ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




千京商店。台東区台東3-3。2008(平成20)年3月1日

西郷医院の南にある二軒長屋。1986年の住宅地図に写真奥の方が「千京商店」としてあるが、撮影時では2軒とも住宅のようだ。



保刈工務店。台東3-3。2003(平成15)年10月23日

1枚目写真の手前の路地を抜けたところの横丁。写真左奥が「保刈工務店」で、1枚目写真の路地がその手前に開いている。写真右手の長屋に「サン・ファッション」の看板が残っている。写真中央の看板建築から右の3棟は再開発されて、「プレール・ドゥーク秋葉原2」(2008年3月築、12階建44戸)というマンションに替わった。

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星野硝子。台東区台東2-32。2003(平成15)年10月23日

清洲橋通りの佐竹通り南口交差点を西へ行って150mほどの交差点を南へ入ったところ。
星野硝子の割と大きい建物は、外観は改装されているが現存している。戦前築の出桁造りの家の前面を、たぶん戦後になって看板建築風に改装したのかと思う。ネットでは硝子食器製造卸としてあるのがあった。2階中央の文字は「食器類」らしい。今は看板もなく、廃業したのかもしれない。
星野硝子の後の看板建築風の民家はやはり正面は改装されたが建替えたのではないようだ。1966年の住宅地図では「倉庫」なので、星野硝子の倉庫だったのだろうか。その左の木造長屋はHTM(2007年4月築、5階建20戸位)というマンションに替わった。
写真右の矢代ビル(1995年9月築、5階建)は佐竹通り南口交差点に出る通りとの角にある。矢代ビルが「中村屋フードショップ」という看板建築長屋だったときの写真が『中村屋、新星出版社/台東2丁目』で公開してある。

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友愛診療所。文京区根津2-8。2000(平成12)年5月3日

言問通りの、文京区と台東区との堺の交差点から南へ130mほどのところ。友愛診療所の玄関がその通りに面していたのなら、写真は北と東の面が写っていることになる。古い航空写真では、同じ大きさの寄棟屋根の家が2軒つながるように建っている。1986(昭和61)年の住宅地図では西の方が「友愛アパート」、東の方が「友愛診療所」だ。1966(昭和41)年の地図では2軒まとめて「友愛病院」。1947年の航空写真に写っているので、戦前からある建物かも知れない。
現在は「エクセリア文京池之端」(2001年5月築、4階建48戸)というマンションに替わっている。玄関に張られているのは建て替えの告知板だろう。

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アザミヤ、尼ヶ崎剥製標本社。文京区根津2-27。2005(平成17)年4月2日

不忍通りの根津小学校入口交差点で根津観音通り商店街の入口。角の店は看板に「ワイシャツ専門」としか読めないが「アザミヤ」というワイシャツの注文制作の店。その左は「尼ヶ崎剥製標本社」だった家で、すでに弥生2丁目に移っている。ストリートビューで見ると、この2軒は不忍通り拡幅のため、アザミヤは2009年以前、剥製標本社は2016年に取り壊された。
『ベスト・オブ・谷根千』(谷根千工房編著、亜紀書房、2009年、2400円+税)には、アザミヤは「手作りのYシャツを作り続けて60年。注文して10日でできる。値段は5千~8千円。…」とある。昭和初年頃の創業なのだろうか。
「尼ヶ崎剥製標本社」はそのHPによると、主に「剥製標本・骨格標本を製作」している会社。1970(昭和45)年の設立だが創業は明治。『ベスト・オブ』(「尼ヶ崎科学標本社」としてある)には、看板のシーラカンスのレリーフの写真が載っていて、確かに観た覚えがある。
根津観音通り商店街になっている通りは、戦時中にその北側が強制疎開になった。アザミヤと剥製標本社の幅で、建物が取り壊された。戦後、また建物が建並んだ。『不思議の町 根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年、720円+税)には、商店街の渡辺肉店のご主人の語る商店街の謂れが記録されている。七夕祭り大売り出しの飾り付けをした前での集合写真が載っている。それには大きな看板に「根津観音仲見世通り」になっている。その写真ではアザミヤは「あみもの講習所」。

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躍金楼(てっきんろう)。中央区新富1-10。2011(平成23)年11月7日

割烹 躍金楼」の創立は明治6(1873)年。明治元(1868)年に置かれた新島原遊廓が1871年に廃止され、新富町が成立した。新富座の開業が1872(明治5)年。新富座を中心にした花街ができはじめた明治初期に躍金楼が芝居茶屋の1軒として開業したのだろう。
昭和9年頃の火保図では、新富町2–10(現・新富1-5)に「躍金楼 待合」がある。そこが創業の地らしい。写真の建物は『中央区を、知る>新富町躍金楼店舗』によると、戦後の1949(昭和24)年に建てられたもので、1960(昭和35)年に奥の棟が増築された。
昭和27年頃の火保図には、現在地に「(料理家)躍金」があるが、旧地が「旅館躍金」としてある。戦後すぐは料理屋をやっていられず、旅館を営業していたのを、そこを売って新たに現在地に店を構えたのかと想像してしまう。
新富町は昭和50年頃までは、花街として粋な町という印象を発していたから、その頃の名残をとどめる建物といっていい。

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上:プランナー。中央区新富1-15。2007(平成19)年2月7日
左:まつ坂。新富1-15。2011(平成23)年11月7日

1枚目写真は『佐藤家住宅』の向かい側にあった建物。「プランナー」は1986年と1979年の住宅地図にあった会社名。写真のガラス戸にある社名は読めないが、それとは異なる。建物は2017年に周辺の建物と共に取り壊されて、現在は「Axas銀座アジールコート」(2018年12月築、10階建49戸)というマンショに替わっている。
昭和27年頃の火保図では、住所は新富町2-13で「(待合)長谷川光仲」である。向かい側の佐藤家住宅と同じく待合だった家らしい。改装されてはいても建て替わったとは思えない。
路地の奥は、戦前築と思える長屋風の建物が並んでいる。居酒屋の「まつ坂」の奥は「町田写真製版所」

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佐藤家住宅。中央区新富1-11。2007(平成19)年2月7日

当ブログ『瀧亭/新富1丁目』で出した建物だが、そこではちゃんと記述されてないので改めて紹介する。
佐藤家住宅は『中央区>佐藤家住宅』によると、大正14年に建てられた待合の建築。花街だった新富町の面影を伝える建物だ。「門塀を廻し、門扉には花頭窓を設け、材の細い垂木を吹き寄せにするなど優美な意匠が随所に見られる。/2階の庇は、2本の角材と1本の皮つき丸太材を交互に並べた垂木とし、野地板との間に線の細い丸太材を設えるなど数寄屋風の意匠も見られる。/内部の間取りは、客と他の客、裏方の導線が重ならないように工夫が施されており、旧待合の間取り性格が見られる。/旧部材を大切にしたリフォームがされている。」と解説されている。
正面2階の右側の窓の手すりが、2010年頃に左側の手すりのように木で復元された。

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