ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




帝蚕(ていさん)倉庫(現北仲BRICK)。神奈川県横浜市中区北仲通5。1987(昭和62)年8月9日

北仲通の再開発では旧生糸検査所の建物のうちでは倉庫1棟と写真の倉庫事務所が残されることになった。生糸検査所と同じ、設計=遠藤於菟、施工=大林組、竣工=1926(大正15)年である。写真手前の門は横浜農林水産合同庁舎の裏門だろう。守衛小屋がある。写真左奥は帝蚕ビル。
帝蚕倉庫のHPによると、帝蚕倉庫株式会社は「帝国蚕糸倉庫株式会社」の社名で1926(大正15)年4月に設立され、7月に「北仲通本庫(A~D)で営業開始」とある。北仲通本庫が生糸検査所の4棟の倉庫で、検査所の竣工に伴って出入庫管理などをする会社として設立されたのが帝蚕倉庫なのだろう。1928(昭和3)年には帝蚕ビルを建てている。



1枚目写真の左奥のほうから。1991(平成3)年7月28日

写真右奥に見えていた旧生糸検査所のビルが解体されている。写真左奥はA倉庫らしい。倉庫事務所の建物は帝蚕倉庫では「北仲営業所倉庫」。

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横浜農林水産合同庁舎(旧横浜生糸検査所)。神奈川県横浜市中区北仲通5
左:1987(昭和62)年8月9日、右:1991(平成3)年7月28日

現在「横浜第2合同庁舎」として高層ビルの前面に旧生糸検査所の建物が復元されている。当ブログでは元の建物の写真を載せているが、どうもいい写真がない。頭注のレリーフが失われている状態であること、また鉄柵に造りかえられたコンクリートの塀と門柱が写っている。右写真は正面から見て右側の部分だが、左の部分はすでに解体されてしまっている。
生糸検査所は設計=遠藤於菟、施工=大林組、竣工=1926(大正15)年。
昭和初期までは横浜港からの輸出品の7~8割が生糸だった。関東大震災で壊滅した生糸の保管検査施設を建て直す際、検査所の大建築と4棟の倉庫は当然視されたのだろう。ところが世界恐慌に人絹(レーヨン)の進出、神戸港での業務開始などで、生糸の輸出は縮小していったようだ。



南側の横面。写真左端に保存が決定した倉庫事務所。1987(昭和62)年8月9日

大震災前は、生糸検査所は日本大通9、現在の横浜地方検庁のところにあった。その建物も遠藤於菟の設計で、1918(大正7)年に清水組の施工で竣工したRC構造の3階建てのビルである。そのビルが倒壊を免れて大震災後は横浜地方検庁として使われてきた。『横浜地方検察庁沿革』で、大震災直後、昭和27年、昭和56年の建物の写真が見られる。解体されたのは昭和57年頃だろう。このビルが北仲通に建てられた建物とよく似ているように思う。短期間で建設するために、このビルのデザインが北仲通のビルに一部援用されたように思える。



1987(昭和62)年8月9日

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横浜銀行本店別館。神奈川県横浜市中区本町5。1987(昭和62)年8月9日

本町5-46にあって、横浜銀行として使われていたときの写真である。銀行の店舗は写真の後ろのビルにあったらしく、写真の建物は別館と呼ばれていた。
第一銀行横浜支店として、設計=西村好時、施工=清水組で1929(昭和4)年4月に竣工している。三角形の敷地なので先端を半円にして玄関を並べ、その上は円柱で囲ったバルコニーにしている。贅沢なものだ。西村好時は「1914年(大正3)清水組設計部技師、第一銀行建築課長となり、本店及び支店三十数か所の設計を行なう」と『ウィキペディア』にある。横浜支店が竣工した翌1930(昭和5)年11月には東京丸の内に第一銀行本店が完成する。



本町通りの側。1987(昭和62)年8月9日

第一銀行は1971(昭和46)年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行になる。その翌年、日本不動産銀行がこのビルに移った。日本不動産銀行は1977(昭和52)年10月に日本債権信用銀行と改称。2000年にみずほホールディングスに組み込まれ、2001年1月にあおぞら銀行と改称した。『日本近代建築総覧』は「日本債権信用銀行横浜支店」の名称になっている。1980(昭和55)年、日本債権信用銀行は店舗を新築して移転し、横浜銀行が入ってきた。(『海岸通り紀行』参照)


左上、左:1987(昭和62)年8月9日
右上:1991(平成3)年7月28日

現在はこのビルが建っていたところは広い道路に変わり、その下には地下鉄の駅ができた。少し西のところに横浜アイランドタワーが建ったが、そのビルの前面に旧第一銀行の建物が再現された。ベランダのある部分は元の建物を持っていったものである。回りが広く開いているのですごく目立つ。よく考えられた保存方法だと思うが、やはり街中にある建物がいい。

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黒田陶苑。神奈川県鎌倉市長谷2-17。1992(平成4)年5月3日

長谷寺駅から県道を海岸のほうへ行って長谷駅前通り星の井通りに出る数軒手前にあった看板建築の商店。2階の前面をベランダにして2階の壁面は一段後退している。建物右の店は閉まっているようだが床屋だったような造りだ。
現在は2軒の家に建て替わって、そのうちの1軒は「ダリ」というプデックになっている。



左上:1992(平成4)年5月3日。左下:2000(平成12)年10月7日。右:遠藤薬局。1992(平成4)年5月3日

2000年に撮った写真では遠藤薬局がなくなっている。また写真左に「ファミリー・サロン オシャレ」という店が写っている。この店は現在もあって、思ったとおり理美容室なのだが、現在の建物もやはり平屋だし2箇所あるドアも写真と同じだ。前面を改装して建物自体はまだ使っているのである。
遠藤薬局はタバコも売っている。昭和の時代は薬局がタバコ店も兼ねるのは多かったような気がする。そんな薬局の典型的な店先ではないかと思う。現在は「以ず美」という寿司屋になっている。

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以志橋。神奈川県鎌倉市長谷3-10。1993(平成5)年5月31日(2枚とも)

長谷観音前交差点に面した料理屋。そばやといってはそぐわない、かなり大きい木造建築だ。観光客向けの料理店には違いないが、こういう古い食堂で食べるのもけっこう贅沢なのかもしれない。鎌倉に来たのだからしゃれた店で、などと考えがちだが、正統な観光客として振舞うのもいい。歳をとってそんな心境にたっした最近だが、今は建て替わってかなり高級な感じになってしまった。
ネットの情報によると1914(大正3)年創業の老舗だ。写真の建物はいつ頃の建築でいつ頃まで建っていたのだろう。



大仏通りに面した東側

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おざわ。神奈川県鎌倉市長谷2-14。1992(平成4)年5月3日

江ノ電の長谷駅から鎌倉大仏への沿道だが、正確な場所は覚えていない。写真右に「釜めし・甘味 まつもと」があるのでそれでネット検索したら簡単に出てきた。駅から長谷観音前交差点に出る数軒手前だ。ストリートビューで見ると「まつもと」は建物自体は替わっていない。「おざわ」の建物も現存していたが、正面は住居として改装されている。建物左の鋳鉄の門が今もそのまま使われている。
どんな商売をしていた店なのか推定しにくい。看板建築としては平均的な造りだが、窓枠に凝っている。大工まかせではなくデザイナーが間に入ったのか、という感じだ。


宮わき
神奈川県鎌倉市長谷
1992(平成4)年5月3日

これも長谷駅から鎌倉大仏への沿道で、「おざわ」の近くだったと思うが、あるいは長谷観音前交差点より北かもしれない。
建物の両端に柱の飾りを立てた少し変わったデザインの看板建築だ。柱の間の壁にはなにもなくて、壁の上端を折れ線グラフのような複雑な形にしている。台東区台東(一般には御徒町)にあった鈴友の正面が似たデザインだ。少しいかめしい感じもして「趣味の呉服と京染」の店とは合わない気がするが、元は別の店だったのかもしれない。

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石崎歯院。神奈川県鎌倉市長谷2-14。1992(平成4)年5月3日

写真を撮ってから20年近くたつから、正確な位置は忘れてしまった。長谷観音前交差点の付近となんとなく思っていた。建物がなくなっているのは分かっていたから、写真右の自転車店を頼りにストリートビューを見てみた。その自転車店「ホンダウイング ヤマガミ」は長谷駅から県道32号へ出てすぐのところに見つかった。写真では看板建築風の表の造りだが今はその部分を外している。「WING」の袖看板は今も使われているようだ。
石崎歯院の建物はスパニッシュ様式になるのだろうか。こういうスタイルの建物は数が少ないので、小さいけれどかなり惹かれる。瓦がなくなっているのが残念だ。玄関の右側がガラス戸に改造されている。「歯科/石崎歯院」と右から書かれた古い看板がかかっているが閉院してしまっているようだ。
長谷駅で下りて大仏や長谷観音へ向かう人は大勢いる。そういう人達はこの歯科医院の建物があったときは皆、この建物を見ているはずであるが興味がなければ憶えてはいないだろう。
関東大震災では巨大な鎌倉大仏がずれ動いたという。鎌倉中でも長谷駅から大仏にかけての被害は特にひどかったらしい。倒壊したうえに火災が長谷寺門前から大仏通り方面に広がった。津波も襲来して、海岸の堤防が破壊され、長谷駅より数10m奥まで流れ込んだ。(『知られざる鎌倉探索』参照)
石崎歯院は大震災の瓦礫を整理して西洋館の診療所に造り替えたか、あるいはよそから駅前の地に移ってきたのだろう。前の道路はまだ砂地だったに違いない。江ノ電でやってくる着物姿の女性や、付近の旅館に滞在している大店の旦那なんかが出入りしていたかと想像される。

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高橋パン店。中央区日本橋小舟町2。1989(平成1)年10月1日

昭和通りの江戸橋北交差点の北を東へ入った所。写真左が正木ビル、その右が日本運送日本橋営業所、角のヤマザキパンの看板の家が高橋パン店。同じ日本家屋の横に看板建築にした店がある。昭和30年頃の地図では写真中央の2棟は「日本運送」「川瀬商店」「東海センイ」である。現在はその2棟がそれそれビルに建替えている。


旭屋㈱東京店配送センター
日本橋小舟町11
1989(平成1)年10月1日

堀留公園の近くで公園の西の通り。倉庫として建てられたものだろう。現在はビルに替わっている。
この辺りは今はビジネス街ということになっているが、戦前までは倉庫が多く建てられたようだ。大震災前は東・西堀留川の河岸地だったからその立地が引き継がれてきたらしい。
旭屋の左の家は堀留公園入口の角にある「玉龍亭」という中華料理屋で、看板建築の古い建物で今も営業している。

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HPS本部。中央区日本橋小舟町7。1987(昭和62)年頃

写真右の四つ角を右へ行くと堀留公園の西側の出入り口で、写真右奥のビルは建替え前の小倉ビル。芳町通り(金座通り)の富士銀行小舟町支店(現小舟町富士プラザ)の横を北へ来たところ。明治大正期には西堀留川と東堀留川の間を南北に通っていた道路があって、小舟町(西側)と堀江町(東側)を分けていたが、その道路である。
角の洋風の家は住宅地図には「HPSクリエート 帝国自動車」の記載。現在は「極東製薬工業」の本社ビルになっている。そのビルの竣工は1999(平成11)年ということだから、平成10年頃までは古い建物が残っていたのかもしれない。


左:HPS本部(北側)。1987(昭和62)年5月24日
右:小舟町会館。日本橋小舟町7。1987(昭和62)年9月13日

右写真は1枚目の写真の並びで何軒か手前である。写真中央の家は「小舟町会館」で、古そうな看板がかかっている。町会事務所だろう。その左の二軒は、撮影時の住宅地図では「ソーコ」と「車コ」だが、昭和30年頃の地図では「小野田繊維KK」と「島田豆腐店」。

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野口工産。台東区根岸4-7。1989(平成1)年3月26日

柳通りの根岸四丁目交差点。写真右奥へ行くと金杉通りの柳通り交差点で、写真右の向かいにある古い日本家屋の本藤(ほんどう)理髪店がわりと知られている。写真の建物は今はビルに変わって、そこに「こゞめ大福」の「竹隆庵岡埜」の店がある。
角に面したガラス戸の字は「鳶・野口工産」と読める。隣の四軒長屋は表面のデザインが同じなので同じ大家さんのものなのだろう。



洋風四軒長屋。1989(平成1)年3月19日

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