平成14)年2月9日

京急汐入駅から南の山側、谷筋の街道?沿いが古い商店街になっている。ひところの賑わいが偲ばれる戦前築の建物がまだ見られる。アーケードもつけられているが、活気は見られない。街灯には「汐入大通り会」の標示板があるから通り名は「汐入大通り」というのだろう。汐入駅海側の駅前広場に面した立川紙店の前も同じアーケードがあるから、その辺りから汐入大通り会が始まっているのかもしれない。
上の写真は駅からすぐのところで、お茶の本山園とおもちゃのイマイ。おもちゃ屋は今も健在。



はしもと靴店。汐入町2。2002(平成14)年2月9日

銅板貼り看板建築が2棟並んでいる。右の靴店は2007年に撮った写真では、アーケードに下がっている「靴はなんでもはしもと靴店」の看板はそのままで、店先が改装されてアクセサリーかなにかの店だか工房のようになっている。今は別の看板になっているので、靴店は廃業したらしい。左の家はクリーニングの「リボン」と「ギャラリーいちのせ」で、今も変わらない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ