ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




長島家住宅。埼玉県川越市元町1-15。1989(平成元)年9月18日

「蔵造りの町並み」の札の辻交差点のすぐ南で、写真左の棟のガラス戸には「近江物産」の文字が読める(上の写真では黒くつぶれている)。現在は「紋蔵庵(もんぞうあん)」という和菓子店の「蔵の街店」が使っている。
カワゴエール>川越文化財: 長島家住宅』によると、2棟を合体させて防火の効果を上げた蔵造りの建物、という。「左側(北側)の建物は、明治30年代の建築と思われ、元々店舗兼住居。右側(南側)は、大正時代に左側の蔵造り建築に合せて建てられて物で、1階は大正の趣を残す洋風建築となっています。中央の通路は馬出土間で、建物を突っ切り建物裏へと続いています」ということで、右の棟の洋風の造りは後の改装かと思ったが、最初からそのように造ったものらしい。
「市指定有形文化財(建造物)昭和63年6月6日指定」とあるのだが、川越市のHPの一覧表には見当たらない。「創作ちりめん布遊舎」だった頃のストリートビューを見ると、右の棟に「川越市指定文化財/長島家 幸すし乾蔵」という看板が下がっている。「幸すし乾蔵」の由来が気になる。

追記(2022.10.25)
『川越の建物 蔵造り編』(仙波書房、2022年9月、税込2,200円)によると、写真左の「明治蔵」と右の「大正蔵」は、「近常酒造」の建物だった。近常酒造は「近江屋」岡常吉が明治時代初期に始めた酒造会社で、銘柄は「常盤正宗」。2棟の蔵の後に広い「川越南町第一工場」があった。事業は好調で、1924(大正13)年には「観音下」(三光町)に「川越観音下第二工場」を建てる。戦時になって米の入手が困難になると質を落として製造を続けるも、戦後も立ち直ることなく廃業したらしい。

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札の辻交差点角の家。埼玉県川越市元町1-14。1989(平成元)年9月18日

川越の「蔵造りの町並み」はその北端が「札の辻」交差点で、東西の大通りと交わる。江戸時代に高札場だったところから札の辻というわけだが、江戸期にはこの辺りが川越では最も賑わったところなのかもしれない。交差点から東へ向かう「本町通り」は市役所の南を通るが、そこは川越城の西大手門になる。「本町」とは元町(もとまち)の旧町名になるようだ。
写真は交差点の北東角にあった商店だったと思われる家。今は「札の辻ポケットパーク」という小さな公園になっている。
写真左の看板建築は、二階上の壁に「小林商店」と読めるので、小林タバコ店である。建物は今も健在で、「そば工房 蕎花 川越札の辻店」という店になっている。

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新石橋ガード。千代田区鍛冶町2-14。1985(昭和60)年8月4日

神田駅南口交差点から撮った京浜東北線・山手線のガード。神田駅南端のホームの屋根が写っている。神田駅南口交差点は神田金物通りと日銀通り―多町大通りとの交差点で、ガードには名前がついている。神田金物通りのほうが「千代田橋ガード」、多町大通りのほうが「新石橋(しんこくばし)ガード」。ガードの上の高架橋は「新石橋架道橋」「千代田橋架道橋」で、煉瓦の壁にそれらの表札が貼ってある。
山手線が渡る橋・くぐる橋>神田→東京』は架道橋や高架駅の歴史や構造を考察した労作で、そこには「6.新石橋架道橋」「7.新石町橋高架橋」「8.千代田橋架道橋」もあり、古写真も見られる。
上の写真では分かりにくいので、最近のストリービューからの画像を下に示す。左が千代田橋ガード、右へ行く方が新石橋ガード。現在は手前に東北新幹線のガードができているが、京浜東北線・山手線のガードの雰囲気はほとんど変わっていない。「よねこ」の看板が見えるが、上の写真でも同じ位置に「小料理よね子」の暖簾が写っている。この店は1969年の住宅地図に載っている。同じ店主で続いているのだろうか?


ストリートビュー(2019年6月)より


美容室ヌーボー。鍛冶町1-4
1985(昭和60)年8月4日

写真手前の方に行くと、山手線の「西今川橋架道橋」のガードになる通りで、写真左のブロック塀は日銀通りとの角にある。その、小さな空地を囲っているブロック塀は今もそのまま。
建物全体を撮らなかったのが残念だ。昭和30・40年頃には、銀座なんかではよく見られたデザインの店舗だったと思うが、今はほとんど見ることができない。

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山梨中央銀行東京支店。千代田区鍛冶町1-6。1985(昭和60)年8月4日

中央通りの今川橋交差点のすぐ南に、山梨中央銀行(本店は甲府市、山梨県では唯一の地方銀行)の東京支店がある。『千代田区>景観まちづくり重要物件指定一覧表>』によると、「設計者=不詳、竣工=昭和4年(1929)」であるが、いろいろのサイトでは徳永庸の設計で、竣工年は1931年としているのが多い。『一覧表』には、「昭和16年(1941)に「第十」「有信」の2銀行が合併し「山梨中央銀行」が誕生した。現在の山梨中央銀行東京支店は、第十銀行時代からの建物を使用している」とあり、「意匠・構造の特徴」として「第一層基壇部の上に、古典主義オーダーを模した柱列を並べたファサードを載せた、昭和前半期の支店銀行建築の典型。凝ったディテールはないが、手堅くまとめたプロポーションと納まりの処理に手腕が感じられ、近代的なスマートさも感じられる秀作。大理石貼りのカウンターや床のタイルは、ほぼ竣工当時のままである。1 階営業室の天井 は 2 階分の高さまである」としている。
ぼくは今見られる外観は竣工時からあまり変わっていないのだろうと思っていたから、古典様式を簡略したデザインで、戦前に建てられたとしても昭和10年代かと考えていた。ところが『峡陽文庫>第十銀行 東京支店』に竣工時の写真が載っていて、それを見て驚いた。前面の4本の四角い柱は、竣工時は半円柱ではあるがイオニア式の立派なオーダーで、建物横の窓もひとつひとつ額縁に納めたような古典的なものだ。古くて権威主義的に見えるのを嫌って、軽快に見えるように改修したのだろう。

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松よし、アルス美容室。千代田区神田鍛冶町3-7。2007(平成19)年1月4日

JR神田駅北口から神田警察通りを越えて、北へ向かう通りで、中央通りの1本西の裏通りになる。写真の3階建てのアパート風の建物は今もまだ残っている。ただし今は、「松よし」も「パーマ」(アルス美容室)の看板はなくなって空家になってしまったようだ。写真右の床屋のポールは「ムラタ理髪店」で、ファサードが異なるが松よしの建物がそこまで続いているのかもしれない。
戦後の建築と思っていたが、昭和22年の航空写真に写っていて、写真手前の横側3階の壁に石積み風に加工したトタンだか銅板が見られる。戦前に建てられたものなのだろうか?
アルス美容室は昭和30年頃の火保図に「アルスパーマ」で載っている古い店だ。ムラタ理髪店の以前の店は、下の写真のように「ハナザキ」の看板があった。昭和30年頃の火保図に「花崎テーラー」とある。




上:神田鉄砲店。1988(昭和63)年8月15日
左:歌舞伎家。2007(平成19)年1月4日
神田鍛冶町3-7

上写真の「神田鉄砲店」の建物は左写真の「石川ビル」に建替わって神田鉄砲店はその2階に移った。そのビルは2018年に再度建替えられて「天翔神田駅前ビル」になった。石川ビルの左、ムラタ理髪店の間が1間ほどの隙間があるのだが、その地所を手に入れたので床面積を少し広くできて階数も増やしたビルに建替えた、という事情かと思う。
石川ビルの右に、アルス美容室の建物と同じような感じの、3階建てのアパート型の建物がある。石川ビルが解体されていた時期のストリートビューで建物横を見ると、元は片流れ屋根の3階建てで、平らな屋根の4階を増築し、さらに中央部分だけだが4階までも増築している。
建物の1階中央にショーウインドーがあり、その右のガラス戸に「かぶきや」と書かれている。1986年の地図では「歌舞伎家」で、いったいなんなのか分からない。招き猫や三味線(SVで見られる)が置かれたショーウインドーからの連想で古物商あたりが思い浮かぶが……。『東京冒険記>神田歓楽カオスタウン「神田鍛冶町」』で知ったのだが、入り口の右に土肥晩翠の「荒城の月」の石碑の銘板が立てかけてある。どこから回ってきたものなのだろう?
かぶきやの建物は2017年頃に取り壊されて今は駐車場になっている。

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アサミ電工、西京屋。文京区本駒込6-14。1988(昭和63)年11月3日

前の通りは不忍通りで、東洋文庫の向かい側。写真の一画だけ、空襲からの焼失を免れていた。北の六義園と、南の東洋文庫や昭和小学校のRC造の建物が延焼を食い止めたのだろう。
銅板貼り看板建築の二軒長屋の左が「アサミ電工」。看板に「ネオン|電飾|看板|鉄骨」とあり、1977年の地図では「山手ネオン製作所」という社名。
写真右手の二軒長屋は、1986年の地図では「西京屋」としている。2009年11月のストリートビューでは、建物はまだ残っていて「㈲穂積屋添田商店」と硝子戸に書かれている。西京屋も添田商店も事業の内容は不明。
後ろに写っているビルは左から、ハイツ駒込、東京書籍第二ビル、イトーピア六義園マンション。現在はイトーピア六義園(10階建141戸、1979年11月築)が健在。

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理化学研究所の門。文京区本駒込2-28。1988(昭和63)年11月3日

不忍通りの科研前交差点(現・文京グリーンコート前交差点)のところにあった理化学研究所の門。門の表札は「科研製薬株式会社」。1998年に竣工した文京グリーンコートの建設時に撤去されたと思われる。
『ウイキペディア』によると、理化学研究所(理研)は、1917年(大正6年)に創設された物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う、日本国内では唯一の自然科学系総合研究所。戦前は理研コンツェルンと呼ばれる企業グループ(十五大財閥の一つ)を形成したが、太平洋戦争の終結と共にGHQによって解体された。1948年(昭和23年)、「株式会社科学研究所」が発足した。1952年(昭和27年)、「株式会社科学研究所(新社)」を設立。旧社は「科研化学株式会社」に改称し、純民間企業となる。これがのちの「科研製薬株式会社」。さらに、1958年(昭和33年)に特殊法人「理化学研究所」が新たに発足している。これが2015年(平成27年)に「国立研究開発法人理化学研究所」と名称変更した。どうもよく分からないが、一応書き写しておいた。
『日本近代建築総覧』には「科研化学K.K.一号館(旧理化学研究所・科学本館)、大正10年、煉瓦造3階建」「同二号館(旧理化学研究所・物理実験室)、大正10年、RC造4階建」「同五号館(旧理化学研究所・機関室)、大正10年、煉瓦造1階建」が載っている。門を撮影したときには、それらの建物はすでに新しい建物に替わっていたと思われるが、写真の門も大正10年に造られたのだろう。
科研製薬の前の不忍通りを江戸川橋―須田町の20番の都電が走っていた。『セピア色の道>都電20系統 上富士前』に、科研化学の前を行く電車を撮った写真(2枚目)が載っていて、科研化学のコンクリート塀が写っている。1枚目写真のレンガ塀は東洋文庫のものだろう。


『大東京写真案内』(博文館新社、1990年、2800円。昭和8年『大東京寫眞案内』を復刻)より
説明文は「理化學研究所 上富士(かみふじ)前にあり、その規模の大きい事はドイツのカイゼルウイルヘルム研究所やアメリカのカーネギー研究所に次ぐ物と云われ、東洋は勿論世界的に其の名を知られている。研究所員數百名、ヴイタミン劑や理研酒の醸造も此処に行はれ、近くに内務省所屬の榮養研究所がある。」

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大塚ビル。豊島区北大塚1-16
2006(平成18)年12月6日

JR大塚駅北口の東、山手線と都電荒川線の線路に挟まれるような位置にあったビル。2018年に取り壊され、現在は22階建てのタワーマンション(216戸―内126戸はワンルーム―と店舗)を建設中だ。
大塚ビルは百貨店の「白木屋大塚分店」として1937(昭和12)年10月に竣工した。RC造6階地下1階で、設計は石本喜久治、施工は清水組。当時は池袋より大塚の方が発展性があると考える向きもあったらしい。「旧店を建て替え」というサイトがあるのでその店舗をビル化したのだろうか? 
都市商業研究所>大塚ビル』によると、白木屋大塚分店は1948(昭和23)年に閉店、1956(昭和31)年に浜松市の百貨店「松菱」の系列店(松菱ストアー)となったのち、1959(昭和34)年からは雑居ビルとして使われている」。
分離派建築博物館-石本喜久治―』と『収蔵庫・壱號館>旧・白木屋大塚分店(現・大塚ビル)』には、石本喜久治設計の日本橋の「白木屋百貨店」「大森白木劇場」が取り上げられている。『収蔵庫・壱號館』のほうには大塚分店の元の外壁のタイル張りの写真が載っている。その剥落防止のために黒っぽいアルミパネルで覆ったのは昭和40年代という。
大塚ビルの管理会社のかたがビルの歴史に関心があり、資料を集め、調査もしてきたようである。サイト内の「大塚ビル探訪記(2007年1月)」には「私は地下1階のビル管理室に案内された。……ここは戦時中の空襲で犠牲者を余儀なくされた場所であり供養の気持ちが常に示されているのである」という個所がある。昭和20年4月13日の空襲で白木屋の地下に逃げ込んだ人が多数いて、ビルの内部に火が入ったため焼け死んだのである。


大塚ビル北側。2006(平成18)年12月6日

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東京高圧工業。文京区西片2-15
上:1988(昭和63)年10月10日
左:同年3月13日

中山道(国道17号)の誠之小学校前交差点(左上の信号)から西北方向を撮った写真。1986(昭和61)年の住宅地図では左から「N家、K家、東京高圧、ヤマト徽章、明光照明、八木硝子、中村洋服」。煙突は「鏡湯」。1974(昭和49)の地図では「バーバーウテナ、林かさ店、東京高圧工業、新薬レディプレス、KZ家、KS家、中村洋服」という記載。
東京高圧の建物は外観をルネッサンス様式で造った看板建築に見える。ところが昔の航空写真を見ると、パラペットが建物平面の四周を囲んでいるように見え、屋根も平らなように見える。コンクリート造の可能性が出てきた。正面だけでなく左右の横の面もペディメントの飾りを付けた窓を並べている。本格的な洋館なのかもしれない。
看板の「フルガッソン減速機/東圧バリモーター」は商品のことらしく、ガラス戸に「東京高圧工」「業株式会社」と書かれている。
東京-昭和の記憶>中山道 本郷追分~白山上』に、1988年1月と2004年4月撮影の写真が載っている。現在は「アリス西片メゾン」(3階建6戸、2005年3月築)に替わっているから、東京高圧は2004年中に取り壊されたのだろう。



ふみのや食堂。西片2-15。1988(昭和63)年10月10日

1枚目の写真の右に続く家並み。写真左の「テーラ中村」を含む3軒が三軒長屋である。写真右の横丁が西片2丁目と白山1丁目との境になっている。角の家は「定食 ふみのや食堂」と「バー 應」の看板が出ている。「とん平」も同じ建物の横にある居酒屋だろう。この3店は1974(昭和49)の地図でもそのままだ。
640.東京都文京区西片2丁目15 R17号沿い』によると、ふみのや食堂は2005年8月末で閉店したという。2006年2月の写真があり、その写真ではテーラ中村の長屋は取り壊されている。

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佐原三菱館。千葉県香取市佐原イ1903。2003(平成15)年7月20日

「佐原三菱館」という名称はわりと最近ついたような感じもするが、便利なので最初からこの名称を使うことにする。
千葉県>千葉県教育委員会>三菱銀行佐原支店旧本館』によると、佐原三菱館は1914(大正3)年に「川崎銀行佐原支店」として建設された。「当時の建築設計図には、清水満之助本店(現在の清水建設)技術部の設計になることが記されている」。建物構造と外観の特色は「煉瓦造2階建て、木骨銅板葺屋根の明治時代の洋風レンガ建築の流れをくんでいる。内部は吹き抜けで、2階周囲には回廊がある。正面右隅に造られた入口はルネサンス風の外観で、この区画の頂上にはドームが付けられており、建物全体の景観にアクセントが与えられている。全体のデザインは、ルネサンス様式で、レンガと花崗岩で構成される特徴的な外観の建物である」としている。
川崎銀行は佐原三菱館建設に先立って、1880(明治13)年に「佐原出張所」を開設している。川崎銀行設立と同時らしく、千葉県内の支店(千葉と水戸)に次ぐ重要な都市として佐原を見ていたということだろう。1898(明治31)年に支店に昇格した。以降、「川崎第百銀行」(1927年)、「第百銀行」(1936年)と改称、1943年には三菱銀行に吸収された。1989(平成元)年、新店舗(現・佐原町並み交流館)が完成し、佐原三菱館は佐原市に寄贈された。
『佐原三菱館建設100周年を迎えて』というパンフレットが、『 NPO法人 小野川と佐原の町並みを考える会>保存活動>町並み保存資料集>』のサイトで見ることができる。そこに「煉瓦と花崗岩で構成する「辰野式」の意匠」とある。言われればそうなのかな、という感じではある。清水満之助本店技術部の技師長は田辺淳吉(1903年東京帝国大学工科大学卒)で、田辺は辰野金吾の関与により、高岡共立銀行(現富山銀行本店)を設計している。その田辺の指導で設計担当の大友弘が設計したのではないか、という推測である。

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