ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




清洲橋通り裏。台東区小島2-4。1988(昭和63)年12月31日

オザワ工業の角を北へ入ったところで、清洲橋通りの1本東の裏通り。写真中央の四つ角を右へ曲がるとマース製作所がある。奥のビルは春日通りに面した田原屋のビル。このビルの前に都営地下鉄大江戸線の新御徒町駅が2000(平成12)年12月に開通している。
写真左手前は今、「センチュリーハイツ御徒町モダニカ」という2004年3月に完成したマンションになっている。



タイトー通商。小島2-5。2005(平成17)年4月9日

1枚目の写真で右手の「辨天堂」の看板があるほうの街区。こちらは現在も古い家が残っている。手前角の家が1986年の住宅地図に「タイトー通商」となっている家。今はたぶん変わっていると思う。辨天堂の看板がなくなっているがネット検索すると製版業で出てくる。写真左端の青い家は1枚目の写真で「中島紙裁所」の看板を出している家。

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江東区立深川図書館。江東区清澄3-3。1989(平成1)年11月26日(4枚とも)

清澄庭園の南西角に当たる場所で、仙台掘川の北に沿った道路沿いという立地。建物は設計=東京市、施工=西村組で1928(昭和3)年に建設されたもの。正面は2階、奥は3階建てだ。建設時は東京市立深川図書館で、江東区に移管されたのは昭和25年である。
関東大震災後の公共建築の典型かと思えるような外観で、装飾はほとんどなく、耐震耐火に考慮した造りであることはよく分かる。とはいえつまらないということはなく、これという外見上の見所がないのが返ってしぶくていい。しかしこういう建物を建替えの対象としてしか見ない人のほうが世の中には多いらしい。現在の、1993(平成5)年10月に開館した古典様式だかルネサンス洋式風の建物をどう見ればいいのだろう?



重厚な感じの玄関




図書館の南面とアールデコ風の裏門

『東京建築回顧録』(読売新聞社編、読売新聞社刊、1988年)によると、関東大震災後に「帝都復興院」の事業の一環として京橋、一ツ橋の図書館と共に建設されたもので、延べ床面積1,735㎡、建設には東京市学校建築課が当たり、276,150円の巨費を投じた、とある。1945(昭和20)年1月の空襲では屋上を突き破った焼夷弾が2階の閲覧室で火を噴いた。当時、館長代理を務めていた清水正三氏の活躍で本を焼かずに消し止めたという。

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岩崎機械製作所。台東区小島2-4。1988(昭和63)年12月31日

写真左は清洲橋通りで手前の道路は小島1丁目と2丁目の境になっている。姫の湯の前から撮っている。写真左上の「特殊鋼、ハガネ」の文字が読み取れる袖看板は、岩崎機械製作所の隣の「東和ハガネ」かもしれない。写真右端の3階建てのビルは1986年の住宅地図では「がんこ」、その隣に写真左よりの街灯にある「金伸」だが下の写真ではすでになくなっている。
現在はビジネスホテルの「ホテルフォンテーヌ上野」に変わった。開業は2000(平成12)年7月。



オザワ工業東京営業所。小島2-4。1988(昭和63)年12月31日

写真左端のビルが1枚目の写真右端に写っているビル。外壁の銅板にしわがよっているのが見える。銅板張りというと小さい片で模様に仕上げることが多いが、銅が膨張しやすいという理由もあったのかもしれない。
現在は建て変わったがやはり3階建てで、同じ規模で置き換わったかのようだ。

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左:マース製作所。台東区小島2-12。1992(平成4)年6月6日
右:民家。小島2-4。1988(昭和63)年12月31日

左写真は清洲橋通りから東へ、小島公園の南を通る横丁に入ったところ。マース製作所の看板建築の家は現在はビルに建て替わっている。写真右端に下の写真のエドワードフジヤの建物が写っている。
右写真のほうは清洲橋通りのすぐ裏にあった看板建築の家。割と大きいベランダに惹かれて撮影してしまったらしい。


エドワードフジヤ
台東区小島2-11
1987(昭和62)年6月7日

この建物は現存している。建物の左右で窓の配列などが異なる。改装して現在の形になってしまったのだろう。縦長の窓が左側の2階と右側の3階にあるから、元は2・3階はこの形の窓だったと思える。

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八百民。中央区日本橋蛎殻町2-6。1982(昭和57)年8月29日

新大橋通りから南へ入ってすぐのところで、写真左へいくと撮影時には有馬小学校があった。昭和8年の地図に「八百ヤ」となっているから戦前からの古くからある八百屋で、建物もそのときから替わっていないのだろう。
現在はビルに替わりその壁に「YAOTAMI」の文字を付けている。



中崎医院。日本橋蛎殻町2-13。1985(昭和60)年

写真右端が八百民と同じ交差点で、八百民とはちょうど反対の位置。前の道路は新大橋通りを越えると人形町大門通りになる。この道路を境に東側(浜町方面)が空襲で焼失した。写真の建物は戦後まもなく建てなおしたものだろう。
現在は中崎外科の看板のビル(NSビル)と中崎歯科医院のビル(中崎ビル)との2棟が立つ。

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石井硝子、セブンシャツ。台東区小島2-11。1992(平成4)年6月6日

清洲橋通りから東へ、小島小学校のほうへ入った道路に2棟とも現存している。1986年の住宅地図では「石井硝子」と「セブンシャツ」だが、写真では石井硝子の家は住居に見えるから廃業したのかもしれない。出桁造りの商家の1階部分はガラス戸の引き戸でその中は前面が土間になっているのが普通だが、それを住居に改造したのだろう。セブンシャツの家は現在ではやはり廃業したようで、1階はガレージにしている。その家の右の家はやはり現在もそのままで、前記の地図では「小池革スキ所」。



ハマダ印刷所。小島2-12。1992(平成4)年6月6日

1枚目の写真と同じ道路で、1ブロック西のところ。看板建築にした3軒長屋で、現在もまったく写真のとおりである。古い航空写真を見ると、長屋は左右にもっと長かったような感じだ。

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風間商店。台東区小島2-19。1988(昭和63)年12月31日

春日通りから小島小学校の方へ入ったところで、写真右手前に小島小学校がある。塀に「建築計画のお知らせ」がかかっている。建物は戦後のものでそれほど興味を引かれたわけではないが、なくなってしまうとなるとついカメラを向けてしまう。



桜湯。小島2-19。1992(平成4)年6月6日

1枚目の写真で左の角を左へ入ったところにあった銭湯。入口は唐破風の飾りですぐ銭湯と分かる造りだ。
このあたりでは小島2丁目14~16とその南の10~13番地を分ける道路を境に、その道路の北側が空襲で焼失したようだ。昭和22年の航空写真ではこの銭湯はまだ建っていない。

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蛎殻町公園。中央区日本橋蛎殻町2-10。1985(昭和60)年2月

震災復興小学校の有馬小学校の旧校舎と一体で造られた公園だ。1987(昭和62)年に完成した新校舎の工事が始まるまでは昭和初年に造られた状態に近いままで維持されてきたようだ。
有馬小中学校の運動会はここで行なわれた。ぼくも一度は参加しているはずだが、昭和34年のことでどうもよく憶えていない。卒業アルバムのクラスごとの集合写真は写真のテラスで撮られた。当時はこの公園の前に浜町川がまだ水面を見せていた。

蛎殻町公園で行なわれた運動会。有馬中学1960年卒業アルバムより。


『東京の空間人類学』(陣内秀信著、筑摩書房、1985年)に、大震災後じきにつくられた公園の特徴として、「まず広い自由広場を設け、その正面中央に、壇の上に藤棚のある洒落たパーゴラ(園亭)が設けられる。一画にはコンパクトにまとめられた児童遊技場が植林で囲われて落ち着いた空間となっている。残りの周縁部は植樹された緑地で所々にベンチが置かれる」と説明されている。
上の図は同書に載っていた「蛎殻町公園平面図」。原典は『公園案内』(東京市役所)。

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中央区立有馬小学校。中央区日本橋蛎殻町2-10。1985(昭和60)年10月10日

現在は写真の校舎の後ろの北側、かつて浜町川があったほうに蛎殻町公園があって、そこに改築された。変わって写真の側は公園と校庭になっている。
有馬小学校は1873(明治6)年に旧久留米藩主の有馬頼咸(よりしげ)の寄付を元に開設され、翌年に公立有馬小学校として開校している。
谷崎潤一郎が明治44年に発表した『少年』は「もう彼れ此れ二十年ばかりも前にならう。漸く私が十ぐらゐで、蠣殻町二丁目の家から水天宮裏の有馬学校へ通つて居た時分――人形町通りの空が霞んで」と、現在でも通用する背景の描写で始まる。谷崎の誕生の地は人形町1丁目にあるが、執筆当時はそこが蛎殻町2丁目のうちになり、水天宮と有馬小は蛎殻町3丁目だった。その当時の有馬小学校の位置は今の新大橋通り沿いである。
有馬小と同じ蛎殻町2丁目にある水天宮は有馬家の上屋敷(港区芝赤羽)にあったものを1872(明治5)年に蛎殻町の中屋敷に移したものという。
有馬頼咸の孫に有馬頼寧(よりやす)という人がいる。競馬の有馬記念は中央競馬会理事長だった彼の功績を称えての名称だ。馬券を買う前に水天宮にお参りしておくと御利益があるかもしれない。
写真の校舎は1927(昭和2)年の完成、設計:東京市、施工:大倉土木。改築された校舎は1987(昭和62)年に完成している。それまではこの校舎が使われていたようだ。



中央区立有馬中学校1960(昭和35)年卒業アルバムより

1枚目の写真は校舎が写っているだけという写真である。どうせならもう少し近づいて撮ればよかったが今更どうしようもない。ぼくは中学3年で有馬小学校と同じ校舎にあった有馬中学に転校してそこを卒業した。卒業アルバムを持っているので、それに載っている写真を掲載する。ちなみにこの年の卒業生は130人。
有馬中学は1908(明治41)年に設置された「日本橋高等小学校」が始まりらしい。写真の玄関は中学校のもので、同じ正面左のほうに同じ造りで小学校の玄関がある。煙突が何本もならんでいるがダルマストーブのもの。
卒業した後のことはよく知らないのでネットで調べてみた。有馬中学は1962(昭和37)年には浜町中学と統合して日本橋中学になる。ぼくが卒業してわずか2年後には有馬中学はなくなっていた。1974(昭和49)年にはさらに久松中学と紅葉川中学と一緒になり第4中学になった。1991(平成3)に校名変更して現在の日本橋中学になったという経過である。

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オカハシ配送センター倉庫。中央区日本橋蛎殻町2-8。1987(昭和62)年2月22日

まず写真右奥の3階建てのビルが気になると思うが中央区立有馬小学校である。撮影時には小学校の後ろに蛎殻町公園があった。現在はかつての蛎殻町公園に校舎を新築して、写真の校舎の場所が蛎殻町公園になっている。
写真の倉庫は昭和30年頃の地図では「服部紙店倉庫」(昭和8年の地図でも同じ)で、その手前は銭湯の「竹の湯」があった。現在はマンションが建っている。



オカハシ配送センター倉庫。日本橋蛎殻町2-9。1985(昭和60)年10月10日

1枚目の写真の向かい側。同じ形で3棟並んでいる倉庫は、住宅地図ではやはり「オカハシ配送センターソーコ」。その右の倉庫は「東伸社倉庫」。箱崎川の河岸から荷を上げ下げするための倉庫がこの辺りまで建っていたわけだ。
現在はロイヤルパークホテルの敷地で、ホテルの後ろの庭園になっている。

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