ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




台東区立黒門小学校。台東区上野1-16。1988(昭和63)年頃

黒門小学校は昭和初年に建った校舎をいまだに使い、学校名も変わっていないという貴重な小学校だ。建物は昭和5年7月の竣工、設計=東京市、施工=日本土木建築株式会社。外観は全体としては水平の線が強調されたインターナショナルに見える。校庭を取り囲むコの字形の平面で、北側と西側に教室が並ぶ。その教室の外側の3階の窓は放物線のアーチ窓が並んでいる。外側が廊下で、窓をすきにデザインできたのだろう。また、階段室の上部の窓も同じアーチ窓。表現派風のデザインが取り入れられたようだ。




上:北側の正面
左:東側には体育館がある

黒門小学校は1904(明治37)年5月に開校した東京市仲徒尋常小学校が元になったが、東京市黒門尋常小学校と称したのは1910(明治43)年11月。今年の2010年は創立100周年で、記念行事が行われた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




宝扇堂タバコ店、アサクラ喫茶店、すずめ化粧品店。台東区上野1-15。1990(平成2)年7月22日

昌平橋通りから、春日通りとの天神下交差点の南にある交差点を東に入ったところ。黒門小学校の北の通りで、この通りの北側は文京区が出っ張っていて湯島3丁目である。
写真右端の空き地は昌平橋通りに面した角地で、秋田相互銀行東京支店があった。
現在はすずめ化粧品店が取り壊されて空き地になっているが、他の仕舞屋を含めた3軒の家は健在だ。2003年に撮った写真ではアサクラは「コーヒーとカレーの店」のテントはそのままだが赤提灯を下げている。居酒屋になっていたらしい。
この辺りは湯島天神下に含めていいかもしれない。天神下は戦前は花街だったという。「宝扇堂」は住宅地図にあった名前だが、なんとなく以前は芸妓さん相手の商売だったのでは、と思わせる店名だ。

左:アサクラ。1988(昭和63)年頃。右:カメヤ質店。上野1-12。1988(昭和63)年頃

カメヤ質店は黒門小学校の南の通りにあった。袖看板を建物の中央に置いているのは珍しいかもしれない。建物はビルの立ち並ぶ中に今も残っている。しかし建物というハードウェアだけを見てもあまり惹きつけられるものはない。質屋という店があって、「看板建築の質屋さんか。他では見かけたことがないな」となる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





至誠堂書店、綿宝堂金物店。中央区日本橋人形町2-6。1985(昭和60)年9月8日

写真には人形町通りの人形町2丁目6・8番地が写っている。至誠堂書店と綿宝堂(内田金物店)の看板建築を紹介しようとしたが写真がない。遠くから撮った上の写真が唯一のもので、写真左手の2軒並んだ店がそれだ。現在では2軒とも改装されたか建替えられたかして店も変わり、写真の正面の姿は見られない。
至誠堂は大正15年の地図に「書籍至誠堂第一分店」で載っている古い店である。小さい店だから置いてある本も少なく、ぼくは雑誌しか買ったことはない。青いビニールシートがかかっているのは火事になったからである。
銅板貼りの綿宝堂はやはり大正15年の地図に「内田金物店」で出ている。


清濱田。日本橋人形町2-6
1987(昭和62)年6月7日

1枚目の写真左のビルの左の路地を入ったところ。写真奥の車の通っている通りが人形町通り。この路地を住吉小路というらしい。このあたりは昭和8年に人形町の町名が成立する前は住吉町だった。清濱田は創業50年になる割烹店。そこのご主人は「住吉小路」の名称を子供の頃には聞いていないという(タウン誌「にほんばし人形町」2006年春号)。いつ頃から言い始めたのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





人形町交差点。中央区日本橋人形町2-6。1982(昭和57)年

人形町交差点から人形町2丁目の方向を見たもの。歩道にはアーケードがかっている。写真中央右よりのいちばん高いビルが柴川ビルで、そこまでが6番地だが、この範囲では通りの前面に並ぶ建物は現在もあまり変わっていない。店が変わって建物は改装されている場合が多いから、ファサードは変わってしまうが、いまだビル化していない。しかし後方はビルがだいぶ建っただろうから、どんな様子になっただろうか。
人形町通りでは人形町交差点から水天宮前交差点までが歩行者天国を実施している。「人形町プラプラプラザ」と称する。通りの中央に進入禁止の標識がある。この大通りを一方通行にしたのはいつからだったろう。都電が走っていたときは当然ながら双方通行だった。
店は写真左から、カトレア洋菓子・喫茶店、パーラー・ワコー、人形町通りに向いて、キリンヤ洋品店、栄松堂書店、フジヤ(藤屋)洋品店。



キリンヤ、栄松堂、フジヤ。1983(昭和58)年5月

キリンヤは『東京日本橋人形町キリンヤ洋品店』によると、創業は大正13年10月。建物も創業時のものなのだろうか。
栄松堂書店は東京と横浜に10軒くらいの店舗をもつ会社の人形町支店。現在は「カレーハウス」に替わった。本屋はいつ頃閉店したのかとネットで調べてみると『近野十志夫のページ』に記されていた。2003年8月の日付で「九月半ば突然閉じられた栄松堂のシャッターに貼り紙があった。/明治二十三年から続けて参りましたが/ここに閉店することになりました。/きちんと分類され小さいながらも手に取る本は多く、/こんな本が入ったとよく声をかけられもした。」とあり、2002年9月だったと分かる。ぼくもこの本屋は規模の割には商品の内容が充実していたと感じる。それにしても明治23年の創業とはすごい。
建物自体は4軒長屋のようだ。なにかの本で見たが、楕円形の看板は「週刊文春」の文字が入っていて、建物の上には、「週刊新潮」の看板もあった。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




五十番、有文堂。中央区日本橋人形町2-6。左:1985(昭和60)年2月、右:1987(昭和62)年6月7日

人形通りの人形町交差点の南の横丁を東へ入ってすぐのところで。現在は五十番はビルに、有文堂印房は住宅として建替えられていて、廃業してしまったようだ。平成になってからだったと思うが、今になるといつ頃解体されたか不明だ。
五十番の、いかにも昭和初期のムードを感じさせる外観は建てたときのままなのだろうか。2階ベランダの赤い手すり、入り口右のアールをつけた壁と裾のタイル張りなど、昔の中華料理店はこんな風だったかと思わせる造りだ。入り口を入るとその右にすぐ階段があった。少し以前までは2階も客席として使っていたような感じがした。改めて写真を見ると3階建てである。
五十番は日曜日も営業していたので、ぼくはけっこう便利に使っていた。狭いフロアに目いっぱいテーブルと椅子を配置したような按配で、いつも込んでいたように覚えている。
「五十番」という中華料理店は全国にあるようだが、チェーン店にはみえない。だれもが使える名前なのかもしれない。有名なのは王監督の向島の店。だいぶ昔の話だが1960年頃、須田町のいせ源ややぶそばのある辺りに五十番があったのを思い出した。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )






上:つたや、萬屋酒店
中央区日本橋人形町2-6
1987(昭和62)年6月7日
左:伊勢利。1989(平成1)年8月19日

上の写真は人形町通りから入ってきた横丁と裏通りとの四つ角。人形町交差点のすぐ裏になり、うなぎの大和田本店が写真右手にある。古い家が並んでいて、写真左から「北京料理五十番」「有文堂印房」「萬屋酒店」「つたや化粧品店」。五十番と有文堂は次回で。
左写真の「伊勢利」はつたやの右隣。「伊勢利御誂足袋店」と「伊勢利トロフィー」である。店主は違うのかもしれないが、同じ建物で商売しているわけで、妙な取り合わせである。この看板建築のデザインは当ブログ前回の「スズ洋装店」と同じである。同じ大工さんが建てたのだろうが、こんな例は他に知らない。
現在では五十番はビルに、有文堂は住居のような家に建替えている。萬屋とつたやは写真のままの家で商売もそのまま続いている。伊勢利も20年前のままの看板やテントで商売を続けている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )






スズ洋装店、セキネ美容室
中央区日本橋人形町2-7
上:1987(昭和62)年6月7日
左:1985(昭和60)年8月3日

人形町通りの大観音の向かいの横丁を入ったところにうなぎの「大和田本店」がある。上の写真左の和風の家で、小倉理髪店と同じ四つ角に面している。現在もこの木造2階建ての家で立派に営業を続けている。その隣の銅板張り看板建築が「スズ洋装店」。この家も健在だが正面は白いパネルを貼ってしまっている。写真右の家は「セキネ美容室」。現在は4階建てのビルに建て替わった。これら3軒の店は昭和25年の地図にはすでに載っている。
どの家の前にも鉢植えが置かれている。花の手入れをしながらお隣どうしで会話も弾むのだろう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




加藤電気工業。神奈川県横浜市中区尾上町6-87。1988(昭和63)年8月6日

尾上町(おのえちょう)は大岡川の大江橋から南東方向へいって横浜スタジアムに突き当たる通り沿いの町。6丁目は大江橋際のほうで、加藤電気工業はその大通りに向いて、横浜指路教会から1・2軒おいた並びにあった。現在は細長いビルに建て替わっている。
神奈川の近代建築探訪加藤電気工業株式会社』によると、「構造=RC3階、設計=川崎鉄三、施工=大林組、建築年=昭和4年」である。川崎鉄三は若尾ビル昭和ビル・キッコーマンビル、インペリアルビル、エキスプレスビルなどの作品があり、横浜の近代建築を語るには欠かせない人物だ。
こういう小さなビルは数多く建てられたと思うが空襲の被害も大きかったのだろう、横浜ではあまり残っていないようだ。あるいはこの規模なら木造で建てられることが多かったかもしれない。エキスプレスビルのような無装飾のビルを設計している川崎鉄三に、こういう当時のはやりだった装飾を施した建物があるのが興味深い。しかしここに出した写真では逆光で細かいところは判らない。『神奈川の近代建築探訪』の写真を見て欲しい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





今野アートサロン。神奈川県横浜市中区太田町5-57。1987(昭和62)年8月9日

馬車道の神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)や日本興亜馬車道ビル(旧川崎銀行横浜支店)のすぐ近くに立っていたビル。名称から画廊なのだろう。『横浜の近代建築案内』によると、「元は大宝堂時計店で、昭和3年の竣工、RC3階建て、設計=堀越三郎、施工=庄司組」である。小さいながらルネサンス様式風と言えるだろうか。あるいはロマネスク風か? 時計宝飾店らしい豪華な造りで、両横面の角の正面に近いところに時計店だった名残りの時計が残されている。
『まちを歩きまちを描く』によると、1階は喫茶店になっていたという。



1991(平成3)年7月28日

1枚目の写真と同じ構図だが、1枚目の写真では日本火災横浜ビル(旧川崎銀行横浜支店)が取り壊された時期のもの。2枚目では日本興亜馬車道ビルが建って、昭和の時代の景観が再現されたかに見える町並みだ。明治・大正・昭和というそれぞれの時代に建てられた建物が並ぶ光景がかつては見られたのである。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )





馬車道大津ビル。神奈川県横浜市中区南仲通4-43。1987(昭和62)年8月9日(2枚とも)

見たところちょっと古いが普通の四角いビルである。実際には鉄筋コンクリート造りで窓の小さなビルは数が減ってあまり見かけることがなくなったのだが、年配者だったら大津ビルのようなビルが一般的なものといまだに思っているようなところがあるのではないかと思う。神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店)の重厚な建物に向かいあって立っているので余計に目立たない。しかしよく見るとなかなか美しい建物である。外壁のタイルは4階窓の上ではアールデコ模様を形作っている。この目立たない装飾も好ましい。
上の写真ではビルの角に電柱が立っているのが記録されている。現在、馬車道通りの電線は地下に埋設されたようだ。
『日本近代建築総覧』では「協同飼料研究所(旧海上火災保険ビル)。建築年=1936(昭和11)年、施工=大林組」。東京海上火災保険横浜出張所として建てられ、1970年代には協同飼料研究所が入居していたということだろう。「馬車道大津ビル」の名称はいつ頃から使い始めたのだろうか。
窓の図鑑建築家・木下益治郎資料展(2007.11.08)』で知ったのだが、大津ビルの設計者は木下益治郎だと判明したという。工学院大学後藤研究室の二村悟・戸田啓太氏などの調査によるらしい。



コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ