ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




カミヤ。台東区入谷1-23。1989(平成1)年3月26日

金美館通りの入谷市場前交差点を北へ入った割と広い横丁である。昭和22年の航空写真を見ると、この道路の左(西側)の一画が空襲で焼失するのを免れたことが判る。昭和末年ではまだ通りに沿った家屋は、戦前に建てられた家が半分近く残っている感じだ。
写真中央の日本家屋は角が「カミヤ」という飲み屋らしい。現在、この家がなくなって駐車場になり、写真左の黒っぽい看板建築の家が建て換わった。



アイハラ理髪店。台東区入谷1-31。1989(平成1)年3月26日

1枚目の写真から北へ2つ先のブロック。手前角がアイハラ理髪店。山下商店の日本家屋は3軒長屋である。現在、その長屋は残っているが写真左の看板建築の家は取り壊され、駐車場になっている。



清水たばこ雑貨店。1枚目の写真の右部分だ。撮影がほぼ現在なので現状も写真のままだと思う。入谷1-30。2005(平成17)年10月8日

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石田化粧品店。台東区入谷1-25。1989(平成1)年3月26日(2枚とも)

昭和通りから金美館通りに入ってすぐのところ。水上酒店の向かいになる。建物は写真左から、石田化粧品店、入谷ステーションホテル、船津商店、アラ井理容。
ストリートビューで見ると、石田商店はビルの住宅に換わり、船津商店は更地になっているからビルが建ったかもしれない。



マシモ金物店。1枚目の写真のところから東にいった入谷市場前交差点。角の家は、現在は真下ビルという1階が店舗のマンションになっている。入谷1-23。

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日本郵船倉庫。中央区日本橋箱崎町36。1987(昭和62)年4月29日

現在は隅田川大橋の袂に建つ「リバーサイド読売ビル」の、門のように開いたところに当たる。写真の倉庫は隅田川に沿って並んでいた倉庫のひとつで「北No.1棟」。以前はこの倉庫の北側(写真左手)に「北No.5」までの倉庫が並んでいたが、撮影時はこの北No.1しか残っていなかった。写真右の空地は、1986年の住宅地図で「読売専用駐車場」。倉庫が機能していたときにはトラックの発着場だったと思われる。古い地図を見ると、ここは隅田川の入掘りでダルマ船が数隻入れられるようになっていた。幅は倉庫1.5棟分くらい。埋立てられたのは意外と遅く、1980年頃のようだ。
写真の駐車場の南には「南No.1」から「No.6」までの倉庫が並んでいて、現在はIBM箱崎ビルになったが、三井倉庫と接していた。隅田川大橋の完成が1979(昭和54)年で、南倉庫の真ん中を通された。従って南倉庫は少なくとも1970年代半ばには取り壊されたとものと思う。



倉庫北側の倉庫跡は月極駐車場。1990(平成2)年

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東海堂ビル。中央区銀座6-4。左:1986(昭和61)年2月2日、右:同年8月24日

設計:渡辺節、施工:大林組、1929(昭和4)年竣工、鉄骨鉄筋コンクリート造4階。
東海堂ビルが完成した1929年に、渡辺建築事務所の東京での代表的作品である日本勧業銀行本店が完成している。東京穀物商品取引所もこの年。
『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年)には次のように解説されている。うまく要約できないので、全文を引用してしまう。
この建物は銀座の片隅に人知れず建っている。名も知れず、目立たなぬ建物であるが、渡辺節という建築家の作品系譜より見れば重要な位置を占める。
彼は昭和戦前に関西を中心に活躍した。ある意味で村野藤吾の師匠にあたる建築家であった。彼はルネサンスやゴシックと言う西欧の建築様式を基調とした。言わば当時にあっては正統的な作風の建築を得意とした。
この作品は彼の作品傾向よりはずれた、初期の作品ではおそらく唯一のモダンなスタイルの建築である。窓の上下に庇をつけるという初期のインターナショナルスタイルのディテール。塔屋のアール・デコ調の扱いなど、随所に新しい試みがなされている。しかし、ミースやコルビュジエという欧米の建築運動の刺激を受けながらも、それをそのまま自己の作品にとり入れることに今一歩踏み出せなかった建築家の逡巡もここにある。
結果的にミースの亜流で町が埋められてしまった現在、かえってこの初期のインターナショナル・スタイルが新鮮ではないか。




上:1992(平成4)年3月20日
左:1986(昭和61)年8月24日

「東海堂」は玄関の上にその文字があるから、たぶんビルのオーナーなのだろう。建て換わった現在のビルの名称はやはり「東海堂銀座ビル」で、1995年8月の竣工。旧ビルの外観を意識したデザインだ。
東海堂は「東海堂書店」のことらしいがこのビルで営業していたとすると本屋ではなく出版社だったのだろうか。「細川活版所」に関してもネット上ではなにも判らない。

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ハコザキバーバー。中央区日本橋箱崎町31。1983(昭和58)年6月

隅田川大橋への上り口の交差点を東へ入ってすぐのところ。前の道路は、今はないが中州橋で日本橋中州とつながっている。震災後の道路整備で新たに通されたものだ。
この辺りでは珍しく商店が並んでいる。斉藤食料品店、ハコザキバーバー、栄楽食堂があるが、昭和30年頃の火保図でも「斉藤」「箱崎バー」「栄楽軒そばS」で、栄楽食堂の右の家は戦前からの炭屋だったらしい。
現在は1991年3月に竣工した「箱崎314ビル」になった。



旧斉藤食料品店。1987(昭和62)年4月26日

斉藤食料品店は看板を下ろしてしまっている。その建物は3軒長屋の集合店舗になるようだ。床屋の看板は、以前は「箱崎理髪店」と書かれていたと解る。白く塗りつぶしたと思われるが、どうして浮かび上がってくるのだろう。「Bar Ber」の表示では「Beerの飲めるBar」のように読めてしまう。



光栄。日本橋箱崎町34。1987(昭和62)年4月26日

写真右端の建物は2枚目写真の左の看板建築で、「中村木工所」。写真中央の看板建築の角が住宅地図に「光栄」となっている家。2枚目の写真もだが、どの家にも選挙ポスターが貼られている。中央区議会議員の選挙らしい。どうも空き家をいいことに無断で貼りまくったとしか思えない。



「赤いとってのついたコウモリ傘を杖がわりにする床屋の顔をした糖尿病のサギ師」

上のファンタスティックな絵は、CGアーティストとしてご活躍の柴田弘嗣氏より、当ブログに頂いた作品です。ご覧のようにハコザキバーバーが描かれていますね。長いタイトルも謎めいています。
……ハコザキバーバーが傘を杖代わりに立って、人を待っているのでしょうか? ハコザキバーバーはただの書割、それでもうっかりドアを開けて入ってしまう人がいるのかもしれません。世の中にはみえみえの詐欺に引っかかる人は後をたちません。などと冷静な顔で言っている人が危ない……
1985年頃の作品とのことです。(2011.10.26追記)

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長屋。中央区日本橋箱崎町40。左:1983(昭和58)年6月

当ブログ前回の二村商店の向かい。総2階木造の、四軒長屋と民家である。
「日本橋」というと伝統的な商業地区という格式からか、あまり長屋を見ることはないように思う。5分も歩けば人形町であるが、箱崎町はかつて島の倉庫街で商業地区とは地理的にも切り離されていた。箱崎町に見る民家や長屋は、旧京橋区の入船や湊、あるいは築地といった水運と結びついた町との共通性があるようだ。
現在、写真左の民家はなくなってコインパークになっている。四軒長屋は右端の家が改築したので三間長屋になって残っている。



1枚目の写真、左の民家。1990(平成2)年

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旧・二村商店。中央区日本橋箱崎町41。1990(平成2)年

東京シティエアターミナルのすぐ横。写真左のビルは「日本橋倉庫箱崎第二ソーコ」。民家は戦前の火保図で「二村商店」。正面は近年の増築かもしれない。右の空地は「小網容器置場」。「小網倉庫」が建っていた跡である。
写真右奥の首都高はかつては箱崎川で、その川沿いに倉庫が立ち並んでいた。現在はマンションが建っている。


旧・山本商店
1983(昭和58)年6月

1枚目の写真のすぐ右側。角の家は戦前の火保図に「山本商店」となっている家。昭和30年頃の火保図では「住宅」になってしまっている。奥に看板建築の3軒長屋があるが、すでに空き家らしい。
右奥の突き当たりの黒っぽいコンクリートの部分は、恐らく箱崎川の堤防だった部分だろう。

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佐々木内張店。中央区日本橋箱崎町33。1987(昭和62)年4月26日

「箱崎町」といえば、一般には「箱崎ジャンクション」と「東京シティエアターミナル」、あとは「IBM箱崎ビル」だろうか。用事でもなければ人がやってくるようなところではない。箱崎町の原地形は隅田川河口の中洲だと思われる。箱崎川と箱崎川支流が埋立てられたのは昭和47年だが、それまでは島だった。回りの川に面した場所はすべて倉庫が建てられ、その内側にわずかに町屋が存在した。空襲での焼失を免れた地域で、バブル前までは戦前の木造家屋がかなり残っていた。
写真は隅田川大橋の通りの北側、旧箱崎町4丁目になる。写真奥の首都高の下が東京シティエアターミナル。角の家は「佐々木内張店」の表札を出している。その奥の家の看板は「寺島○○有限会社」としか判読できない。現在は奥の長屋の1軒を残して取り壊され、駐車場にしている。写真右奥のビルは住宅地図では「キウブ商事箱崎ビル」だが、現在は駐車タワーに建て変わったようだ。


鈴新箱崎倉庫
日本橋箱崎町41
1986(昭和61)年8月8日

1枚目の写真で右奥へ行って突き当たりを左へ行ったあたり。倉庫の裏側は東京シティエアターミナルで、昔は箱崎川の水面だった。船で荷物が運び込まれる場合も多かったのだろう。昭和30年頃の火保図には、写真の倉庫と同規模の倉庫が、十数棟が立ち並んでいる。「上野S倉庫、コンクリート平屋」とある倉庫に違いない。

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丸石ビル。千代田区鍛冶町1-10。左:19867昭和62)年4月5日、右:1985(昭和60)年8月5日

設計:山下寿郎、施工:竹中工務店で1931(昭和6)年3月に竣工した。全体のデザインは「近世ロマネスク様式」によるものだそうだ。現在では街中にこれだけ大きい様式建築は幾つもないと思う。それがきちんとメンテナンスされて使われているのが素晴らしい。2000年にBELCA賞(ロングライフ部門)を受賞し、2002年3月に国の登録文化財になった。
太洋商会という会社が建てたもので「旧太洋ビル」「旧太洋商会ビル」という記載が本やネットで目にする。『都市の記録>丸石ビルディング』というサイトによると、ビルは1・2階を太洋商会と姉妹会社の丸石商会(後の丸石自転車)とで使うように設計された。竣工時には1階に太洋自動車(GMの販売代理店)のショールームがあった。竣工時の写真を見ると、上の左写真でビルの奥、アーチ3つ分は増築である。
『企業情報@Wiki』に『昭和36年2月 丸石自転車株式会社に商号変更。本社を東京都へ移転。』とあるので、「丸石ビル」の名称はそのときに付けられたのかもしれない。
『出会いたい東京の名建築』(三舩泰道著、新人物往来社、2007年)によると、もともとこのビルは中央通りに面していた。ビルの前は竜閑川に架けられた今川橋の橋詰広場で都の所有だったのが戦後の昭和25年頃、川は埋立てられて橋も撤去された。そこに丸石ビル別館が建って丸石ビルの正面が隠れてしまうのは昭和50年頃ではないかと思う。その正面を捉えた貴重な写真を『建築士から見た…>懐古写真館>丸石ビルディング』と、同じく『丸石ビルディング』で見ることができる。見る人が見ればそこに写っている車でだいたいの撮影年が解りそうだ。また、別館が建つまではビルの前にいろいろな店の仮店舗が置かれたのかもしれない。


左上:1986(昭和61)年12月30日
左下:2006(平成18)年10月28日

ビルの北側の玄関である。現在は下の写真のように壁もレリーフもきれいに洗われている。『都市の記録>丸石ビルディング』によると、玄関両脇の獅子像はビルの裏側、竜閑川に向いたほうに4体が置かれていた。口から雨水を川に向かって吐き出していたそうだ。北側玄関に置かれるようになったのは1994年から。それまで、ビルの裏に置かれていたのなら、ぜひとも見て見たかった。

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堀井ビル
千代田区鍛冶町2-3
1986(昭和61)年6月22日(2枚とも)

中央通りの今川橋交差点のすぐ北に神田消防署鍛冶町出張所がある。その消防署を挟んで立っていた2棟のビルの写真である。
「ホリイ株式会社」の堀井ビルは『日本近代建築総覧』に「堀井謄写堂、建設年:S4、設計者・施工者:宮内初太郎、構造顧問大沢邦吉」で載っている。この建物が登録されるなら佐竹ビル児島ビルも……と言いたくなるような、なんでもないビルに思われるのだが。
宮内初太郎の名前は、ぼくは知らなかったがネット検索すると西神田カトリック教会などかなりの数の教会の施工者として出てくる。そういう著名な人の設計だから『日本近代建築総覧』に載ったということなのだろうか?
ホリイは旧・堀井謄写堂で、創業1894(明治27)年の老舗だったが2002年9月に倒産した。謄写版、つまりガリ版はぼくの世代ならほとんどの人が実際に使ったことがあるものだ。


今川橋ビル
建てられたのが戦前だか戦後だか微妙な外観だ。
ビルの1階右は高野理化硝子の店舗。理化学や医療用の硝子機器を販売している。

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