ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 





台場薬局の長屋。品川区東品川1-6。2013(平成25)年9月22日

当ブログ前回のタカセ理容室の横を入ったところにある平屋の四軒長屋。各戸ごとに改装されていて外観はけっこうきれいだ。一番奥の家に物干し竿とそれを架ける柱が外にあるのが、古い長屋に合った光景を作っている。通りに面した一軒は台場薬局という処方箋を主とした薬局だ。路地を挟んだ隣が南医院だから、そこからの処方箋を受け付けているのだろう。

下の写真は平屋の長屋の隣の路地にある民家。2本の路地は奥でつながっている。玄関が二つあり、屋根の軒の線が二本に別れているので、2棟の家がくっついているのかとも見えるが、軒の切れ目を下におろしてくると玄関の中心あたりになりそうだ。2世帯が入る借家なのだろう。1981年の住宅地図には「春日井アパート」と記載されている。


春日井アパート。東品川1-6。2013(平成25)年9月22日

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上:タカセ理容室、左:酒処夕陽
品川区東品川1-7
2013(平成25)年9月22日

上写真で右へいくとすぐ東品川橋。横丁との角に看板建築の床屋がある。その右の4階建ての小さなビルは長谷川商店だが自販機のみの営業らしい。さらに右に当ブログ前回の元商店。理髪店の家は銅板貼りの看板建築だったと思われるが、ブリキかなにかで貼り直しているらしい。
横町を入った床屋の後ろは古い民家を改装した居酒屋。ぼくは葭簀を見ると海の家を連想する。ついでにかき氷でも売っているような気分になる。この辺りは天王洲運河の釣り船や屋形船のたまり場だから、その環境に合わせたのかもしれない。江戸期ならそれこそ海辺だったところだ。

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品川研磨剤商会。品川区東品川1-7。2004(平成16)年1月11日

東品川橋を東に渡ったすぐのところ。瓦屋根を残した古い家が2棟残っている。この家並みの向かい側は天王洲運河沿いの船宿が並んでいるが、写真の方は商店もあるが住宅が多い感じだ。写真右手の家は入母屋屋根の総2階建て。料理屋だったのかとも思える。その左はベランダ付きの出桁造りのようだ。商店だったのか、なにかの製作所だったのか、1階軒の上の看板が隣の家の半分まで伸びている。


1枚目写真の家並みを逆方向から。2013(平成25)年9月22日



二軒長屋。東品川1-7。2013(平成25)年9月22日

東品川橋から南の旧目黒川の名残りの水路を撮ったもの。手前の岸辺に古い二軒長屋が2棟建っている。左側の長屋はかなり改修されている。右側のは1軒が建て替えられているが、そうでないほうはかなり原形が残されている感じだ。
1枚目写真の右手の電柱の後ろの路地を入っていくとこの長屋の正面に出る。撮影時はそんなことは知らなかったので、この狭い路地は目に入らなかった。『都市徘徊blog>東品川あたり』を見て知った。

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北品川橋。北品川3-東品川1。2004(平成16)年1月11日

旧目黒川が品川浦に出る河口部分の跡が残っていて、そこを渡している橋。親柱には「大正十四年九月竣工」の銘板がある。手摺りは改修されている。橋本体は「3-ゲルバー鈑桁」という形式にみえる。関東大震災復興期の中規模の橋によく見られる形式だ。橋げたはそう古いようにはみえない。
北品川橋の道路は御殿山下御台場の外周につけられたもので、八ツ山通りが整備される前は、第一京浜と海岸通りを結ぶ幹線道路だったと思われる。車の通行を意図して架けられた橋だとすると、大正14年に架橋されたのが最初だとみてよさそうだ。
八ツ山通りから橋を渡ったところが東品川1丁目。江戸期は目黒川が運んだ土砂で形成された洲が漁師町になっていて、その先端に弁財天の祠―利田(かがた)神社―があった。利田神社のさらに先になる北品川橋のところは、地面があったにしても波が洗っていたのだろう。


北品川橋。2013(平成25)年9月22日

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軍司洋服店、美津世商店。文京区根津2-11。1990(平成2)年5月6日

不忍通りの千代田線根津駅の南の出入り口の向かい側。だいぶ傷んだ二軒長屋があった。美津代商店は菓子店のように見えるが、看板に書かれているように「製氷・各種燃料」が本業のようだ。飲食店に氷を配達しているのだろう。昔は、炭屋は夏の間は氷を商うのが普通だったらしいから、この店も戦前から続いているのかもしれない。写真左の看板建築は朝日寿司。

下の写真は不忍通りの長屋の裏にあった木材店。写真左奥に美津代氷店のトタン屋根が見えている。
現在、二軒長屋と木材店は「クレストホーム根津」(1995年5月築、10階建て23戸)というマンションに替わった。


橋本製材店。根津2-11。1989(平成1)年9月10日

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KSビデオシネマ。文京区根津2-8。1990(平成2)年5月6日

不忍通りの裏通り、はん亭のはす向かいにある家。個人住宅にしては家自体が大きいので下宿屋だったのかもしれない。
家の右側には物置小屋などを置いているが、現在は取り払って駐車場にしている。奥の小屋は今もあるが、その上の物干台はなくなっている。板の壁も今はモルタル塗に替わっている。とにかく割とまめに修復をしながら使っている様子がうかがわれる。
東京ダウンタウンストリート1980's>谷中、根津、池ノ端1982~その三』で、1982年撮影の写真を見ることができる。玄関右の二階に飛び出ている部分は、それ以降の増築だ。
家の左側を店舗にしている。それが1986年の住宅地図では「KSビデオシネマ」で、レンタルビデオ屋だったらしい。写真では店名が読み取れないから、その店かどうかはなんとも言えない。現在は「Ponia-pon」という古着の着物の店。そのHPでは「アンティーク着物」と言っていて、古着などと言ってはいけないらしい。2003年5月の開店という。

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山田紙袋封筒店。文京区根津2-12。1990(平成2)年5月6日

不忍通りの根津一丁目交差点から少し南のところ。看板建築の建物は、左からアイバ理髪店、山田紙袋封筒店、瀬戸商店(テント)。山田封筒店は裏に別棟があり、それがおそらく印刷工場だったかと思う。写真右手の建物の間の奥に表側の建物と少しずれて見えている建物がそれ。写真右の掲示板には「宮永町」という旧町名(根津宮永町)が書かれている。
現在は看板建築のそれぞれが3・4階建てのビルに建て替わった。不忍通りの拡幅で敷地の前面を削られた。写真左のタイル壁のビルは、今では前面の2階建て部分がなくなっている。

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九ちゃん。文京区根津2-13。1992(平成4)年4月29日

不忍通りの裏通りで、当ブログ前回の近藤電機店(現・ゆうカフェ)からすぐ南に続く家並み。看板建築の三軒長屋、やはり看板建築の二軒長屋、出桁造りの二軒長屋、と戦前から変わらない家並みだ。店は左から、居酒屋の九ちゃん、森永牛乳販売店、喫茶店のピッコロ、大川原表具店、住居、小野畳店、長坂タバコ店。
現在は九ちゃんが店構え、看板ともそのまま。隣の牛乳店もビヒダスの看板はなくなったが店は続いている。九ちゃんの横の路地は、写真では砂利道のようだが、今は舗装されている。小野畳店の長屋は取り壊されて時間貸しの駐車場になってしまった。


ピッコロ。根津2-13。1987(昭和62)年8月1日


小野畳店。根津2-13。1989(平成1)年2月26日



長屋の背後の家並み。写真手前の屋根が、1~3枚目写真の3棟の長屋。右に中庭のような空地があるが、根津二丁目児童公園。根津2-13・14。1989(平成1)年2月26日

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あさひや。文京区根津2-13。2007(平成19)年12月1日

不忍通りの根津一丁目交差点付近の裏通りの最近の写真。この向かい側が赤札堂の裏側で、写真左奥が言問通りとの角。割と幅の広い裏通りで、不忍通りの側ははん亭以外はビルが立ち並んでいるが、東側はまだ古い家が並んで残っている。
写真左奥の家は言問通りに向いたほうがシオン美容室。この店はすでに50年以上にはなるという古い店だ。建物は看板建築にした日本家屋だが、戦後に建てられた家のようだ。
「あさひや」という日本そばの店の家は戦前からある二軒長屋。下の写真が25年前のもので、二軒長屋の右側は1986年の住宅地図では「竹浪自転車」だが、写真では看板がないのですでに廃業した後かもしれない。


竹浪自転車。根津2-13。1990(平成2)年5月6日



近藤電気商会。根津2-13。1990(平成2)年5月6日

二軒長屋の右に並んでいる看板建築。近藤電気店の左の店は「銀巴里」という理髪店。今は電気店が「ゆうカフェ」に替わり、理髪店は廃業したようである。ゆうカフェを紹介しているサイトには、建物は「昭和初期に建った米屋」としている。

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上:風貴堂。文京区根津2-12
1989(平成1)年4月29日
左:はん亭。1988(昭和63)年11月3日

根津の歴史的建造物として有名な建物。串揚げの「はん亭」が開店したのは昭和50年代初頭ということだ。古建築をレストランに改装して営業するのは、今でこそはやりだが、そのはしりだろうか。不忍通りに面した表側は「風貴堂」という漆器の店だった。
『不思議の町 根津』(森まゆみ著、ちくま文庫、1997年、720円)では、著者は串揚げ屋のご主人高須治雄氏に開店までの話を聞いている。それよると、高須氏は35歳で脱サラ、上野で串揚げ屋を始めるも、周囲に風俗店が増えて嫌気が出ていた頃、この木造三階建ての家に出会う。当時は運送会社の独身寮(昭和44年の住宅地図では「中央運輸」)になっていた。建物を残して営業するという約束で買い受け、外観はそのままで店に改造した。はん亭は開店すると本人も意外に思う繁昌ぶりで、じきに居間や蔵も客室に改装したようだ。元々は爪皮屋の三田平吉という人が大正3年頃建てた店舗と住居。爪皮(つまかわ)とは下駄の先につける泥よけのカバーのこと。「三田の爪皮屋」は全国的に知られた店だったらしい。
『東京路上細見1』(林順信著、平凡社、1987年、1900円)では、二階建ての出桁造りの店舗は明治42年頃に建てた、としている。爪革(当書では「革」の字を当てている)屋の三田商店は、戦後は革草履屋に転向したが、やがて店をたたんだ。
風貴堂の開店がいつなのか分からないが、昭和44年の住宅地図では「会津木工」となっている。不忍通りの拡幅で店舗部分の前面が削られたのは2001年のことという。
東京ダウンタウンストリート1980's>谷中、根津、池ノ端1982~その三』では、1982年2月撮影の、犬矢来を置く前の写真が見られる。

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