ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




神奈川県立博物館(旧横浜正金銀行本店)。神奈川県横浜市中区南仲通5-60
左:2003(平成15)年2月8日、右:1987(昭和62)年8月9日

神奈川県立博物館は横浜正金銀行本店として1904(明治37)年7月に竣工した。設計者は妻木頼黄(つまきよりなか)と遠藤於菟(おと)、施工者は「直営」。構造は煉瓦石造3階地階付。外観はドイツ・ルネサンス様式。
設計業務は1897(明治30)年頃からと思われるが、その当時、妻木は内務省から大蔵省に移転していたらしい。「ドイツ派」の重鎮で実績も積んでいた。国会議事堂の建設に熱を入れていた。「後ろ盾になったのは勝海舟を中心とする旧幕府開明派のグループ―富田鉄之助、目賀田種太郎など―で、横浜正金銀行などの民間の設計はこのグループからの発注だった」(『日本の近代建築』藤森照信著、岩波新書、1993年)。
一方、遠藤は帝国大学を卒業して3年経ち、神奈川県の技師になっている。1898年に横浜正金銀行の技師に転向した。横浜正金銀行本店の建設では現場監督として関わったとされている。この仕事は遠藤にとって貴重な体験になったようだ(『有隣>座談会 近代建築の先駆者 遠藤於菟と横浜(2)』)。

『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版、かもめ文庫、昭和58年、630円)によれば、関東大震災では建物はびくともしなかったが、四周の火が建物中央部の吹き抜けの大営業室の天窓から入り、ドームも崩壊した。その後、屋根を修復してドームがないままで経過する。昭和21年9月、GHQの命令で普通銀行(横浜正金銀行は貿易決済を主な業務とする特殊銀行)に改組を命じられ、12月に東京銀行横浜支店となる。
昭和39年に県が土地・建物を買収し、博物館にする際にドームを復元した(昭和42年)。神奈川県立博物館の開館は昭和43年。
1995(平成7)年に「神奈川県立生命の星・地球博物館」が小田原市に開設し、館の自然科学系の分野をそちらに移した。今は「神奈川県立歴史博物館」という。


神奈川県立博物館(旧横浜正金銀行本店)。1987(昭和62)年8月9日

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亀の子束子西尾商店。北区滝野川6-14
1990(平成2)年1月14日

「株式会社亀の子束子西尾商店」というのが正式な社名である。昭和23年から使っている。初代社長の西尾正左衛門が亀の子束子を発明して、会社を創立したのが明治40年。亀の子束子などはどこにでも転がっているものだから、もう大昔からあったような気になるが、明治年間にはなかったのである。それまでは荒縄を丸めるなどして釜や桶などを洗っていたらしい。亀の子束子は画期的だったわけだ。昭和初期に言われだしたらしい「日本三大発明」のひとつに入っている。
滝野川に本社と工場を移したのは1909(明治42)年という。写真の洋館は「滝野川銀座通り」に面した事務所棟で、その裏手に工場がある。今は敷地の半分以上を貸駐車場にしてしまっているので、写真の門扉は取り払われた。1922(大正11)年に建てられた木造2階建ての建物。東京ではもうほとんどない関東大震災前の貴重な建物だ。

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左:吉成商店、北区滝野川6-9。右:榎本家、滝野川6-11。1990(平成2)年1月14日

二軒長屋の銅板葺き洋風の看板建築があったのは旧中山道の「滝野川銀座通り」で、明治通りの掘割交差点から入ってすぐのところ。長屋の左が商売の内容は判らないが「吉成商店」。現在は「第二三恵コーポ」(2008年3月築、4階建)という小さなマンションに替わっている。
「榎本家」は吉成商店の並び、100mほど北へいったところにあった。写真はもう少し引いた位置から建物全体を撮ればいいのに、我がことながら理解に苦しむ。幸い『東京―昭和の記憶―』の「中山道 西巣鴨~板橋>2頁」に写真がある。2006年撮影の写真もあり、その時点では残っていたと判る。現在は「日神パレスステージ板橋滝野川」(2012年3月築、8階建54戸)というマンションが建った。
滝野川探検隊>種屋街道』によると、大正初期の建築で瀬戸物店だったという。

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霞ヶ関信用組合滝野川支店。北区滝野川6-8。1990(平成2)年1月14日

明治通り掘割交差点の角にあった銀行建築。『歩きたくなるまち東京都北区>東京三菱銀行滝野川支店旧店舗』によると、昭和3年に「川崎銀行滝野川出張所」として建てられた。川崎銀行は三菱銀行になり、建物も三菱銀行として営業したようである。いつから霞ヶ関信用組合になったのか分からないが、霞ヶ関信用組合の創立は昭和31年なので、あるいはその時からだろうか? 平成5年に三菱銀行に吸収された。写真ではすでに空家だ。
滝野川探検隊>種屋街道』によると、建物は昭和60年まで使われていて、解体されたのは平成16年3月という。20年近く写真の状態のまま放置されていたのだろうか?



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松沢たばこ店。豊島区西巣鴨3-19。1987(昭和62)年2月15日

明治通りの掘割交差点の東北側の街並み。写真右の松沢商店の右が欠けてしまっているが、この店は交差点の角にある。『東京―昭和の記憶―』の「中山道 西巣鴨~板橋 2ページ目」に、交差点の東南角の「自転車サービス商会」の古い建物を撮った写真があって、そこに松沢商店の角の部分も写っている。
写真左の出桁造りの3軒の商家は、「ヴェルドミール西巣鴨」(1992年2月築、11階建38戸)というマンションになっている。その裏に写っているビルは「大正大学1号館(本部棟)」。

「掘割」という交差点名が気になる。これは交差点のすぐ南にある「区立千川上水公園」が関係している。この公園は千川上水の沈殿池があったところ。千川上水は、この北(上流)では旧中山道の南に沿うように微妙に曲がりながら通っている、いかにも流路だったような裏通りがその跡である。
幕末に滝野川村(現在の「醸造試験所跡地公園」)に「大砲製造所」が計画され、その動力用に水を持ってくるために、千川上水から水路を掘った。それが「掘割」の地名の由来である。その分流はこの辺りでは明治通りに沿っていたらしい。水なら石神井川から汲み上げればいいではないか、といえそうだがポンプなどはなかったのである。

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北田商店(大黒煎餅)。豊島区西巣鴨3-19
1987(昭和62)年2月15日

旧中山道の庚申塚通りが明治通りに出る掘割交差点の近くあった商家。
豊島区立郷土資料館>かたりべ(資料館だより)』の45号に、店の歴史が記されている。北田商店は1995年の大晦日に、常連客に惜しまれながら閉店した。その際、郷土資料館に多量の資料を寄贈し、1996年に「特別展・大黒煎餅の歴史」として展示した。
そのサイトには「北田商店は、石川県出身の〈店主の〉父権次氏(明治31年生まれ)が、佐野屋(小石川区の煎餅屋)に奉公後、大正11年(1922年)に独立して高岩寺(通称とげぬき地)近くの家を創業したのに始まります。現在地に移転したのが大正12年。昭和5年(1930年)には3階建てのいわゆる「看板建築」(幅2間半)の店舗兼製造所を構えました。」とある。
写真では建物上部が反射光で白く飛んでしまっているが、銅板の壁や戸袋は1階部分のようにほとんど黒に近い色だったのだろう。3階はベランダの後ろにあるのだろうか。『東京―昭和の記憶―中山道 西巣鴨~板橋>』に1983年撮影の写真がある。
写真左の「TOTO」の看板の家は「遠藤管工」で、建物はビルに替わったが「TOTO」の看板が同じ位置に架かっている。その左に、たぶん戦後に建てられたと思われる看板建築が残っている。「パチンコ天国」だった家。

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理髪店カライ。豊島区西巣鴨3-18。1987(昭和62)年2月15日

写真の通りは「庚申塚通り」で、有名な「巣鴨地蔵通り商店街」の北に続く旧中山道である。「庚申塚商栄会」の街灯が並ぶ商店街で、庚申塚交差点(都電荒川線の少し南にある)から明治通りとの掘割交差点までの500mの範囲。2棟の四軒長屋が並んでいる旧道らしい景観は、今もあまり変わらない。長屋の1軒がビルに建て替えたのと、写真奥の長屋の1軒がなくなって三軒長屋になっただけだ。
写真右端は「アッシャゴ」といピザ店。今も営業している店で、建物は二軒長屋を看板建築風にしたもの。写真左奥に行くと「東京種苗」の出桁造りの商家が残っている。また奥の四軒長屋の向かいの「堀商店(食料品)」と「とり福(居酒屋)」も昔からの建物。勿論、このように古い家が固まって残っているのは珍しい。
理髪店カライは2階を増築して看板建築風に改装しいている。



新井米穀店、伊勢屋紙店。西巣鴨3-19。1990(平成2)年1月14日

1枚目写真の奥の四軒長屋。伊勢屋紙店は2軒分を使っている。新井米穀店の分は取り壊されて、現在は三軒長屋になってしまった。空家に見える1軒は、昭和49年の地図では「堤食品」。

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名倉荘。墨田区京島1-22。2010(平成22)5月6日

曳舟たから通りの、京島二丁目交差点(四ツ目通りと交わる)の1本北の横町を西へ入った所にモルタル壁のアパートがあった。1階は町工場のような造りだから、そこはなにかの製作所だったようだ。写真右の4階建てのマンションは「寺島精機マンション」。以前は「寺島精機」という会社の工場があった。
現在は寺島精機マンションと共に「アーデル曳舟パークビュータワー」(2012年8月築、7階建28戸)というマンションに建て替わっている。
写真手前はたから通りと平行な路地との四つ角。そこを北へ行くと80m程で右へ曲がり、たから通りへ出る。南へ行くとクランク状に曲がって四ツ目通りへ出る。道筋が微妙に曲がっていて、川の跡かと疑われる。



きそば旭屋。京島1-22。2016(平成28)年6月12日

1枚目写真の横町を左奥へ行くとたから通りの旧道に出る。その角に古い家があり、やはり永くやっているそば屋がある。ネットで見ると、メニューがほとんど定食屋のようである。そばじゃ足りないという人でも大丈夫だ。

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奥村電機。墨田区京島2-26
2013(平成25)年4月11日

曳舟たから通りは十間橋通りとの交差点(たから十間橋交差点)のすぐ北で、たから通りとほぼ平行にその南を通ってきた旧道と合わさる。写真はその旧道で、写真奥でたから通りに出る。古い三軒長屋が残っている。その真ん中が「奥村電機」と「CORONA」の看板を出している。電話帳では冷暖房設備工事の会社らしい。その両側は住居だ。
三軒長屋の左の白い看板建築風の家は、今は住居のようだ。その左は駐車場だが、1964年の住宅地図ではそこが「昌和シネマ」。映画館だとは思えないが気になる。

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中村洋傘雨衣店。墨田区京島2-27。2013(平成25)年4月11日

キラキラ橘商店街の南端、東武亀戸線の踏切際に建つ三軒長屋。左と真ん中の2軒が「新友寿し」のようだが、この店はネットには出てこないので営業はしていないのだろう。「中村洋傘雨衣店」は閉店して久しい感じだ。看板には「各種祝額調製」とも書いてある。店主は趣味で絵を描いていたのかもしれない。この店の線路に向いたトタンの壁に傘のマークが付いている(Kai-Wai 散策>カサツキトタン家)。
踏切りの東側、三軒長屋の横になるが、「十間橋通駅」があった。1945年5月に使われなくなり、1946年12月に廃止されている。
三軒長屋の左は路地が入り、その左は現在「京島まちづくり事業用地」の空地。その空地のさらに左は真新しい住宅が3軒並んでいる。その住宅になったところには、以前、四軒長屋があった。『 Kai-Wai 散策>陽炎町京島 (8)』に記録されている。1985年の地図では「イナデンキ、八千代クリーニング、住居、どか弁」。

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