ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




山口家住宅。千葉県佐倉市新町216。2002(平成14)年5月5日

佐倉市立美術館の横を南へ入るとすぐ「裏新町通り」に出る。その西北角にあるのが「山口家住宅」。白漆喰壁の袖蔵と出桁造りにも見える店蔵がくっついて並んでいる。両者の屋根が一体になっているのは珍しいという。袖蔵の建設は棟札から1896(明治29)年10月で、店蔵はその後の増築とされる。
Deepランド>裏新町から宮小路』によると、松井天山が描いた昭和3年の鳥瞰図には「山口屋文具店」となっている。また、昭和48年の住宅地図には「ユニオンジャック、スナック山口」とあったそうだ。

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佐倉市立美術館。千葉県佐倉市新町210。2002(平成14)年5月5日

佐倉市立美術館は1994(平成6)年11月の開館。新町通りに面した「旧川崎銀行佐倉支店」を「エントランスホール」として活用し、美術館本体はその後に建つ5階建(地下2階)のビルである。
旧川崎銀行佐倉支店(1927年、川崎第百銀行に改称)、は1918(大正7)年の建設。矢部又吉の設計、煉瓦造り2階建(2階部分吹き抜け)銅板葺き、外壁タイル張り。施行は神谷平吉。
矢部又吉(1888-1941)は妻木頼黄のもとで働いた後、ドイツのシャルロッテン工科大学に留学した。「川崎財閥のひとつの日本火災等の重役を務めた早川鉄冶の長女・富見と結婚した縁もあり、川崎財閥系の建築物を多く手がけた(ウィキペディア)」。佐倉支店の建築様式は「ドイツ的なネオルネッサンス様式の影響が見られる。セセッション様式の影響も(こうほう佐倉2004(平成16)年2月)」と言われる。


川崎銀行佐倉支店は佐倉市立美術館に落ち着くまで、いくつもの施設として利用されてきた。
「第百銀行佐倉支店」だった1937(昭和12)年に建物は佐倉町に売却されて「佐倉町役場」になる。1954(昭和29)年に佐倉市が成立すると「佐倉市役所」に。いつの頃か知らないが、吹き抜けの1階だった内部に2階フロアを造ったり、後に増築してしのいでいた。新庁舎が完成した1971(昭和46)年からは「中央公民館」。1976(昭和51)年に公民館は鏑木町に移転し「市立図書館」に替わる。図書館が佐倉郵便局だった建物に移った1983(昭和58)年から3年間の休館があって、改修工事の後、1981(昭和61)年から1992(平成4)まで「佐倉新町資料館」となった。5階建の美術館本体を建設して、1994(平成6)年11月に「佐倉市立美術館」が開館した。

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蔵六餅本舗 木村屋。千葉県佐倉市新町222。2002(平成14)年5月5日

蔵六餅(ぞうろくもち)本舗は城下町佐倉の新町通りにある和菓子店。『蔵六餅本舗』によると、「あんぱんで知られる銀座木村屋の第二号店として、明治15年に、佐倉の歩兵第57連隊に非常食やパンを納める御用商人として創業」したという。「蔵六餅」は、昭和29年の佐倉市誕生を記念して発売された。昭和40年頃からは、パンの生産をやめて和菓子が中心となったという( LIVING千葉>佐倉「蔵六餅本舗・木村屋」)。
店舗は出桁造り商家で、並びの吉田家住宅と同じく明治末頃の建築だろうか。軒の上に造られた銅板葺のおおきな看板が特徴。旧町名である「上町(かみちょう)」の字が入っている。店舗の裏には江戸後期(1800年頃)の蔵が残っている。そこで抹茶を飲みながら、蔵にしまわれていた古い食器や古美術などを見学できる。

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新町吉田家住宅。千葉県佐倉市新町224。2002(平成14)年5月5日

新町通りの東端(新町交差点)に近い所にある、元商家の出桁造りの建物。新町通りは城下町佐倉の中心街だった通りで、明治以降も佐倉町役場や川崎銀行佐倉支店、警察署(新町通り南の裏通り)が置かれた。現在の千葉銀行佐倉支店、市立図書館(旧郵便局)も繁華街だった名残なのかもしれない。
4 travel.jp>佐倉市散策(27)』に、吉田家住宅は「種屋」で、明治末期の建築とある。佐倉の秋祭りでは上町(かみちょう)の山車人形「日本武尊」を店内に展示する。また、「佐倉・城下町ひなめぐり」というイベントでも「昭和十年頃のお雛さま」など数セットのひな壇が飾られる。



ストリートビュー(2012年11月)より。1枚目写真、右後ろに写っているのが裏にあった蔵。2018年に取り壊されて、今は住宅が建っている。

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吉田書店。千葉県佐倉市新町240。2002(平成14)年5月5日

成田街道(国道296号)の新町(しんまち)交差点のすぐ北にある出桁造りの商家。ネットでは吉田書店に関して参考になったサイトは『 Deepランド>佐倉「寺子屋 吉田書店」…(2017.07.11)』しか見つけられなかった。
そのサイトの管理人氏は「ご自由にお入りください」という張り紙に従って店内に入り、細かく観察している。以下その記述を流用させてもらう。
建物は「築150年の旧家」という。「幕末に創業した吉田書店は約10年ほど前まで営業していた」また「急な階段を上がった2階で寺子屋開業」していたそうで、本屋は2007年頃廃業したらしい。店内は手前は土間だがすぐ座敷になっている。左右の壁や奥に棚を巡らしていて、そこに商品が置かれていたらしい。そんな造りを平成の時代まで変えなかったのがすごい。というより、あまり商売をするという気がなかったのだろう。
店内には「書肆(しょし)玉照堂」(玉は正確には「金」の人がない字)の木の看板、「千葉懸書籍雑誌商組合員」のホーロー看板などが残る。土間で無人販売している「在庫処分」の商品の中に、東日本大震災(2011.03.11)で被災したために解体した土蔵から出てきた大正時代の絵はがきがある。そんな貴重なものを1枚100円でおいてある。ぼくだったら全部買い占めてしまうだろう。



ポストの右(写真枠外)にちばグリーンバスの「横町(よこまち)」バス停がある。横町は旧町名で、江戸期には新町通り沿いは西から「横町、上町、二番町、仲町、肴町、間之町」と細かく町名が付いていた。今は「新町」に統一された。家10軒ほどで町ができているような感じだが、これは「佐倉の秋祭り」で繰り出される山車と関連するのだろうか。

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野田市市民会館(旧茂木佐平治家住宅)
表門、表玄関
千葉県野田市野田370
2006(平成18)年4月29日

茂木佐平治家は1688年に茂木本家から分家したという。1917年(大正6年)に茂木一族と髙梨一族の8家が合同して「野田醤油株式会社」(後のキッコーマン株式会社)が設立された。『亀甲萬(キッコーマン)』は佐平治家が使っていた商標だから、野田醤油の最有力メンバーだったと思われる。邸宅は1924(大正13)年1月に完成している。茂木本家住宅より1、2年早い。関東大震災が起こったときには普請中だったのだろうか。昭和20年代後半まで実際に居住していたという(『田舎へ行ってご/見てご!>茂木佐邸』)。
1956(昭和31)年10月、野田醤油から野田市に寄贈され、12月から「市民会館」として公開された。1997(平成9)年5月に国の登録有形文化財に指定された。
敷地内に「野田市郷土博物館」が開館するのは1959(昭和34)。建物は山田守の設計。2021(令和3年)2月に国登録有形文化財に指定された。そんなこととは知らなかったので写真を撮っていない。表門の左奥にわずかに写っている。



西門。豪華な表門や表玄関は特別な来客や行事のときに使われ、普段は西側にある通用門から出入りしていたらしい。主屋の西側にも2箇所の玄関がある。西門に付随している建物は使用人の家だろうか。門の脇に車の運転手の家を建てる場合があるから、人力車の車夫が住んだ?



左:主屋北西角の「下台所」。右:主屋北東の「藤の間、楓の間」、左に突き出ているのは便所。



左:主屋北東。座敷が6部屋(松、竹、梅、柳、楓、藤)がある。右:主屋中央部。右に「桃、月、桃」の座敷、その裏は中庭。中央は通用玄関がある棟。左は表玄関から続いている部分。

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