ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




義士館。港区高輪2-11。1999(平成11)年5月22日(7枚とも)

有名な泉岳寺の境内にある、赤穂義士の資料を展示するための「義士館」という建物。関東大震災で倒壊した義士館を鉄筋で建て直したもので1925(大正14)年の完成。なんだか擬洋風という感じもする。RC造りで手早く再建したので、本体がなんとなく洋風になってしまったのだろうか? 玄関は本体に似合わず立派な唐破風の屋根の和式だ。本体は展示品を納める蔵のようなものとして建てたのだろう。割と小さな縦長の窓を並べただけで、壁もコンクリートの地のままだ。それでも、大震災後とはいえ大正期の建物だからそれなりに趣がある。
戦時中の空襲で泉岳寺の本堂は焼失したから義士館も危なかったのかもしれない。2001(平成13)年に赤穂義士記念館が落成して義士館は用済みになり、取り壊すのかと思ったら、寺もそれは惜しいと考えたのか、2004(平成16)年に1階を講堂、2階を義士木像館に改修することで建物を残した。





義士館を見学した時、内部を何枚か撮影した。入り口に「撮影厳禁」の張り紙があるが、分かって撮っている。たぶんもはや時効だろう。

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博報堂。千代田区神田錦町3-22。左:1985(昭和60)年4月、右:同年8月4日

神田錦町の博報堂旧本社ビルの跡地が現在どうなっているか調べたら、つい先日の5月15日に「テラススクエア」がオープンしていた。旧本社ビルは新しいビルの角に「復元」されている。再開発前に神田錦町3-22・24に建っていたのは、撮影時では、22番地に博報堂、24番地に博報堂第二別館、住友海上火災神田別館、錦文ビル、大修館書店、住友商事栗田ビルなど。
1895(明治28)年に創業した博報堂が神田錦町に移転してきたのは1914(大正3)年。関東大震災で社屋を焼失した後、1930(昭和5)年6月に建ったのが写真のビルなのだろう。設計=岡田信一郎、施工=戸田組(現戸田建設)、RC3階建てで5階建ての塔屋が目立つ。左側の前に出ている部分は戦後の増築。
日本建築学会の保存要望書によると、正面に3層の高さの4本のドリス式風オーダーの古典主義と、塔屋ではアール・デコ風の当時先端の動きを取り込んで、重厚な中に軽快さを感じさせる表現、という意味のことを言っている。

どうしても銀座の電通ビルと比べてしまうが、見た目でも電通ビルのほうが実用的にできている。それが建て替えをしないで使い続けている理由かもしれないが、歴史的価値や景観を考えて余裕を見せているのかもしれない。博報堂の方は見た目重視の装飾優先だから、事務所には無理だろうが、ビルの特色を生かして会社の広告塔として残せなかったと思う。それでは遊休資産のままで、株主が承知しないのかもしれない。



1992(平成4)年5月4日

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リオ、鶴谷洋服店
千代田区神田神保町1-3。左:1985(昭和60)年4月、右:2015(平成27)年3月21日

明文堂・文省堂の向かいに今もある看板建築。『東京―昭和の記憶―>神保町界隈』の明文堂・文省堂の写真の説明文に「…ラドリオは、かつて写真左の「リオ」と、店の中でつながっていたが、のちに「リオ」が分離…」とある。そういう目で昭和38年の航空写真を見ると、書泉グランデの裏にあるラドリオとリオの建物とはT字形につながっているように見える。リオの正面を見る限りでは戦前の看板建築に見えるのだが、ラドリオは昭和24年の創業というから、あるいはそのときに建てたものなのだろうか? 現在は「アート・スポット ラド」というギャラリー。
鶴谷洋服店は2010年9月でテーラーは廃業してその後古本と小物雑貨などの店になった。店名は「鶴谷洋服店」のまま、あるいは「(元)鶴谷洋服店」らしい。看板には小さい「元」の字を付け加え、名物だった半円アーチの袖看板は模型のような小さなものに換わっている。
(元)鶴谷洋服店次第書き』という鶴谷洋服店の甥御さんに当たる方が書いているブログがあり、その中で鶴谷洋服店の歴史にも触れている。それによると建物は昭和3年に「薗部袴店」として建てられたものという。鶴谷洋服店は昭和20年に三崎町の店を空襲で焼け出されてそこに移ってきたのだった。

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明文堂、文省堂。千代田区神田神保町1-5
左:1987(昭和62)年11月18日、右:2001(平成13)年10月

靖国通りの書泉グランデの横を入ったところに洋風看板建築の同じ長屋に2軒の古書店があった。
明文堂は『JIMBOU BOOK TOWN>明文堂書店』によれば「おそらく1928、29(昭和3、4)年には創業していただろうという社会科学専門店。以来約80年、靖国通りとすずらん通りをむすぶ通り沿いに店を構えていたが、2006年12月、今話題の劇場「神保町花月」などが入る「神保町シアタービル」前に店舗を移転した」という店。
文省堂は教科書でも扱っていそうな店名だが、『JIMBOU BOOK TOWN>文省堂書店』によれば「昭和40年代の創業以来、一貫して“軟派”のものを扱っている。古書業界では昭和60年代に女優、アイドル写真集の一大ブームがあったが、そのブームの一端はこの文省堂が担っていた」「2007年1月、創業以来40年近く続いていた店を移転(同じ横丁ですずらん通りを越えたところ)」。文省堂の横は路地が入っていて、そこに本棚をしつらえて古本を置いていた。きちんとそれを写しているサイトを紹介しておく。
都市徘徊blog>神保町の洋風建物2
ブログ版―桐のイベント道場>明文堂・文省堂/神保町の風景

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アオヒ印房。千代田区神田神保町1-5。1991(平成3)年9月1日

神田すずらん通りの中間あたりの横丁との角にあった洋風の看板建築。二階の窓のペディメントの飾りが特徴だ。3軒分の長屋式店舗だろうか。同じ建物に「ツルオカピアノ」が入っている。アオヒ印房は一見、たばこ屋のようだ。写真左の壁を赤く塗った建物は礼華楼という中華料理店。すずらん通りにアーケードがあった頃の写真もあるので下に出しておく。
都市徘徊blog>神保町の洋風建物1』によると2007年初頭には周辺の建物と共に取り壊されたようである。現在は「神保町須賀ビル」(2011年4月築、8階建)という賃貸事務所のビルになっている。上の写真で左端の白い壁の家が須賀楽器店。須賀ビルで今も営業している。



アオヒ印房。1983(昭和58)年9月

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伊勢屋和菓子、不言堂薬局。千代田区神田神保町2-3
左:1986(昭和61)年9月23日、右:1991(平成3)年6月30日

靖国通りの神保町交差点と専修大前交差点の中間に、三階建ての古い建物の矢口書店がある。その横を南へ入ったところにあった洋風の看板建築。写真右に行くとすぐにさくら通りで、1930(昭和5)年に建った三井住友銀行別館―撮影時は第一相互銀行別館―が建つ四つ角だ。
建物は看板建築の三軒長屋だろう。二軒分を不言堂が使っている。1961(昭和44)年の住宅地図では伊勢屋は「伊勢屋食堂」である。1991年の写真では「建築計画のお知らせ」が張られていて、撮影後まもなく取り壊されたかと思う。現在は1993年に建った中(あたり)質店のビルに替わった。
東京―昭和の記憶―>神保町界隈』に、不言堂の方から撮った写真が載っている。

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NO.1(スナック)。神奈川県横須賀市米が浜通2。2007(平成19)年11月16日

米が浜通りの中間あたりで、手前の交差点から南(写真奥)は米が浜通2丁目に変わる。その方は商店も少なく、商店街とはいえなくなる。写真右手の角は「おりょう会館」という葬儀場。坂本龍馬の妻の記念館ではないが、玄関前におりょうさんの胸像が置かれている。交差点を写真左へ行くと国道16号に出るが、その角に特異な外観の「 文化興業」の建物がある。
写真中央の事務所風の家は現存するが、その両脇の家は取り壊されて駐車場になっている。米が浜通りのほうの家は肩を張ったような形の看板建築。「LIBERAL」という店だが、写真では婦人服のオーダーメードの店だろうか。


LIBERAL。米が浜通2。2007(平成19)年11月16日

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古里(居酒屋)。神奈川県横須賀市米が浜通1。2002(平成14)年2月9日

米が浜通りの真ん中辺り、島屋呉服店の向かいの横丁を入ったところ。写真右の古里という居酒屋は2階にあるようだ。現在の様子をストリートビューで見ると、袖看板は「海」の字が残っているが「テナント募集中」。
写真中央の2棟の日本家屋は取り払われて駐車場になってしまった。


栄、鳥好。米が浜通1
2007(平成19)年11月16日

米が浜通りから横浜共済病院の方へいく横町の裏の路地。飲屋横町になっている。栄、田子作、鳥好、呑平、トトロと並び、それらの向かいには、ストリートビューによるので写真とは異なるが、ぴん、SNACK秋桜、さくら。路地を出るとすぐ横浜共済病院で、路地のそのほうには薬局が3店進出している。

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萬新楼(中国料理)。神奈川県横須賀市米が浜通1。2002(平成14)年2月9日

住所としての米が浜の平地は、明治22年に海岸を埋め立てて造成されたという。元々は竜本寺や中央公園のある山の麓がすぐ海だった。明治期の埋め立ては国道16号の辺りまでで、その外側は昭和になってからの埋め立てによる。
写真は米が浜通りにある銅板貼り看板建築。こういう建物があると、周囲の古い建物も戦前からあるとみていいのか、というふうに思いが行く。萬新楼は廃業したが、今はやはり中華料理店の福泰飯店になっている。



すが婦人洋品店。米が浜通1。2014(平成26)年2月28日

米が浜通りの福泰飯店の向かいの街並み。和式長屋風の建物と看板建築風の一戸建ての商店が並んでいる。店は右から、すが婦人洋品店、はるみ婦人洋品店、勉強堂(業務用料理材料食品問屋)、山一書店、松月(和菓子)。シャッターが閉まっている店はたまたま開店してなかっただけだ。

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岡田鶏肉店。千葉県野田市野田305。2006(平成18)年3月18日

当ブログ前回で述べた四つの商店街が出会う四つ角のすぐ南にある古い日本家屋の商店。「幸会」の街灯が並ぶ商店街なのだが、いくつか駐車場があって家並みが途切れている。球体3つの街灯は、今はガス灯風のものに替えられた。写真右の入母屋屋根の店は閉店してからかなり経つのか、看板の字は風化して読めない。鳥専門の岡田商店は今では「岡田鶏肉店」という看板に付け替えた。
下の写真は通りを南へ行った丸半商店/バナナ屋という果物店の向かいにある、元商店とも元から民家とも思える家。写真右の「スナック リラ」はなくなって駐車場になっている。


民家。野田市中野台200。2006(平成18)年3月18日


洋館。野田市上花輪852
2006(平成18)年3月18日

幸会の通りを南へいって商店街を出外れてしまったところにあった洋風の建物。この建物を紹介したサイトは幾つかあるのだが、どういう建物だったのかは分からない。写真のように看板も表札もない状態で永いあいだ立っていたのだろうか。現在は写真右の商店と共に住宅に建て替えられた。

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