ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




左:大東冷器、東京ミキ。台東区浅草橋2-17。2003(平成15)年11月16日
右:あかねや。浅草橋2-23。2013(平成25)年4月29日

左写真は都立忍岡高校と区立育英小学校との間の南北の通り。トタン貼りの看板建築はガラス戸に「大東冷機…」と読める。現在は取り壊されて空地だ。タイル貼りの看板建築の右の小さいビルは左衛門橋通りからくる横丁との四つ角に向いている。その四つ角の北西の角があずま床で、看板建築が並んでいた。今、あずま床はビルに建て替えられて「Az hair」の店名になっている。
右写真は四つ角を西へ行った、Az hairと同番地の西の角。看板建築風の3棟は戦前からある古い家を改装したものかと思う。奥の看板をあげている家があかねや呉服店。左奥の4階建てマンションは山路制帽があったところ。


誠望堂。浅草橋2-21
2013(平成25)年4月29日

あかねやの向かい側。角の日本家屋の家は「有限会社誠望堂」の看板をかけている。昭和38年の航空写真だとかなり大きい切り妻屋根の家が写っていて、元は四軒長屋だったのだろう。家の後ろは空地で駐車場になっているが、1986年の住宅地図では「箭己(せんき?)稲荷神社」。そんな痕跡は見当たらない。

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三軒長屋。台東区浅草橋2-19。2013(平成25)年4月29日

左衛門橋通りの東の裏通りとさらにその東の通り(福井町通りから福井ビルの横を北へ入る横丁)との間の路地に2棟の三軒長屋が縦に並んで残っている。左写真のグレーの壁の方は南側の長屋で、かなり改修が進んでいる棟だ。右写真は北の方の棟で、元の形がわりと残っている棟。南の棟も元はこのような形だったかと想像できる。下左の写真は北の長屋を北から撮ったもの。



左:三軒長屋。浅草橋2-19。2013(平成25)年4月29日
右:ダンヂ商店。浅草橋2-19。1992(平成4)年5月2日

右写真は左衛門橋通りの東の裏通りに、今でもあるモルタル壁の看板建築。路地との角の家が1986年の住宅地図で「ダンヂ商店」。妙な店名だと思ったが古い地図では「丹治」だった。右の路地を入ると三軒長屋が並ぶ路地が交わり、そこを過ぎて金沢クリーニングのところに出る。

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左・中:三軒長屋。台東区浅草橋2-7
右:魚すえ。台東区浅草橋2-9。2013(平成25)年4月29日

左及び中の写真は銅板葺の長屋(現在はマンション)の向かい側の路地を入ったところ。その路地にまた路地が交わっていてその角に古い家が残っている。古い航空写真を見ると三軒長屋のようで、3階建ての家は長屋の真ん中の一戸を改装してのことらしい。
右写真は中写真の路地を抜けた横丁。写真右がなかや(うなぎ)。看板建築に挟まれているのが二軒長屋。その右の方が1986年の地図では「魚すえ」。1966年の地図では右の看板建築が「石渡洋服店」、二軒長屋が「福山鮮魚店」。



左:寿し政、右:西村印刷。浅草橋2-18。2013(平成25)年4月29日

魚すえの横丁から北へ2本目の路地が寿し政のある路地。古い二軒長屋に出店している。
右写真の銅板貼り看板建築は金沢クリーニング店の少し北へ行った向かい側。西村印刷だった家は写真左の青い看板建築のほう。銅板貼りの家は玄関が鉢植えで閉ざされているようだが、どこから出入りしているのだろう。

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左:金沢クリーニング。台東区浅草橋2-10。2013(平成25)年4月29日
右:小林玩具製作所。浅草橋2-10。1992(平成4)年5月2日

当ブログ前回の銅板葺長屋の並びで、その一つ北の街区。左写真右の白い壁の家がうなぎの「なかや」で、3階の壁に見えるところは衝立のようなものだと判る。グレーのモルタル壁の家は1986年の地図では小林玩具製作所。右写真右下に玩具の自動車が写っているが、あるいは製作したもの? 路地との角の看板建築はクリーニング店だった家。トタン貼りらしく、錆が浮き出ている。トタン板はタイル張りに見えるようにだと思うが、格子模様が打ち出されている。



左:和助、右:食楽。浅草橋2-16。2013(平成25)年4月29日

左写真は金沢クリーニングの北の街区の路地。この辺りには戦前からある長屋や一戸建ての家がまだけっこう残っている。それは路地の奥だけではなく、通りにも数は少ないが、出桁造りの商家や看板建築の店がまだ見られる。
右写真は和助の路地を抜けた通り。通りを北へ行くと蔵前橋通り渡って鳥越明神通りにつながっている。写真左のフクヤデンキ(福屋電気)は、ナショナルの看板がまだかかっているので廃業したのかもしれないが、建物の横に銅板の造作が残っている。

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サンケイメリット。台東区浅草橋2-6。2011(平成23)年12月18日

福井町通りというのは総武線の北を、清洲橋通りと江戸通りを結ぶ東西の通りで、浅草福井町・浅草新福井町はJR浅草橋駅の北にあった旧町名。その通りに向いて「東宝商事」の看板がかかる古いビルがある(「福井ビル、山城屋」)。その横を入ったビルの裏手に2棟の銅板葺二軒長屋が並んでいた。今、ストリートビューを見たら、すでに小さなマンション(サンブリヤ浅草橋、4階建て9戸、2013年1月築)に建て替わっていた。


サンケイメリット。浅草橋2-6。2011(平成23)年12月18日



左:旧なかや(うなぎ)。浅草橋2-6。2013(平成25)年4月29日
右:Googleマップ>ストリートビューより

1枚目写真の左に写っている建物で横丁同士が交わる四つ角に向いている。その角の方から建物の表面を撮った写真がないので、ストリートビューからお借りしたのが右の写真。隣の稲生治療院は昭和41年の地図に「マッサージ稲生」と出ている古い治療院。さらに隣の民家は木造長屋の1軒が残っているものだと思う。
四つ角の向かい側は「なかや」といううなぎ屋だ。そのなかやの建物は3階建てのビルに見えるが航空写真では2つの切り妻屋根が見え、古い家を看板建築風に改修したものらしい。昭和41年の住宅地図をみると、写真の角の家が「うなぎなかや」となっている。その家が手狭になったためか、向かいの二軒を買い取ったかなにかして移ったのだろう。

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足立布団店。台東区浅草橋2-20。1992(平成4)年5月2日

前の通りは左衛門橋通りという通称名が付いたJR浅草橋駅西口から入谷の金美館通りに至る通りで、その都立忍岡高校がある辺り。
クリーム色のモルタル壁、洋風窓の家は切り妻屋根の妻側を看板建築にしたものらしい。今はマンション(メディウス浅草橋、10階建て18戸、2003年11月築)に建て替わっている。その右は1986年の地図では片岡商店。この家は住宅に改装されたが残っている。出桁造りの家は今もそのままの姿で残っている。1986年の地図では「足立フトン」。



左:清水勝商店。浅草橋2-20。1992(平成4)年5月2日
右:民家。浅草橋2-20。2013(平成25)年4月29日

清水勝商店は上段写真の家の裏に今もある商家。出桁造りの家だが、一階の屋根を省略した形だ。現在は1階右側の引き戸とその上の窓がアルミサッシのものに取り換えられたが、それ以外は写真のままだ。
左衛門橋通りと清水勝商店のある裏通りの間に路地が1本通っている。右写真の民家はその路地の角。3階建てというのが珍しい。屋根の付いた門が残っているが、庭をつぶして駐車場にしている。外壁が改修されているが、元は和風下見板だったのだろう。

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稲垣外科医院
神奈川県横須賀市若松町1
2002(平成14)年2月9日

横須賀中央駅から国道16号へ向かう大通りの米が浜通り入り口交差点を北へ入る通り。千日通りと16号の間の裏通りで、商業地区なのだろうが商店は少なく、東京電力や横須賀警察署などがあって官庁街のようにも感じる。人通りも少ない。
稲垣外科は洋風のビルに見せた建物のようで、看板建築としていいような外観だ。窓の上にアーチの飾りがあるところがある。それがない窓はアルミサッシの窓枠に改修するさいに削り取ってしまったようだ。3階の部分は実際に部屋があるのだか、あるいはそのように見せているだけなのだろうか?
1枚目写真の左のビルは小瀬村若松ビル、写真右奥の日本家屋は飯島商店(たばこ屋のようだ)。現在、その間の3棟は取り壊されて駐車場になっている。

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金星劇場。神奈川県横須賀市若松町1。2007(平成19)年11月16日

横須賀中央駅のすぐ近く、千日通りにあったポルノの映画館。『港町キネマ通り>成人館>金星劇場』に詳しい。そのサイトによると、「戦後ストリップショーを行っていたキャバレーだった建物を昭和30年に映画館に改装、ニュース映画専門館“金星ニュース劇場”としてオープン」した。また、『横須賀建築探偵団』の「フォトギャラリー>表紙のコメント」によると、「建物は関東大震災後に建てられた劇場」としている。「芝居小屋、ストリップ劇場、ニュース映画、漫画映画、西部劇映画専門、日活ロマンポルノなどを上映していたことがあった」そうだ。
建物の外観は昭和初年と思われる建築時のままとは思えず、いつ頃の造作なのだろう。映画館にした昭和30年のときのものかと思うが、キャバレーとしても通用する外観だから、そのときの改装は主に内部だったのかもしれない。
廃業したのは2012年8月末で、その翌年解体された。現在は駐車場。下の写真を撮った2002年でも、よくまあ続いているなあと感心したのだが、それからなお10年間、営業を続けていたわけだ。


金星劇場。2002(平成14)年2月9日

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ライオン堂。神奈川県横須賀市大滝町2。2002(平成14)年2月9日

現在、再開発が進む中央大通りの西友があった街区の北の横丁。中央大通りと並行している通りが千日通りかと思っていたが、この横丁の街灯にも千日通りの標示板が付いている。ライオン堂はいわゆる街の印刷屋さんのようだ。建物の後ろは駐車場(ライオンパーキング)で、建物の左半分がそこへの通路になっている。
横須賀建築探偵団』の「フォトギャラリー>表紙のコメント」によると、昭和初期の建築で当初はレストランだったという。外観はしゃれていて印刷屋とは見えず、建築時の感じが残っているのかもしれない。そのサイトには建物の特徴として、安定感のあるシンメトリーなファサード、軒の階段状のパラペット、デンティルの帯、縦長の窓などを挙げている。現在は取り壊されて駐車場になっている。


ライオン堂。2007(平成19)年11月16日



ファミリーマート。大滝町2。2002(平成14)年2月9日

ライオン堂の隣は、今はビル(ヨコスカ・タワー)に建て替わったが、以前は古い日本家屋だった。それがコンビニというのが妙な感じである。

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石井ミシン商会
神奈川県横須賀市大滝町2
2007(平成19)年11月16日

中央大通りの中間あたりを東へ入ったところで、国道16号の横須賀郵便局へ出る横丁。今、ストリートビューを見たらこの辺りは大変なことになっていた。中央大通りに面して西友があった1区画は再開発(大滝町2丁目地区第一種市街地再開発事業)され、1棟の38階建て高層ビル(ザ・タワー横須賀中央)にまとめられるようで、その建設中だ。
1枚目の写真は横丁から中央大通りの方を見ているが、写っている建物は今は跡形もない。三階建ての石井ミシン商会の建物が目を惹く。『横須賀建築探偵団』の「フォトギャラリー>表紙のコメント」によると、木造3階地下1階建の店舗兼住宅として1929年(昭和4年)に建てられたもので、当初は壁を銅板葺にしていたという。会社の創業は1913(大正2)年。

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