ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




篠金商店、住長商店。中央区日本橋大伝馬町5。1988(昭和63)年7月31日

人形町通りの小伝馬町交差点の少し南から西へ入ったところ。前の通りは平成5年に「大伝馬本町通り」という愛称がついた。江戸期の奥州街道にあたる道筋である。写真右の建物は人形町通りに面した住友銀行人形町支店。現在、写真の街区は「三井住友銀行人形町ビル」(12階地下2階建、竣工1990年10月)ひとつにまとめられている。
住長(すみちょう)商店の左の袖看板は「YKKファスナー」で、手芸材料用品店。今は大伝馬本町通りの向かいの「住友第二ビル」に移って営業している。篠金商店は商売の内容は知らないが建て替わったビルに入ったようだ。
撮影当時の地図では篠金商店の左が「玉泉堂」。『製墨業』にある、「〈長島孫四郎が〉明治八年には、東京日本橋大伝馬町に筆・墨・硯の販売所として、長島玉泉堂を創設した」とあるその長島玉泉堂ではないかと思う。昭和10年頃の火保図に「長崎王泉堂」の記載がある。廃業してだいぶ経つらしく、ネットではなにも分らないが、製品はネットや専門店で高価に売られている。


小原ビル。日本橋大伝馬町1。2007(平成19)年1月4日

1枚目写真の左へ行ってすぐの四つ角の角にあったビル。どうということのないビルだが、1階の窓に「建築計画のお知らせ」の掲示が出ているので、とりあえず撮ったものらしい。小原糸店が建てたビルである。現在は隣のビルと共に「日本橋大伝馬町プラザビル」(2009年4月竣工、9階建)に替わった。小原糸店は戦前の火保図に同じ場所に載っている。

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ポンプ跡。文京区本郷7-3。2012(平成24)年4月28日

東大安田講堂の前の広場の南、育徳園(三四郎池のある緑地、大名庭園)のふちに残っている散水用ポンプの遺構。『学内広報2016.06』の「育徳園の現在・過去・未来」という記事に、「…異彩を放つレトロな建物は、池の水を吸い上げて構内に潤いを与えんと1928(昭和3)年に設置された撒水用ポンプ施設です。3馬力の電力と趣のある見た目が自慢でしたが、現在は稼働していません」と説明されている。建物自体はモーターポンプを収めた小屋だが、操作はどこでやっていたのだろう? 散水車で構内を回ったのかと思うがどんなものだったのだろう? 水の出るパイプを下に延長すると地面の敷石に丸い穴がある。垂れてくる水を地面に吸収させる穴と思われる。

下の写真は法文2号館の南にある三四郎池に降りていく階段。『育徳園の履歴とあり方』というレポートに、「法文2号館南側擁壁階段。竣工年:昭和9年(1934年) 設計者・施工者:不明」とある。倉庫にしたものだろうか、小屋を造っている。


擁壁階段。2006(平成18)年5月9日

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御殿下記念館。文京区本郷7-3。2006(平成18)年5月9日

御殿下(ごてんした)記念館は東京大学百周年(1977年)の記念事業として、卒業生や経済界から寄付を募り、その約半分の20億円で、東大附属病院の西側向かいのグラウンドの地下に総合体育施設を建設したもの。埋蔵文化財調査が行われ、着工したのは1987(昭和62)年8月、完成は1989(平成元)年1月(『東京大学御殿下記念館につ いて』)。
その後、2010(平成22)年6月に、グラウンドの北西部分に「学生支援センター」(地下1階地上3階建)が竣工している。
キャンパスを散策しているだけでは、御殿下記念館は以前からあったレンガ造りに見える三連アーチの入り口部分のような構造物が残されていて、学生支援センターが新しく建っただけとしか見えない。
その古いエントランス部分は『日本近代建築総覧』に「東京大学運動場下厚生部附属室、建築年=1933(昭和8)年」で載っている建物。『芦原建築設計研究所>東京大学御殿下記念館』によると、内田祥三の設計で、「グラウンドの土留めを兼ねた半地下式の付属屋」「三連アーチの柱頭は、明治期辰野金吾が設計した工部大学校に使われていたものを内田祥三が移設再使用したといわれている」とある。



御殿下記念館。2006(平成18)年5月9日

エントランスに続くグラウンドの北側には売店などが入っていた。1974(昭和49)年の住宅地図には「生協サービスセンター、バーバー、売店」と記されている。
「御殿下」の名称は加賀藩邸の建物に由来する。グラウンドと三四郎池の間の築山には、現在は「山上会館」が建っているが、加賀藩邸だった時代には、庭園を眺める位置にあるから、接待用の御殿があったのだろう。その下にあるから御殿下である。築山は三四郎池を掘った土で築いたものだ。

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東京大学理学部旧1号館。文京区本郷7-3
1988(昭和63)年11月6日

安田講堂の裏側に「新1号館西棟」を新築するために、旧1号館の西側が取り壊されたのは1994年で、12階建ての新1号館西棟が完成したのが1998年2月である。次いで西棟の東に10階建ての「新1号館中央棟」が2005年2月に竣工する。この時点では旧1号館は東側の、元の1/3ほどになってしまっていた。そのまま保存されるのかと思っていたが、2013年12月に取り壊されてしまい、2017年11月には地上6階建ての「東棟」が完成した。
旧1号館は『日本近代建築総覧』では「東京大学理学部1号館、建築年=1916(大正15)年、構造=RC3~4階、設計=岸田日出刀/小野薫」。関東大震災で倒壊した理科大学本館の跡地に建設された。その本館は化学東館のような外観だったらしいから山口孝吉の設計だったと思える。
旧1号館の平面は中庭のある長方形で、4つの角は内側に矩形に切り取って外観に変化をもたらしている。外観は岸田がドイツ表現主義を指向したデザインと言われる。どういうことかというと、『収蔵庫・壱號館>東京大学理学部旧1号館』に述べられている。なお、4階部分は1965年の増築。
小野薫(1903-1957年)はウィキペディアによると、「架構力学理論の研究者であり、難解な構造力学の分野を平易に紹介。戦前は満州で建築教育に携わり、戦後は東京大学および日本大学において後進の育成に当たった」「1926年(大正15年):東京帝国大学工学部建築学科卒業、同大学営繕課」。旧1号館では構造設計を担当したのだろう。
それにしても表現主義の建築物がなくなってしまったのは残念だ。

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東京大学理学部化学東館。文京区本郷7-3。1989(平成元)年10月15日

戦前の東大の建物と言えば、内田祥三(よしかず)による内田ゴシックと言われる建物がほとんどといっていい。レンガ造に見える化学東館は、内田が1923(大正12)年に営繕課長に就任する前の前任者、山口孝吉による一時代前の建物である。
『日本近代建築総覧』では「東京大学化学教室、本郷7、建築年=1916(大正5)年、構造=RC、設計=山口孝吉(東京大学営繕課長)、施工=竹田源次郎、構造設計柴田畦作」。竹田源次郎はたぶん竹田組(現・平塚竹田組)のことかと思う。柴田畦作(けいさく)は『歴史が眠る多磨霊園>柴田畦作』というサイトに略歴が記されていた。岡山県出身。1896(M29)東京帝国大学工科大学卒。後に東京帝国大学工科大学教授となる。わが国において初めて鉄筋建築を研究した人で、応用力学および構造学に造詣が深く、本格的鉄筋コンクリート建築の祖として知られた。京都の七条大橋(大正2年完成、鉄筋コンクリートアーチ橋)は柴田が構造設計を、設計を山口孝吉が担当した。
東京大学理学部>化学東館竣工100周年』によると、東大の建物の中で鉄筋コンクリートを採用した最初の建物。池田菊苗の基本構想をもとに、山口孝吉によって設計された地上2階、地下1階の建物。池田菊苗は当時の理学博士・帝大教授。グルタミン酸ナトリウム(味の素)を発見した人。



2012(平成24)年4月28日

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伊勢重。中央区日本橋小伝馬町14。1985(昭和60)年12月31日

前の通りは江戸橋通りで、左にすぐ鞍掛橋交差点。写っている建物は、左端から古谷商店(金物店)、伊勢重(いせじゅう、すき焼)、旭日製作所、立花(そば、2階は喫茶店)、アクサ小伝馬町ビル(建設中、竣工は1986年2月)。
伊勢重は、そのHPによれば、1869(明治2)年創業のすき焼の老舗。初代・宮本重兵衛が日本橋小伝馬町で開業した。1945(昭和20)年3月10日の空襲で店舗は焼失。1948年に店舗を復興、1950(昭和25)年にはそれを増改築している。写真の料亭風の建物がそのときのものと思える。1991(平成3)年、旭日製作所などと共に9階建てのビルに建て替えて、その1階と地下1階で営業している。
立花の建物が今も残っている。Google Mapでは「内田ビル」で、1階に「鳥番町(鶏料理)」、2階に「ゑのじ(牛たん)」とやはり飲食店が入っている。

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瑞法光寺(鬼子母尊神堂)。中央区日本橋小伝馬町4。1985(昭和60)年12月31日

大安楽寺の隣が「見延別院」という寺で、その正面の向かい、6m道路を隔てて「瑞法光寺」という寺が昭和末年まで向かい合っていた。現在は茨城県取手市に移転して、跡地の一帯は「小伝馬町新日本橋ビルディング」(1991年12月竣工、9階建)というオフィスビルに替わっている。
瑞法光寺』によれば、明治18年に「村雲鬼子母神堂」として小伝馬町牢屋敷跡に創建された。関東大震災で焼失後、昭和4年に再建されたのが写真の本堂。昭和17年に「村雲瑞龍教会」と称した。昭和27年には現行の「瑞法光寺」と改称した。昭和62年2月28日をもって取手市に移転した。その際、本堂を移築したが、その工事が完了したのが平成元年4月である。

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大安楽寺本堂。中央区日本橋小伝馬町3。2018(平成30)年1月1日

大安楽寺は伝馬町牢屋敷及び処刑場跡に、その地で亡くなった者たちを慰霊するために1875(明治8)年に創建された寺。山科俊海が勧進し、大倉喜八郎や安田善次郎らが寄付をした。大安楽寺の大は大倉、安は安田の名に由来する。関東大震災前は十思公園の位置にあったらしい。大震災で焼失し、1929(昭和4)年に現在地に再建された。
『東京都の近代和風建築』(東京都教育庁編集、2009年)によれば、本堂は耐震耐火にこだわった建物で、大倉土木の設計施工で、鉄骨・鉄筋コンクリート造の地上2階地下1階建、1928(昭和3)年の竣工。正面に唐破風の向拝(こうはい。社殿や仏堂の正面に、本屋から張り出して庇ひさしを設けた部分。参詣人が礼拝する所)があり、外観は柱や梁を見せる真壁風の意匠で、2階には火灯窓が並ぶ。地階は納骨堂。
写真右手前の建物は「書院・書庫」で、やはり1928(昭和3)年竣工の木造平屋、入母屋造、銅板葺の建物。本堂とともに大倉土木による建設。

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中華料理 福聚。中央区日本橋小伝馬町12。1987(昭和62)年9月5日

江戸通りと人形町通りが交わる小伝馬町交差点の南東角の30年前の様子である。建物は左から、小伝馬町佐工ビル、大棋商店(碁石)、平井囲碁店、梅花亭(和菓子)、福聚(中華料理)、回文堂印店(ビルを建設中)、若生書房(写真では確認できない)、東屋ビル(東屋帳簿店)、滋賀ビル(滋賀銀行東京支店)。
銅板貼り看板建築が「福聚」(読み方が分からない。ふくしゅう? ふくじゅ?)で、今は改修されて銅板は見られないが建物はそのままである。福聚の左のモルタル塗り看板建築の長屋はKDKビル(2001年12月築)に替わり、梅花亭はその1階で営業している。
滋賀ビルは1952(昭和27)年6月竣工の古いビル。2011(平成23)年に耐震補強工事をして、外観が変わってしまった。

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日本キリスト教団西片町教会。文京区西片2-18。1988(昭和63)年3月13日

中山道(国道17号)に面したゴシック様式の教会。『レトロな建物を訪ねて>西片町教会』によると、1935(昭和10)年に完成した木造2階建ての建物で、設計者は伊藤為吉。
現在の建物を見ると、上の写真と比べていくつか変化が見られる。歩道沿いの塀がなくなり、右の玄関の前にガラス張りの箱のような庇を造った。窓枠が取り換えられている。これらの改修の時、タイル張りの壁面もクリーニングされたのかもしれない。
伊藤為吉(1864文久4年~1943昭和18年)はウィキペディアに項目がある。建築家としての仕事は教会堂が多いようだが、仕事をした時期が早いので現存する建物はほとんどないようである。「1933年大阪に「研究所」を設け、無限動力機関の発明に没頭する」とある。永久機関のことだと思うが、工部大学校で機械工学を学んだという人がいったいなにを思いついたのだろう?



旧高野瀬歯科医院。西片2-18。2007(平成19)年2月24日

西片町教会から数軒北の並びにあった歯科医院だった建物。『近代建築散歩(東京・横浜編)』(2007年、小学館)に「日本ナショナルトラスト事務所(旧高野瀬歯科医院)建築年=1910~20年(大正期)。近代建築の保護にも取り組む日本ナチョナルトラストの事務所」で載っている。単純な外観だがなんとなく惹かれる建物だ。2012年頃と思うが、3階建ての住宅に建て替えられた。

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