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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




検見川送信所。千葉県千葉市花見川区検見川町(けみがわちょう)5。2009(平成21)年4月4日(5枚とも)

現在廃墟状態で残っている建物(本館)は、1926(大正15)年4月1日に開局した「東京無線局検見川送信所」。設計は逓信省経理局営繕課の吉田鉄郎(東京中央郵便局1933年、大阪中央郵便局1939年が有名)、施工は近藤組(東京深川)、構造はRC造2階建て。『旧検見川無線送信所文化調査業務委託』には設計として吉田以外に「製図:橋本真太郎、監督:新作義信・南田喜義・菅原勝四郎」の名前が載っている。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団、鹿島出版界、1982年、2300円)には「彼(吉田鉄郎)の作品としては初期にあたり、未だ表現派の影響を脱し切っていない。特に正面階段、ポーチ、パラペットなど、丸みを持った表現は、ドイツ表現派の影響を顕著に見い出せる。」とある。
1937(昭和12)年に第2期工事が行われ、本館の後にやはり吉田の設計による「第4発信室」などが増築された。発信室は2階建てで窓が大きい四角い建物で現代的な外観ものだったようだ。
1952(昭和27)年8月1日、日本電信電話公社発足に伴い、同公社の検見川無線送信所となり、35年間使用されて、1979(昭和54)9月2日 、業務を名崎送信所に移管して廃止された。
それ以降の経過は『検見川送信所を知る会>閉局~「知る会」発足』と『同>これまでの取り組み』に記されている。



検見川送信所、裏(北)側。1階が盛り土で隠れてしまっている。

窓が鉄板で塞がれている。そうなる前の写真が『分離派建築博物館>逓信省の建築>検見川無線送信所』で見ることができる。1992年に撮られたもので貴重な写真だ。

収蔵庫・壱號館>『検見川送信所を知る会』第3回イベント2008.09.01』では電波を発する鉄塔や電線について述べている。
既出の『文化調査業務委託』の「当初配置図」には「90系鉄塔」6本、「75系鉄塔」2本が局舎の周りに立てられた。『検見川送信所を知る会>沿革』には「送信用アンテナは、高さ90mが6本、同75mが4本立てられました」とある。『分離派建築博物館』の記事には昭和14年当時の配置図があり、鉄塔は30本以上が記されている。
電気のことをよく知らないぼくは、電波塔は東京タワーのように1本あればいいのではないかと思うのだが、検見川無線送信所の場合は、アンテナの本体は鉄塔間に張られた空中線で、そこから指向性のある電波を発信する。届けたい地区に対して1本の空中線を張るという具合らしい。
『知る会』の記事には「開局時の経費」が載っていて、総計77万円なのだが、最も高価なのが英国製の送信機で、2台で42万円。アンテナ建設費は17万円。本館建設の12万円よりアンテナの方が費用が高い。土地購入費は5万円。



検見川送信所、横(東)側。



給水塔と記念碑

給水塔のような建造物は『文化調査業務委託』の「局舎の変遷」には「ポンプ室」となっている。「毎日新聞千葉版、2008年11月20日」のコラム「千葉遺産」には「無線機械を冷却するために使われていた給水塔」とある。

「検見川無線局跡」の記念碑は『検見川送信所を知る会>検見川無線送信所記念碑建立の経緯』に、建立の趣意書(1983(昭和58)年11月)と「千葉日報」の除幕式の記事(昭和59年5月)が載っている。写真では地面に説明板のようなものが残っているが、右下に付いていた「検見川無線局跡」の銘板ははずれて立てかけられていたはずだがなくなっている。自然に劣化したとは思えず、壊した人間がいると思う。

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とらや。千葉県市川市新田5-18。2007(平成19)年4月8日

JR市川駅の東を南北に通っている通りで、左(北)へ行くと100mほどで国道14号(千葉街道)に出る。昭和30年頃の建物と思われてとりあえず撮った写真だ。今ストリートビューを見ると、2009年7月にはとらやの建物(実際には店名が分らないが角の生花店の建物だろうか)と、横丁側の隣のスナック(「踊子?」)のような建物がなくなって時間貸し駐車場になっている。2008年頃に取り壊されたと思われる。その後2018年8月に今のファミリーマートが建ったらしい。横丁奥のセキネ質店の左の家の2階に赤提灯が下がっている。「居酒屋たぬき」で、2010年頃まであったようだ。
ネットで調べてみると、とらやという鯛焼き屋(「菓子店」というのが正しいかも知れない)は、まず「市川とらや」といったらしい本八幡駅南口の店が出てくる。この店は2015年6月に閉店してしまった。もう1軒の「中山とらや」は下総中山駅の南の住宅街にある。写真の市川駅そばのとらやは本八幡駅へ移転したのだろうか。
さらに「市川真間店」があった。写真の店からほど近い「真間銀座通り」という商店街のマンションの1階にあった店で、2009年9月と2011年1月のストリートビューで確認できる。鯛焼きの幟が出てないので普通の菓子店だったと思われる。

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日本福音ルーテル市川教会
千葉県市川市市川4-1
2003(平成15)年11月19日

市川教会は京成線国府台(こうのだい)駅から歩いて5分ほどのところで、真間川に沿った道路に面している。周辺は割と大きい家が並んでいる高級住宅街だ。
建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880~1964)の設計で1955(昭和30)年に建てられた。2008(平成20)年に国登録有形文化財に指定された。
国指定文化財等データベース>日本福音ルーテル市川教会会堂』には、「梁間7.3m桁行17mの木造教会堂で、南北棟の切妻造瓦型鉄板葺屋根をもつ単廊式の礼拝堂と、その東面南寄りに建つ4階建の鐘楼からなる。平滑な白色の外壁に、正面や鐘楼上部に丸窓、身廊側面に半円アーチ窓を開ける。ヴォーリズ晩年の作品のひとつ」と解説されている。
2011(平成23)年10月から1年間かけて、耐震補強を含めた修理が行われた。東日本大震災による被害がきっかけのようだが、基礎の水による劣化、塔屋の痛みなどを修理したらしい。『美珍麗・探訪>日本福音ルーテル市川教会』で修理の内容のだいたいのことが分る。

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岡本クリーニング店。静岡県熱海市中央町(ちゅうおうちょう)4。2011(平成23)年5月20日

前の通りは「あたみ梅ライン(県道11号熱海函南線)」で、左へ行くとすぐ、清水町通り-本町通りとの市役所前交差点。岡本クリーニング店の建物は看板建築風に壁で屋根を隠したアパート形式の建物。ほぼ正方形の平面だ。壁の塗装が剥げかけているが、2012年に改修して外観はいくらか変ってしまった。建物の前に残っていたアーケードもついでに取り払ったようだ。



多田医院。中央町15。グーグルマップ・ストリートビュー(2014年8月)より

岡本クリーニング店の、あたみ梅ラインの向かい側に「多田医院」がある。ごく普通のクリニックに見えて、注意も払わず写真も撮っていないのだが、グーグルマップで見ると、奥に長くかなり大きい建物である。後の方は病室になっていたのではないか、とすると、以前は病院で「多田病院」といったのかもしれない。木造2階建ての病院というのは、今は考えられない。昭和25年の熱海大火後、じきに建てられた建物と思われる。

『熱海温泉誌』(熱海市教育委員会制作、熱海市発行、2017年、3000円+税)に、糸川の赤線と関連して「多田病院」が出てくる。その部分を引用すると「戦前から糸川地区では性病予防のために、女性たちに定期検診を受けさせ、小料理組合が指定した多田病院がこれにあたってきたが、占領期は静岡軍政部からたびたび性病検診を厳密にするように指令が出され、米軍提供のペニシリンによる治療も始まった。GHQは占領軍兵士が性病に罹ることを恐れ、日本の女性側を性的に管理しようとした。」。また、ジャズ喫茶ゆしまのママの評言が収録されている。「週一度、土屋さんの店(ゆしま)の前を、多田病院に向かう女の子たちがぞろぞろと通って行くとき、「今日は何?」と声を掛けると、彼女らは無言のまま笑顔で通り過ぎたものだ。」。


多田医院。中央町15。グーグルマップ・ストリートビュー(2015年2月)より

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上:アトミックカフェ。静岡県熱海市中央町5
2011(平成23)年5月20日
左:ジャズ喫茶ゆしま。2015(平成27)年11月20日

手前の通りは「あたみ梅ライン(県道11号熱海函南線)」で、「糸川べり」の旧赤線地区の、通りに面した南西部分が写っている。右の路地は赤線地区の中心部へ入っていくような道になる。路地の入口に古いアーチが残っている。「糸川花街」のネオンが取り付けられていたアーチである可能性が濃厚だ。

通りに向いた左の二軒長屋の内、左は「ドライ専門」の看板が読める。右のテナント募集の張り紙の方は2階の壁の上の方に「お弁当 ソフィア熱海店」の看板があるから、その店だったのだろうか。2013年頃に取り壊されて、今は駐車場になっている。
写真右の路地との角は「バー アトミックカフェ」、そこから路地に入って隣がジャズ喫茶の「ゆしま」。『熱海経済新聞(2021.03.18)』によれば、店のママは1921(大正10)年生まれ、東京赤坂出身。疎開で熱海に来て気に入ったので移住したという。「湯島天神近くの別邸に住んでいたこともあったため、「ゆしま」というなじみのある地名を店名にしたという。開業した1952(昭和27)年当時は、熱海大火の復興期」。当時、ママは32歳だ。「初はBGMとしてジャズを流す「純喫茶」だったが、1966(昭和41)年に「ジャズ喫茶 ゆしま」に改称した」。その頃は熱海のホテルで演奏するバンドマンが200~300人いて、彼らが店に集まってきたという。
今でも店に立つらしいママとジャズの出会いはなんだったのだろう? ご主人の趣味を引き継いだのだろうか。家庭環境のせいだとすると、歌謡曲くらいしか聴かないような家庭とはちょっと違っていたと思われる。

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スナック千夜
静岡県熱海市中央町(ちゅうおうちょう)9
上:2011(平成23)年5月20日
左:2009(平成21)年2月20日

糸川の南の裏通りの旧カフェー街にある、元はカフェーだったかと思われる建物。写真右の緑の日よけは「スナック亜」。右奥の路地を出た通りは「あたみ梅ライン(県道11号熱海函南線)」。
隅切りの角の2つの戸袋に植物とその上の壁に波上の鷹のレリーフが施されている。
2009年の写真では「千夜」の袖看板と同じ看板が角の1階の壁(今は窓になっている)にもあり、その右の入口に縦長の看板があった。2010年頃に廃業したのかもしれない。今は袖看板も外されている。
千夜の路地側の隣は「しのぶ」という居酒屋。その小さな建物の裾に豆タイルが残っている。赤線の遺構だろうか。



麺彩、拓伸商事。中央町6。2015(平成23)年5月20日

「スナック亜」の並びも元カフェーだったと思われる外観の2軒の家が並ぶ。「味くら 麺彩」の看板の家は「賃貸物件」のビラが貼られている。ストリートビューを見ると今は「Project M」というカフェバーだ。隣のフリーハンドで描いたような曲線の白い壁の家は「拓伸商事」という不動産屋だが骨董屋が本業かもしれない。

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伊太利an。静岡県熱海市中央町(ちゅうおうちょう)7。2015(平成27)年11月20日

糸川の南の河岸の通りにあるアパート風の建物の角が「伊太利an」というピザが評判のイタリアン料理の店。同じ建物に「酒処 吾妻」という居酒屋も入っている。
りょうかん>インタビュー・原芳久(ピザハウス伊太利an)』によると、伊太利anは1976(昭和51)年の開業。店主は熱海の人で開業したときは25歳。今はサイトで見る限り割と見栄えのいい渋いおやじさんだ。店の外観と店名がマッチして洒落ているが、「設計屋さん」の考えだったらしい。店が開くのが17時だから観光客は来にくいかもしれない。

一二三寿司は伊太利anと同じ街区のちょうど反対側の角。建物はアパート風の外観だが幅が狭く、一二三寿司1軒で使っているように見える。1975年頃の開業らしい。ごく普通の寿司屋のようだ。
一二三寿司の横の路地側の隣が「らーめんせんか」という看板建築風の家があったが、今は取り壊されて駐車場になってしまった。



一二三寿司、らーめんせんか。中央町7。2009(平成21)年2月20日

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神戸酒店。静岡県熱海市銀座町(ぎんざちょう)8。2011(平成23)年5月20日

歩道に簡単なアーケードがあるのが熱海の「本町通り」で、右奥への横町が「浜町通り」。本町通りは熱海銀座商店街の西(山側)の入口の交差点から南西に、市役所前交差点までの通りをいう。どういうわけか通りにはそういう表示が見当たらない。糸川の御成橋袂に東海バスの「本町商店街」停留所があるだけだ。本町通り商店街は銀座通りのような観光客向けの商店街と違って一般の住民用の商店が多い。「本町」は「熱海ニューフジヤホテル」がある辺りの旧町名。
神戸酒店の建物は二階建てなので木造だと思うがかなり大きい建物だ。団体旅行で賑わった頃にはこういう大きい酒店は数多くあって、どれも忙しかったのだろう。戸袋になまこ壁のような模様を入れた和風の外観だが、軒には洋風のコーニスを巡らしている。
2012年に取り壊されて、今はファミリーマートに替わっている。

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上:スナック ピカソ、左:ママドライ
静岡県熱海市銀座町(ぎんざちょう)8
2009(平成21)年2月20日

熱海銀座通りの南に、平行して「浜町通り(熱海浜町通り商店街)」という裏通りがある。銀座通りと糸川の間に通っている。「浜町」というのは明治-昭和初期の頃の地名らしい。その地名が載っている地図では浜町通りは仲町と荒宿の間で、浜町は仲町の東(海岸より)になっている。
「スナック ピカソ」は浜町通りの西寄り、熱海銀座に抜ける路地の角にある。円形の袖看板で店名が分ったが店は廃業している様子だ。今も、袖看板はなくなっているが建物はそのままで残っている。

ピカソと路地を介して並んでいたのが左写真の3棟の家。今は「C’est Mignon(セミニョン)」というブティック&カフェに建て替わっている。2010年12月のオープン。おじさんには無関係な店のようだ。

下の写真の「マシュミエール」というフランス料理のレストランはピカソのすぐ東の並びにあった。外観からもうかがえるが、ちょっと高級なレストランだったらしい。2014年に取り壊されて、今も空地のまま。右の路地は行き止まりに見えるが、地図で見ると浜作(和食店)の裏を通ってピカソの路地に出られるらしい。
ピカソ、ママドライ、マシュミエールには、軒に歯形の模様がコーニスのように飾っている。なぜ共通した飾りがあるのか不思議だが、それがないと間の抜けた感じになってしまいそうだ。


マシュミエール。熱海市銀座町8。2011(平成23)年5月20日

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