ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



小川タイル店
千代田区内神田1-2
1985(昭和60)年頃

外堀通りと本郷通りが始まる神田橋交差点そばにあった小川タイル店の建物。撮った写真はこの1枚だけで、建物全体を写した写真がないのは残念だ。撮影日も不明。現在の10階建ての小川ビルは1987年4月の竣工なので、その2年位前に撮ったらしい。
『総覧』では「小川タイル店、内神田1-2-2、建築年=1928(昭和3)年、構造=RC・3階建、設計・施工=清水組」である。小川タイルという会社はネットでは探せなかった。たぶん廃業してビル運用に転業したかと思う。
『INAXライブミュージアム>テラコッタ』には「大手タイル問屋」とあって、建物1階上の帯状のテラコッタの装飾がよく分かる写真が出ている。同ミュージアムの 収蔵品にある、やはり伊奈製陶が製作したテラコッタはどこに使われていたのか判らない。

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料亭大松
市川市市川1-26
2007(平成19)年4月8日

京成線市川真間駅の南、千葉街道までの間に3軒の料亭があって、いまでも市川の花街を形成している。戦前は国府台に野砲兵連隊などの部隊が駐屯していて、それを背景に成立した。2008年では「市川二業組合見番」に芸者6名が登録されているという。
国府台は今では千葉商科大学などの学校、総合グラウンド、国立国府台病院などになっているが、戦前はそれらが陸軍の施設で占められていた。今では石碑も含めて10件程度の痕跡しかないようだが、探しにいってみようかと思っている。
料亭大松の入口は市川真間駅の向かいの細い路地を入ったところが入口の門で、写真はその路地の奥、地蔵山墓地から撮っている。ブロック塀の切れたところがその入口。写真に写っている建物がそれかどうか分からないが、大松では昭和2年に建てたものを今も使っている。写真右に「松花堂」の看板があるが、大松の支店である。この路地は 『市川の路地を楽しむ』に紹介されている。それを見ると手前の屋根が架かっている下を右に通じていて、市川真間駅から千葉街道へ出る道路に出られる。



平屋の民家。市川1-25。2003(平成15)年11月19日

市川真間駅南口のすぐ向かいを千葉街道に通じている道路がある。市川1丁目と新田5丁目の境になっている。その道路に面した古そうな民家。右写真の黄色い壁の家はスナックかなにかだったものだろうか。同じ写真で平屋の家の手前のほうは床屋だったような造りだ。

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自然幼稚園。千葉県市川市市川1-24。2007(平成19)年4月8日

国道15号線(千葉街道)に面する市川西消防署の裏にある自然幼稚園の別館。住宅だった建物に見える。この辺りは戦前からの住宅地・別荘地でお屋敷と言っていい大きい敷地の住居が多くあった。そういう家のひとつかと思われる。あるいは料亭だった建物だろうか。最近では幼稚園でも茶道などの日本のお稽古事もやるところがあるから、そういうのに使われているのかもしれない。




シゼンヨーチエン』によると、創設者の石田締は同志社大を出て、市川三本松教会(当時の名称は「日本基督同胞教会市川講義所」といったらしい)で牧師をしたことがある人。現在の教会は幼稚園のすぐそばにあるが、現在地には江戸川近くから1941年に移ってきているので、幼稚園を教会のすぐそばに建てたというわけではない。HPでは開園の地を「「地蔵山」と呼ばれる松林の中、掘れば掘るほど綺麗な砂の出てくる土地」としている。
総武線の線路に沿って、その北側は「市川砂州」という砂州が東西に伸びていて、千葉街道と京成線はその微高地の上を走っている。この砂州と北の北総台地の西端、国府台との間は低地で、太古の「真間の入江」だったところだ。自然幼稚園のすぐ北に「地蔵山墓地」がある。この墓地は周囲より1mほど高い砂山で松林にもなっていて昔の地形をよく残している。

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自然幼稚園。千葉県市川市市川1-24。2007(平成19)年4月8日

国道14号線(千葉街道)の市川西消防署の脇の路地を入ったところにある。上の写真は千葉街道のほうから撮ったもの、下の写真は奥へ入って振り返って撮った写真。建物の正面は奥のほうだ。建物の正面の後ろ側は(上の写真右奥)は児童公園でさらに後ろに松林がみえるがそこが地蔵山墓地。この路地はストリートビューで見ることが出来る。こんな場所までグーグルマップの撮影車が入っているのかと感心するが、ここに出した2枚の写真と同じものがストリートビューでも見られる。
千葉県の近代産業遺跡』によると、自然幼稚園の創立は昭和6年のことで、写真の園舎は昭和15年に園児の増加にともなって建設された。



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矢野酒店。千葉県市川市市川1-26。2004(平成16)年4月29日

京成線市川真間駅から国道14号までの「真間駅前通り商店街」の中では唯一の古い建物が矢野酒店といっていいと思う。矢野酒店は昭和初年の創業のようなので、建物もそのときからのものかもしれない。



裏の駐車場から矢野酒店の裏側が見える。2003(平成15)年11月19日


春花堂
2006(平成18)年2月11日

写真右端のビルはユタカビルというがその1階に春花堂という古書店がある。入ったことはないのだが『 市川の路地を楽しむ 私のお気に入り』などを見て気になっている。

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石黒の飴。千葉県市川市市川1-24。2007(平成19)年4月8日

手前の通りは国道14号線、通称千葉街道で、JR市川駅前の交差点の東、京成線の市川真間駅へ行く通りとの交差点である。この入口から市川真間駅までが「真間駅前通り」という。角に古そうな棟割の店舗がある。戦後の、たぶん昭和20年代に建ったものではないかと思う。
赤松ホーム企画の後ろが「石黒の飴」という店。この店についてはなにも知らなかったが、ネットで当たってみて、有名な店だと知った。ガラスの蓋をした木枠ケース(番重)に手作りの飴を入れてあって、量り売りするという昔のままの商売をしている。昭和初期に東京下町の石黒本店から暖簾分けをして開店、戦後この場所に移ったという。昨年4月で閉店してしまった。
2階に三本松歯科がある。千葉街道の名所だった三本松にちなむ名前だ。



2004(平成16)年4月29日

参考ネット: 『ロハス気分>昔なつかしい手づくりの『石黒の飴』


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東京海洋大学第二観測台。江東区越中島2-1。2007(平成19)年6月2日

第一観測台と同じ、1903(明治36)年に建設された煉瓦造の建物で設計者は三橋(みつはし)四郎。
解説板によると「子午儀室」の名称を添えて「内部には子午儀(Transit)を備え、天体の子午線通過時刻を精密に測定して正確な経度の測定をすること、およびその時の天体の高度から経緯を測定することが出来た。」とある。第二観測台は第一観測台と同じ8角形の平面で建坪も同じ8坪6合であり、ほぼ同様の造りと思われる。入口左の窓が1段高い位置に開けられている。この窓は屋根に開けられていたスリットにつながっていたはずで、観測用の窓だったものだ。この窓の方向が正確に南の方角である。
設計者の三橋四郎は明治30年代から大正初年に活躍した著名な建築家で、関根要太郎が三橋設計事務所に入所していたので 『関根要太郎研究室@はこだて>三橋四郎』に三橋の業績等が詳しく載っている。

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東京海洋大学第一観測台
江東区越中島2-1
2007(平成19)年6月2 日

東京海洋大学の清澄通りに沿ったほうに2棟の天体観測所の遺構が残されている。1903(明治36)年6月に建設された煉瓦造の建物で設計者は三橋(みつはし)四郎。
第一観測台の説明板には「航海用天体歴の研究用および航海天文学教授用として使用された記念建造物で、内部に7吋天体望遠鏡(Theodolite)を備えていた。屋根の半円形ドームは手動で回転し、窓は二重になっていた」とある。建物の名称にも「経緯儀室または赤道儀室」と添えられている。経緯儀とは角度を測る測量機器。赤道義とは、日周運動で動く星の動きに合わせて追尾できるようにした望遠鏡の架台のこと。ある星の見える方向から船の位置の経緯度を計算する、といったものかと想像する。
GPSのある今、天文航法の授業は今もやっているのだろうか?

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東京海洋大学越中島会館。江東区越中島2-1。2007(平成19)年6月2 日

東京商船大学の時代の「2号館」である。1933(昭和8)年の建設、設計=文部省・大蔵省、RC2階建ての建物。水産講習所(東京水産大学の前身)の本館として建ったものだという。古い航空写真を見ると、もともとは2つの中庭を持つ日の字形の平面の建物だったらしい。現在は東と西側の部分がなくなっている。



正面の中央後ろに突き出た部分。手前の広場はかつては中庭だった。

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東京海洋大学先端科学技術研究センター
江東区越中島2-1
2007(平成19)年6月2 日

東京商船大学の事務局管理棟となっている資料が多いと思う。それ以前は図書館にもなっていた。現在は「先端科学技術研究センター」である。1号館と同じく、設計=文部省と大蔵省で、1932(昭和7)年11月の完成。南側の先端を丸くした張り出し部分は船尾をかたどったものだという。

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