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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




甚平。台東区西浅草2-11。2008(平成20)年3月2日

国際通りの、雷門1交差点北の1本西の裏通り。角のモルタル塗り看板建築は四軒長屋のようだ。戦後間もない頃の建築だろう。角の「寿司」の看板が残っている店は「吾妻寿司」。日本料理の「甚平」は、建物が解体された2015年まで営業していた。1986(昭和61)年の住宅地図では左(南)から「とん竹、あゆみ、甚平、吾妻鮨」。
写真左(南)の「ホテル幸和」は入口を和風にしている。ビジネスホテルのようではないので、ラブホテルだろうか? 2013年9月で閉店した。現在は「マンション幸和」(2017年7月築、10階建26戸)に建て替わっている。1966(昭和41)年の住宅地図では、建物は異なるだろうが「国際トルコセンター」となっていた。


甚平。台東区西浅草2-11。2008(平成20)年3月2日

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コニ・ビオラ。台東区三筋2-1。2008(平成20)年3月1日

写真の通りは蔵前小学校通りという東西の通りで、右の3階建のビルが「株式会社コニ・ビオラ」という会社の社屋で、新堀通りとの蔵前4西交差点角に建っていた。左の住居はコニ・ビオラの社長宅だったらしい。1969(昭和44)年の住宅地図では住宅の「小西」とコニ・ビオラの旧社名「古西商店」とが「=」で結んである。
コニ・ビオラのHP』によると、ねじなどの小さな金具を製造販売する会社で、創業は1872(明治5)年としている。関東大震災で事業は中断していたらしいが、1953(昭和28)年に「株式会社小西商店」を設立して再開したという。1992(平成4)年に「株式会社コニ・ビオラ」と改称した。
現在は「クリオラベルディ蔵前」(2021年7月築、12階建39戸)というマンションに建替えられて、その1・2階に入っている。

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難波(なんば)仏具店。台東区寿2-8
2008(平成20)年4月2日

浅草通りの菊屋橋交差点(かっぱ橋道具街入口)の一つ東の横丁との角にある仏具店。浅草通りの南側に沿って、上野駅交差点から寿4交差点まで、点々と建つ仏具店の1軒。なんともユニークな外観で人目を引いている。
『日本近代建築総覧』によると、「建築年=1929(昭和4)年、構造=RC造、設計=榎本徳蔵、施行=戸田組、戦後内装数回改築、塔屋付」。
文化庁>国指定文化財等DB>難波商店店舗兼主屋』には、「RC造3階地下1階。昭和43(1968)年増築、昭和52(1977)年改修」「一階を店舗、地下一階と二階を倉庫、三階を居室とする。外壁は色モルタル塗で、縦長窓と丸窓を開き、緑色の瓦や高欄を廻し意匠性に富む。塔屋は反りの強い屋根を二重に架け、独創的な外観を形成している」とある。設計者の榎本徳蔵という人のデザインなのだろうが、この人がどういう人なのか、ネットでは分らない。建物は隣の寿ビルの後ろに回り込んでいて、L字形平面をしている。寿ビルの裏は増築部分なのだろうか。

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満楽。台東区鳥越2-6。2005平成17年4月8日

前の通りは左衛門橋通りで、右(南)へ行くとすぐ蔵前橋通りとの鳥越二交差点。おかず横丁の東側入口の向かい側だ。鳥越2丁目はほぼ全域が空襲で焼失しているが、この一画は焼けずに残ったのかもしれない。「戦災焼失区域表示帝都近傍図」でもそんなふうに見える。
写っている家は角の家から右へ、「東京玩具、吉野食品、満楽(中華洋食)、吉川木材」。
現在は「ヴェルステージ秋葉原イースト」(2008年3月築、11階建90戸)というマンションに替わっている。

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四軒長屋。台東区鳥越1-23。2005平成17年4月8日

おかず横丁の北、2本目の横丁。おかず横丁と同じく清洲橋通りと左衛門橋通りを結んでいる。両側にはけっこう戦前築の看板建築、長屋、出桁造りの商家が残っている通りだ。写真の家並みは現在もそのまま。
波トタン貼りの看板建築の四軒長屋は古くから住宅か家内工業所だったらしく、住宅地図でも個人名の他には、1966年の地図に右の1軒が「永井プレス」となっているだけ。長屋の左には「深谷電気商会」がある。ストリートビューでは2010年には花屋になっているが、2013年には空家になっていて現在までそのままのようだ。長屋の右は「仕出し弁当 浅草橋食堂」の看板が残る3階建ての家。

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高岡酒店。台東区鳥越1-1
2011平成23年12月18日

おかず横丁(鳥越本通り商盛会)の東側入口角の高岡酒店。横の大通りは左衛門橋通りで、写真左へ行けばすぐ蔵前橋通りとの鳥越二丁目交差点。高岡酒店は創業100年以上というが、建物が関東大震災後に建てられたものと見ての推測のような気もする。
銅板張りの看板建築で、後から見ると3階建て。3階の赤い外壁はトタンの錆だろうか。3階には窓がない。トタン板で塞いだのかもしれない。2階の窓は戸袋があるのが普通だがアルミサッシの窓にしたときにでも取り払ったのだろうか。
見所は菊正宗の看板。「醸造元株式會社本嘉納商店」は、1965(昭和40)年に「菊正宗酒造株式会社」に社名変更する前の会社名。「嘉納財閥」というものがあって、ウィキペディアによると、「「灘の生一本」で知られる、灘五郷の本家・本嘉納家(菊正宗)と分家・白嘉納家(白鶴)の酒造業を母体とする阪神財閥の1つ」。

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松屋肉店。台東区鳥越1-1。2005(平成17)年4月8日

おかず横丁(鳥越本通り商盛会)の東側入口角の高岡酒店から3軒目の家。現在は焼豚専門店になって、玄関は格子の引き戸になっている。ネットの情報では松屋は昭和4年の創業。建物は戦前のものとは見えないが、戦後に正面を改修したのだろうか。店主の体調の都合で2010年頃には休業したが、3代目が2017年4月に焼豚専門店として再開した。ただし土曜日だけの営業。行列が出来る人気店という。肉屋だっときの写真にも張り紙に「名物焼豚/一〇〇グラム三二〇円」が読める。
写真中央の看板建築は1階の外観はすでに民家。2016年頃に三階建の民家に建て替わっている。その右は「鈴木園」で新茶の広告が読める。その右は1986年の住宅地図では「平田食品」。これら2軒の出桁造りの家は残っていて、「ふくふくキッズ」(幼児の預かり所)と居酒屋「まめぞ」になっている。写真右端は「正喜商店」。

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鈴木印舗。台東区鳥越1-14。2003(平成15)年11月16日

おかず横丁(鳥越本通り商盛会)の東よりのところ。写真左手の「郡司味噌店」とある電柱の後が「郡司味噌漬物店」。そのHP によると、創業者の郡司春男氏は、4年間シベリアに抑留されたときの経験が味噌屋になる決心をしたという。氏は大正8年鳥越1丁目生まれ。昭和32年12月の開店で、建物はそのときの建築なのかもしれない。別個の店2棟を使っているが、右の方は買い取ったものらしい。
「鈴木印舗」は、1・2階の間の壁に看板があるから、撮影時には営業していたと思う。欄間のガラス窓に「玉龍堂」の文字が残っている。

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ミズシマ洋品店。台東区鳥越1-11
2005平成17年4月8日

おかず横丁(鳥越本通り商盛会)の西寄りのところ。看板建築が3軒並んでいる。写真左の赤い家は銅板張りの外壁を赤く塗ってしまったのだろうか。その右の2軒は正面を戦後になって改修したように見える。まん中の赤い日よけには「ミズシマ洋品店」の文字があって、撮影時には営業していた。
1969(昭和44)年の住宅地図では「小倉セトモノ、みずしま、みつい肉店」という記載。
小倉瀬戸物店だった家とミズシマ洋品店は、2021年頃に正面を改装して、住宅の外観になってしまった。外壁の色調が似ていて玄関の扉が同じような形なので、調子を合わせたようだ。

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浅草国際劇場。台東区西浅草3-17
1983(昭和58)年頃

『ウィキペディア>国際劇場』によると、浅草国際劇場は1937(昭和12)年の竣工、4階建地下1階、SRC造、客席は3,860席で「東洋一の5千人劇場」と称したらしい。舞台は間口16間高さ6間。設計は成松建築事務所。『日本近代建築総覧』と『近代建築ガイドブック[関東編]』(鹿島出版会。昭和57年)では「設計:松成建築事務所、施行:矢島組」。
松竹少女歌劇団(SKD)のホームグランドとして運営されてきた。こけら落しは昭和12年7月3日でSKDの公演。7月7日に盧溝橋事件が起こるのだが、主な観客の少女らには関係なかったかもしれない。日中戦争が始まってしまったわけで、戦後に再開されるまで、レビューが見られたのは何年間のことだったのだろう。
1982(昭和57)年4月5日の「第51回東京踊り」を最後に閉館した。翌年4月30日から解体工事が始まった。写真を撮ったときはもうじき取り壊される建物という認識があって、記録しておこうと1枚撮ったわけだが、まだ近代建築についての興味も知識もなく、この1枚で終わってしまった。

脚本家、小説家の山田太一が国際劇場の向かい側で子供時代を過ごした。『土地の記憶 浅草』(岩波現代文庫、山田太一[編]、2000年、900円+税)に「故郷の劇場」(1982年)という随筆が収録されている。「昭和9年に、国際劇場と大通りをへだてて向き合った一画(六区の食堂)でうまれた。昭和19年に、強制疎開で家をとりこわされて(湯河原へ)引っ越すまで、…国際劇場の前景を見ないで過ごした日は一日もない、…」ということで、SKDや戦後はじめて再見したときの感激などのことなどが語られている。映画化もされた1987年の小説『異人たちとの夏』は山田太一の思い出を脚色したのだろうが、国際劇場の閉館が契機になったのかもしれない。

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