ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



浅草国際劇場。台東区西浅草3-17
1983(昭和58)年頃

『ウィキペディア>国際劇場』によると、浅草国際劇場は1937(昭和12)年の竣工、4階建地下1階、SRC造、客席は3,860席で「東洋一の5千人劇場」と称したらしい。舞台は間口16間高さ6間。設計は成松建築事務所。『日本近代建築総覧』と『近代建築ガイドブック[関東編]』(鹿島出版会。昭和57年)では「設計:松成建築事務所、施行:矢島組」。
松竹少女歌劇団(SKD)のホームグランドとして運営されてきた。こけら落しは昭和12年7月3日でSKDの公演。7月7日に盧溝橋事件が起こるのだが、主な観客の少女らには関係なかったかもしれない。日中戦争が始まってしまったわけで、戦後に再開されるまで、レビューが見られたのは何年間のことだったのだろう。
1982(昭和57)年4月5日の「第51回東京踊り」を最後に閉館した。翌年4月30日から解体工事が始まった。写真を撮ったときはもうじき取り壊される建物という認識があって、記録しておこうと1枚撮ったわけだが、まだ近代建築についての興味も知識もなく、この1枚で終わってしまった。

脚本家、小説家の山田太一が国際劇場の向かい側で子供時代を過ごした。『土地の記憶 浅草』(岩波現代文庫、山田太一[編]、2000年、900円+税)に「故郷の劇場」(1982年)という随筆が収録されている。「昭和9年に、国際劇場と大通りをへだてて向き合った一画(六区の食堂)でうまれた。昭和19年に、強制疎開で家をとりこわされて(湯河原へ)引っ越すまで、…国際劇場の前景を見ないで過ごした日は一日もない、…」ということで、SKDや戦後はじめて再見したときの感激などのことなどが語られている。映画化もされた1987年の小説『異人たちとの夏』は山田太一の思い出を脚色したのだろうが、国際劇場の閉館が契機になったのかもしれない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





芳野屋。台東区浅草2-29。1988(昭和63)年5月1日

花やしき通りの花やしき(遊園地)の門の向かいにある芳野屋は、ネットによれば大衆食堂で、ビールを飲みながら競馬中継のテレビを見ているおじさんたちが常連という店らしい。浅草寺にお参りに来る人の茶屋として開業したのだと思うが、浅草の場外馬券売場(ウインズ浅草)ができるとじきにそうなったのだろうと思われる。浅草の場外の設立は1963(昭和38)年で、浅草寺の裏にあったという。1967(昭和42)年に「新世界」の3階に、1969(昭和44)年には4階を借りて入居した。新世界の跡地に場外のビルが建ったのは1973(昭和48)年12月(『ウィキペディア>新世界』)。
時空を超える昭和遺産的大衆食堂|神林先生の浅草ランチ案内㉒』によると、「「芳野屋」創業者の上村(かみむら)吉太郎氏は、戦前は本屋やブロマイド屋をなさっていた。そして、妻の芳江さんは「上村美容室」をなさっていた」「東京大空襲で浅草のそういった店は消失してしまう。戦後、観音様(浅草寺のことを地元の方はそう呼ぶ)から焼失した商店に替地(かえち・代替地)が割り当てられた」「かくして1943年に「芳野屋」が誕生する。そして何と、吉太郎氏は物資が不足していた時代だったということもあり、釘を1本も使わずに、木材を組み合わせてバラックの店を自力で建ててしまった。それが今の店なのだ」。
22年ほど前に経営は2代目に移り、やがて店主も体を壊して土日の営業に変えて3代目が手伝うようになる。夏場はかき氷に行列ができるので平日も営業する、という具合で続けてきていたが、2021年9月末で閉店した。
写真に写っている建物は今も替わっていないが、残っている店はない。5月の連休の日曜日なのでなかなかの人出だ。2008(平成20)年に、「浅草花屋敷通り商店街」は、通りの建物を江戸城下町風のファサードに統一する改修を行った。花やしきの外観とも合わせて、同じ商店街と一目で分る工夫なのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今半別館。台東区浅草2-2
2015(平成27)年12月8日

浅草仲見世の北の端に近い裏手にある有名なすき焼きの店。店名が新仲見世(浅草1-9)にある「今半本店」の支店かと思えてしまうが、1921(大正10)年に暖簾分けして、経営上の関係はない。
建物は2003年に国指定文の登録有形文化財に登録された。「北棟」「玄関棟」「南棟」と別個に登録されている。今半別館の建物は中庭を中心に3棟が配置され、仲見世の裏に向いた北西角に「ホール席」の建物がある。写真では玄関棟の正面しか分らないが、玄関の左が北棟、右の瓦屋根が見えるのが南棟で、玄関の後に中庭がある。
文化庁>国指定文化財等DB>今半別館玄関棟』の解説文によると、玄関棟は「入母屋造,桟瓦葺…入口脇に座敷2室を配す。狭い敷地を巧みに利用,老舗料理屋に相応しい構えを造る」。北棟は「2階建,正面入母屋造,東面切妻造,桟瓦葺で,1階に厨房,配膳室,事務室,2階に大小の座敷を配する。大広間の大床と飾棚による豪華な構成,次の間天井の鳳凰彫物など,宴会場の晴れやかな空間を演出する」。南棟は「2階建,切妻造,桟瓦葺で,敷地の関係からL字型の平面とする。1,2階とも片廊下に沿い客室を配し,1階東端には旧風呂場も残る。室内は各室とも座敷飾りを備え,天井,建具,欄間とも,銘木をふんだんに使い職人芸の粋を凝らす」ということで、建物そのものより建具や天井と欄間の彫り物などの豪華さが見物らしい。
長美喜三郎は本店で10年働いた後、大正10年に暖簾分けで三田に支店を出した。戦後、焦土の浅草に今半別館を建築する際、本店の「今半御殿」の再現を目指したらしい。関東大震災後に建てた今半本店は「今半御殿」と呼ばれるほどの豪華絢爛な建物だった(『出会いたい東京の名建築』三船康道著、新人物往来社、2007年、2000円+税)。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





横山ビル。台東区浅草橋5-28。2005(平成17)年4月8日

蔵前橋通りの鳥越神社の少し西の、左衛門橋通りとの交差点が鳥越二丁目交差点。写真(下)はその交差点南西角にあった亥来堂(いらいどう)浅草橋店と、そこから西の蔵前橋通り沿いの家並み。今は、蔵前橋通り沿いは写真の範囲はマンションが4棟が建って、写真の建物は1棟も残っていない。
写真の建物を1986(昭和61)年の住宅地図と対応させてみる。交差点角から右(西)へ、「小峰たばこ、空家?、柳原メガネ」(写真では亥来堂、テルミニ(作業着)、空家?)。「竹中、吉川木材」(写真ではコインパーク)、「吉屋、ナカムラ、貸ソーコ」「横山ビル」(「横山金属箔粉株式会社」の金文字)。
マンションに建て替わってきたのはこの10年ほどのことで、「アルファステイツ浅草橋」(12階建38戸)が2012年7月築、「メインステージ浅草橋」(13階建て37戸)が2007年12月築、「Enicis浅草橋」(3階建3戸)が2018年1月築、「ライオンズ浅草橋レジデンス」(14階建39戸)2013年10月築。



亥来堂印章店。浅草橋5-28。2007(平成19)年2月17日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





鮒忠不動産事業部。台東区浅草5-30。2011(平成23)9月11日

当ブログ前回の「スナック街角」と同じ横丁の、「ミナガワ工芸」の向かいにあった看板建築型の長屋。写真右奥がガレージで、そこも鮒忠が使っているから、建物全部を鮒忠が使っていたと思える。寮にしていたのかもしれない。1966(昭和41)年の地図でも「鮒忠根本」で、住所は「浅草千束町(せんぞくまち)三丁目54」。
2018年に取り壊されて、現在は「三井のリパーク」。写真でも建物の裏は駐車場だが、それがより広い駐車場になっている。2枚目写真がその駐車場で、左奥が千束通り。千束通りに出て、右へ2軒目に「鮒忠浅草本店」(うなぎ、焼き鳥)があった。この店も不動産事業部と同時期に取り壊されて、現在は「三井のリパーク」。



更科蕎麦大三。浅草5-30。2011(平成23)9月11日

1枚目写真左奥の建物。居酒屋だったような構えだが住宅になっているようだ。その左は千束通りの角にある「大三」という蕎麦屋。看板建築の上の壁に「更科蕎麦」の文字がある。2014年頃に取り壊され、写真中央の家は2019年頃になくなって、いずれも駐車場になってしまった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





スナック 街角。台東区浅草5-34。2011(平成23)9月11日

千束通りの浅草四丁目交差点から少し東北へ行って西北へ入ったところ。写真右奥が千束通り。角の建物は壁で屋根を隠した戦後型看板建築。すでに昭和22年の航空写真に写っている建物かもしれない。
1966(昭和41)年の地図では、「浅草千束町(せんぞくまち)三丁目49」で、角から右へ「セキネ、栄屋、バーソラリオ、美奈川」。橙色の日よけの「総合記念品(有)ミナガワ工芸」が長く続いている店らしい。同じ地図で「街角」の左は「ポーラ洋装店」。
「街角」とその両隣の建物は2018年に取り壊されて、現在はマンションの建設工事中。ストリートビューを見ての推測だが、ミナガワ工芸は2011・12頃には廃業したようだ。


スナック 街角。2011(平成23)9月11日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






上:マスミ荘。台東区千束4-11
左:大和田荘。千束4-13。2011(平成23)年9月11日

吉原遊郭は空襲で焼き払われ、戦後は赤線として再出発した。1958年の売春防止法の施行により赤線が廃止されるまでに、娼館として建てられ営業していた建物が今でも残っている。多くはソープランドに建て直されたと思うのだが、ソープランドの営業禁止区域では娼館だった建物(カフェー建築)のまま、アパートに転業してそれがまだ何軒か残っている。当然、最近は激減していると思われる。
カフェー建築は旧吉原の土手通り寄りの「伏見通り」に多く残っていた。伏見通りとは、江戸期に大門の南の町筋が「伏見町」で、そこから来ている。この路地の裏の路地は「お歯黒どぶ」だった。「プリンス(岩淵荘)」が有名で、「モリヤ(森屋荘)」「金よし(旅館金よし→金井荘)」「親切(大和田荘)」が今はない。

マスミ荘は看板建築にした建物で奥は裏の路地までと深い。両端の柱形は円柱をかたどっている。旧屋号を「満寿美」としているサイトがある。1966(昭和41)年の住宅地図では「旅館ますみ」、1986(昭和61)年のでは「マスミ荘」となっている。
大和田荘はやはり看板建築にした建物で、4本の円柱型の柱形で飾っている。正面には入口が3カ所。赤線時は「親切」という屋号だった。2016年頃に取り壊され、3階建てのマンションに建て直された。


旧・黒潮。千束4-11。2011(平成23)年9月11日

看板建築ではあるが、なんとも現代的なデザインのファサードだ。正面が平面的だから看板建築というわけだが、この建物はそれが立体的。「黒潮」という屋号から波を連想するような造形を考えたのだろか。建物は奥に長く、裏は裏の路地に面している。
1966(昭和41)年の住宅地図では「黒潮」と裏が「日の出ビリヤード」。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





エスペランサ靴学院。台東区東浅草1-8。2011(平成23)年9月11日

写真は吉野通り(山谷通り)の東浅草一丁目(旧今戸一丁目)交差点の一つ北の交差点で、その西南角に小さいが震災復興期に建ったビルが残っている。1973(昭和48)年創立の「エスペランサ靴学院」という、靴づくりの専門学校が長年使っていたが、2020年3月に閉校し、大阪で再出発するという。
エスペランサ靴学院>学院について>設備紹介』によると、建物は1928(昭和3)年に建てられたとあるが、詳細は分からない。元は銀行とするサイトがあって、2か所ある入り口の重厚な感じはいかにもありそうである。1966(昭和44)年の住宅地図では「菅原建設KK」。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





台東区立東浅草小学校(東南角と正門)。台東区東浅草2-27。2011(平成23)年9月11日

土手通りの吉原大門交差点の南東の裏手にある小学校。台東区立東浅草小学校は2001(平成13)年4月に待乳山(まつちやま)小学校と田中小学校が合併して発足した小学校で、校舎は待乳山小学校だったもの。つまらない校名にしたものだが住所が東浅草だから無難なのだろう。1966(昭和41)年の住居表示実施前は「浅草日本堤二丁目」で、学校の南に隣接する「日本堤公園」は旧称のままだ。
『日本近代建築総覧』では「区立待乳山小学校(旧東京市待乳山尋常小学校)、東浅草2-27、建築年=昭和3年、構造=RC3階建、設計=東京市、施工=芝江初五郎、「東京市教育施設復興図集」による」。その『東京市教育施設復興図集』(東京市役所編纂、昭和7年)に、「東京市待乳山尋常小学校」の名称で、住所=浅草区地方今戸町(じがたいまどまち)十五番地、創立=明治6年2月、規模=20学級、起工=昭和2年6月1日、竣工=昭和3年5月31日などとあり、本工事の請負者として芝江初五郎の名前が出ている。



台東区立東浅草小学校(南面)。2011(平成23)年9月11日

内部は改装されているのかもしれないが、外観は竣工時のままを保っているように見える。南側の「屋内体操場」(『復興図集』での名称、体育館)は、竣工時の外観と違っているので建て直されたのだろうか。平面の大きさは変わらないので、補強等の改修で済んでいるのかもしれない。
東側に正門があるが、かつては北の日の出会商店街の通りにあったようだ。そこが現在は保育所(台東区立東浅草こどもクラブ)の建物があって、そのために正門を替えたのだと思われる。



台東区立東浅草小学校(西面)。2011(平成23)年9月11日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






恵門荘。台東区日本堤1-17
2011(平成23)年9月10日

土手通りの吉原大門交差点と吉野通り(山谷通り)の東浅草二丁目交差点を、東西につないでいるのが「日の出会商店街」の通り。写真はその通りの中央あたりを北に入ったところにあったアパートと思われる建物。
この辺りは、「山谷地区」と言われたところで、写真の建物の周辺は今でも「簡易旅館」が密集している。写真の建物もあるいはそれだったのかと考えられなくもないのだが、旅館だとだいたいそれらしい玄関がついているものだし、住宅地図では個人名になっているのでアパートと決めて、「恵門(えもん)荘」とかってに命名した。現在、建て替わったマンションが「サン・グリーン恵門」(2012年9月築、7階建)という。

下の写真は1枚目写真の右奥の建物。1986年の住宅地図では「アパート」。建物の奥は恵門荘と同じだけの長さがある。恵門荘ともに「サン・グリーン恵門」に替わった。


アパート。台東区日本堤1-17。2011(平成23)年9月10日

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ