ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



地下鉄雷門ビル。台東区浅草1-1
1988(昭和63)年5月1日

地下鉄浅草駅の雷門通りの出入り口があるビル。東京地下鉄道(会社名、現・東京メトロ)が1929(昭和4)年に建てて地下鉄食堂を営業した。『消えた建築>営団雷門ビル』によれば、「設計者:東京地下鉄道工務課/解体年:平成 18年3月…営団の事務関係が入っていたようです。(忘れ物取り扱い所も入っていました)」。建て替わったビルはGoogle地図では「東京メトロ浅草駅事務室お忘れ物取扱所」で、用途は変わっていない。そのサイトでは建物名称は「営団雷門ビル」だが、1986年の住宅地図では「地下鉄ビル」。「雷門ビル」と言われることが多かったようだ。
『帝都復興せり!』(松葉一清著、平凡社、1988年、2400円)に、『東京地下鉄道史』(昭和9年)によるとして、開通当時(上野-浅草間の開業は1927(昭和2)年12月30日)の地下鉄は人気がなく経営状態を改善しようと、関西の小林一三の方式に習って、本業とは別に食堂を営んだという。建設当時の地下鉄食堂の写真はネットでも見ることができる。『帝都復興せり!』ではその外観を「最も大衆化された異国情緒」と言っているように奇抜なもので、写真の、装飾をすべて取り去った姿からは想像もつかないようなものだったらしい。
塔屋を隠すように広告塔にしている。『1960年代の東京』(写真=池田信、毎日新聞社、2008年、2800円)の、1964(昭和39)年の写真では塔屋を囲った白い箱の周りにナショナルのマークを取り付け、白い箱に「ラジオ」「テレビ」の文字を置いている。
写真左の商店街の入口の文字は「観音通商店街」。今はそのアーチもアーケドごと改修されたのだろうか、「かんのん通り」の表示だ。1986年の住宅地図では「メトロ通り」。

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神谷ビル(神谷バー)。台東区浅草1-1
上:1988(昭和63)年5月1日
左:1986(昭和61)年10月26日

浅草通りと江戸通り(雷門通り)が交差し、馬道通りが始まる吾妻橋交差点に昔と変わらぬ姿を見せているのが神谷バーのビル。上の写真では右から雷門通り沿いに、神谷ビル、弘隆ビル(大和証券雷門支店)、尾張屋、地下鉄ビル、観音通り入口、浅草タウンホテルと並んでいる。30年経った今も建物では地下鉄ビルが建て替わっただけだ。弘隆ビルはカラオカ店が入って正面はその店の広告を取り付けて別のビルのような外観だ。
神谷バーは『近代建築散歩 東京・横浜編』(小学館、2007年)では、「1921(大正10)年の建設、設計・施工は清水組、RC造4階建て」。『清水組二百年作品集』を見ると、1921年には神谷バーの記載はなく、1939(昭和14)年に「神谷酒場改修(神谷バー)」が出ている。建てたのが清水組なら1921年の方に載せるのが普通だと思うがどんなものだろう。正面のデザインは大正期の建築らしく、なんとなくセセッションを思わせるものがある。あるいは単に「モダン」なのだろうか? 
東武電車の駅を降りてまず見るのは横側なのだが、それがビルの裏側のような感じで残念な景観だ。最初からそんなものだったのかもしれないが、正面と同じタイル貼りにしたらどうだろう。
神谷バーと創業者の神谷傅兵衛については、『浅草の百年 神谷バーと浅草の人びと』(神山圭介著、踏青社、1989年、1500円)という本があるので紹介しておく。

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ヒポポタマス。神奈川県鎌倉市腰越2-13。1992(平成3)年5月3日

腰越通りの神戸橋(ごうどばし)のすぐ東。営業をやめて貸店舗の看板が貼られているが、ヒポポタマスは食品のスーパーだったようだ。建物は健在で読売新聞の販売所になっている。瓦屋根は葺き替えられた。

下の写真の魚屋は、ヒポポタマス(現・読売新聞)の左隣がスリーエフ(コンビニ)で、その隣。今は「ナギ」という魚介料理の「ダイニングバー」。建物はそれらしく改装されている。


鮮魚店。腰越2-12。1992(平成3)年5月3日

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大和屋酒店。神奈川県鎌倉市腰越2-15。1992(平成3)年5月3日

国道134号の小動(こゆるぎ)交差点から腰越通りに入って、神戸橋(ごうどばし)の手前にある酒屋。現在はビルに建て替わっている。
店の裏に江ノ電の腰越駅があり、江ノ電は神戸橋を東へ渡ると腰越通りから離れて、住宅地を走って海岸沿いの国道134号に並ぶ。腰越通りをそのまま走った方が合理的なはずだが、なぜそうならなかったのだろう? 腰越駅の開業は1903(明治36)年だが、当時は小動交差点-神戸橋の間の腰越通りが開通してなかったのだろうか。

下の写真の民家は大和屋から腰越通りを少し東へいったところ。平屋の家の方はGoogle地図では「訪問介護アリンコ」であるが、ストリートビューを見ると玄関も窓もベニヤ板でふさがれている。写真右の二階建ての民家は建て替わった。道路の脇に井戸が写っているが今はつぶしてしまった。


民家。腰越2-5。1992(平成3)年5月3日

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松の湯。神奈川県鎌倉市腰越3-6
1992(平成3)年5月3日

腰越通りの石田電機の向かい側にあった銭湯。今は取り壊された跡が駐車場になっている。
桃猫温泉三昧腰越・江ノ電併用軌道前にあった、銭湯 松の湯(2010.09.07)』に、桃猫氏の1998年の日記からということで、松の湯の内部の様子が記されている。貴重な記録だ。また、建物は昭和28年に建てられたもので「戦後間もない頃のバラック風の木造建築」としている。2003年に廃業したという。

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石田電機。神奈川県鎌倉市腰越3-20。1992(平成3)年5月3日

腰越通りの真ん中あたりで、飲食店もけっこうあってしらす丼が目当てならこの辺りで適当な店を選べそうだ。写真の家は石田電機という会社で、後ろに住居がくっついている。看板建築といってよさそうだが割と近年の改装のように見える。右後ろで外側に出っ張っているのが特徴。その部分の幅は柱一本分にしか見えず、わざわざ窓を設けたことも含めて、見た目を良くするための造作と見える。確かに良くなっている。
中央に写っている街灯は今は取り換えられている。


オーダーのある民家。腰越3-22
1992(平成3)年5月3日

石田電機から東へ少し行った並びにある家。コリント式のオーダーが2本宙吊りになっている。それがなければ割と最近建った住宅としてしまうところだ。オーダーは一階の右側を車庫に改装する際に切り取られたものだろう。その前は左右対称のファサードで、オーダーの間に玄関があったに違いない。喫茶店かブテイックだったとすれば外観と合いそうに思うが、少し凝った装飾を取り付けた住宅としても特に問題なさそうな……。

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湘南魚宇。神奈川県鎌倉市腰越3-15。2013(平成25)年3月14日

星野写真館の向かい側にあった魚屋。広い間口の店だ。江戸期の創業という。店舗の二階は改装したのだか増築したのだろうが、なんとも奇妙である。一階は出桁造りの日本の伝統的な商家の造りだが、二階は近年の看板建築風。
ストリートビュー(2015年10月)を見ると3階建てのマンションに建て替わっている。『空と、海と、江ノ電と。>今は亡き「湘南 魚宇」(2016.01.15)』には「2014.12.31閉店」とあった。



左:甲州屋酒店。腰越3-15。1992(平成3)年5月3日
右:中原町祭典事務所。腰越3-20。2013(平成25)年3月14日

魚宇(現在はマンション)の右がマンションでその右が甲州屋。二階の看板が変わったがその下の「SUNTORY…」の看板が写真のままなので、店の雰囲気は変わった感じはしない。
中原町祭典事務所とした建物は甲州屋から東へ110mのところ。建物名はGoogle地図から。町会事務所だろうか。中原町というのは腰越の中の地名だったようで、小動(こゆるぎ)神社の祭礼などでは、昔の町ごとにまとまるようだ。『江ノ電の駅跡を訪ねあるく その3』によると、江ノ電の開業時(片瀬-行合橋(現七里ヶ浜)間は1903(明治36)年)には「中原」という停留場があったという。少し西へ行った「かねしち魚店」の十字路の辺りだろうとしている。1918(大正7)年に廃止された。

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星野写真館。神奈川県鎌倉市腰越3-14。1992(平成3)年5月3日

その中央を江ノ電が走る腰越の通りを当ブログでは「腰越通り」ということにする。商店街というほど店が並んでいるわけでもないが、「腰越協栄会」が組織され、通りには「腰越」の表示のある街灯が設置されている。近年は商店が住宅やマンションへの建て替えが進んでいる。
腰越といえば魚屋でしらすを買うのが決まりらしいが、それがそれほどのものかと、グルメではないぼくはあまり関心が向かない。それよりも腰越通りでの名所はまず星野写真館だ。『鎌倉市>くらし・環境>お店紹介>星野写真館』で店主が「現在の星野写真館は80年ですが、創業当時より数えれば百年を有に越えます。スタジオそれ自体、生きているタイムカプセルです」と言っているから、建物は1935(昭和10)年に建てられたものらしい。創業は明治末から大正初期の頃だ。写真館の後ろに日本家屋の住居が別棟で建っている。店の正面のデザインが素晴らしい。プロの建築家というわけではないだろうが、本格的にデザインを勉強した人が手掛けたような気がする。



2013(平成25)年3月14日

1992年の写真と比べると正面の壁が白く塗り直されている。あるいはこちらが本来の色で、1992年の写真は壁が汚れていたのと、陰になって本来より黒っぽく写ってしまったようだ。

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片瀬郵便局。神奈川県藤沢市片瀬海岸3-16。1992(平成3)年5月3日

建物全体を1枚に収めた写真がないのは、西日が逆光で建物の正面が黒く写ってしまうのではないかと恐れて撮るのをやめたからだ。フイルムの時代は撮れる枚数に金額的な制限があったから、無駄なカットには使わないように気にかけていたのだ。
観光の名所スポットになってもいいような古典様式の郵便局だ。銀行ではさかんに使われたスタイルだが、郵便局では珍しいのではないか。『神奈川の近代建築探訪>旧片瀬郵便局』によると、昭和5年の建築、木造2階建てではないかと推定している。
郵便局は2006年7月に国道467号沿いの場所に移転し、その後まもなく取り壊されたらしい。
写真の建物は湘南モノレールの湘南江ノ島駅の斜め向かいにあった。その道は東海道の藤沢(遊行寺橋)から別れて江ノ島へ向かう「江の島道」という旧道だという(Shonan Walk > 『湘南の旧街道 > 江の島道』)。郵便局の向かい側の三叉路には「江嶋道道標」の石柱が残っている。

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扇屋和菓子店。神奈川県藤沢市片瀬海岸1-6。1992(平成3)年5月3日

江ノ電が江ノ島駅を出て腰越の道路に入っていく交差点のところにある扇屋は「江ノ電もなか」で有名。TVでもレポーターが建物の中に納まった電車にびっくりして店に入っていくというパターンで時々紹介される。『扇屋』には「創業は天保年間(1840年頃)…店頭の江ノ電は平成2年4月まで実際に使われていたもの」とある。
龍口寺(りゅうこうじ)の門前に参詣客を目当てに開店した店だろう。この辺りが龍口寺の門前町との関係で語られることはほとんどない。龍口寺そのものが、今や忘れられた存在という気がする。龍の口刑場(龍口寺はその跡に建つ)で日蓮が首を切られる瞬間に雷が刀に落ちて刑が中止になった話は誰でも知っているかと思うが、はたして今はどんなものだろう? 『龍口寺』でその話を確認してみたら「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」とあった。雷で発生したプラズマだろうか?
扇屋の木造長屋風の建物はその看板などを含めて、今もほとんど変わっていない。写真右の白い壁の看板建築の長屋は建て替わった。そこのクリーニング店は写真の店が続いているのではないかと思う。



喫茶どる。片瀬海岸1-6。1992(平成3)年5月3日

扇屋の左が洋風の看板建築。今も写真のままで、建物右は空家のようだが、左は「どる」という喫茶店。『食べログ』には創業して43年目とあるから1972年の開店。今は建物の上のたばこの広告がないので、その後ろの壁にある「角半商店」の文字が読める。なんの商売をしていたのだろう。

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