ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




新橋お多幸。港区新橋1-4。1987(昭和62)年12月27日

十仁病院があった所の斜向かいで、写真右奥へいくと、難波橋跡の首都高をくぐって銀座の並木通りへ入っていく。
新橋お多幸は1932(昭和7)年創業の有名なおでんの店。写真の店舗は1920年代の建物という。3階建てで地下には倉庫があった。120席というから意外と大きい。2008年6月25日でこの店舗を出て新橋3丁目のビルに移転した。(『 新橋経済新聞』)
お多幸が大震災後まもなくの建物だとすると、隣の高橋歳光商店(荒物・雑貨・家庭金物)もそうかもしれない。高橋荒物店の向かいには出桁造りの山路米店が見られる。
現在、ストリートビューで見ると、角の家は空き家のようだが、写真に写っている建物は全てまだ残っている。



左:新一ビル別館。新橋1-9。1986(昭和61)年2月2日
右:芝口5号館。新橋1-5。1987(昭和62)年12月27日

1枚目写真の新橋お多幸の前を東へ、信号を渡った同じ通り。昭和30・40年代の建築かと思われる、小さなビルが並ぶ一画である。
新一ビル別館は現存している。上部の飾りを見ても、戦前に建ったビルだろう。現在は壁をグレーに塗って3階の窓から上は広告を取り付けて装飾は隠されてしまった。テナントもほとんど入れ替わったようである。1986年の住宅地図では「きもり、フライパン」で、写真では「中華料理きもり」は変わらないが「キッチンフライパン」は「風来帆」という焼き鳥の居酒屋に替わっている。この店も1年で、現在も続いている「小諸蕎麦」に替わった。「新一ビル」は外堀通りに面した野村證券が入るビルで、現在は「COI新橋ビル」という名称である。 
芝口5号館は新一ビル別館の斜向かいにあったビルで、2008年頃に隣の中光ビルと共に解体された。『都市徘徊blog> 芝口五号館』で取り上げられている。ぼくもビル上部の装飾に気がついて写真を撮ったようだが前のほうに邪魔なものがいろいろと写っている。

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十仁病院。港区新橋1-12。1987(昭和62)年12月27日

新橋駅銀座口前交差点から見て裏側にあった建物。外堀通りに面したほうにも十仁病院の建物があったが別の建物だと思う。奥ではつながっていたかもしれない。『 廃景録 十仁病院』によれば、1938(昭和13)年の建築。2004(平成17)年4月に解体されている。
十仁美容整形』の「沿革」によると、十仁病院は1931年に御徒町に開院した。この建物は京浜東北線の車窓からも見えていた2階建ての病院だった。1938年に新橋に十仁病院を開設。このとき写真の病院を建てて開院したのだろう。
2005年4月に銀座8丁目の天國ビルへ移転したという。
『廃景録』のk-kai氏が指摘しているように、玄関、その右側、左側、それに2階建て部分のそれぞれで外観がバラバラである。『十仁美容整形』のHPには開業当時の写真が載っているが、それから変わっていないので増築したようでもない。



左:1987(昭和62)年12月27日、右:1992(平成4)年1月3日

左右の写真は撮影日がちょうど4年の間隔で、その間に看板のデザインが変わっている。右写真では壁のタイルが目立たないが、タイルの上からクリーム色に塗ってしまったようだ。

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新橋駅銀座口前交差点。港区新橋1-12。1987(昭和62)年12月27日(2枚とも)

JR新橋駅や地下鉄の新橋駅から銀座へと向かうと駅前の広い通りを渡ることになる。その見慣れた光景であるが、すでに20年前の写真である。十仁病院の建物が解体されたのは2006(平成17)年ということなので(『 廃景録 十仁病院』)、写真の景観が見られなくなったのは割りと最近かもしれない。現在は「ヤマダ電機LABI新橋生活館」のビルと「光和ノナビル」が建った。
写真では十仁病院が並んでいるような塩梅だが、見えているのは看板だけで、病院そのものはこの横と裏になる。矢印で迷わないように場所を示しているのだが、かえって間違えて別の家に入ってしまうのではないかと心配になる。
1986年の住宅地図では写真左の家が交差点角のナイニプラザ、以下右へ、花幸、ナイニファーマシー、登亭。写真では角の家は「JUJIN PLAZA」の看板だ。ネット検索すると「十仁プラザ」という婦人服の製造販売の会社があるからそれだろうか。



十仁病院

1枚目写真と同じ街区の西側、外堀通りに面したほう。写真左のビルは康楽ビル。中華料理店が建てたビルらしい。
左へ行って首都高をくぐると銀座8丁目。首都高は汐留川の上に通されたのだが、川があった時代に架かっていたのが土橋で、御門通りとの交差点名になっている。

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カラープロセス。文京区小石川3-27。1988(昭和63)年3月13日(2枚とも)

千川通りが南に折れて白山通りと平行になる辺り。現在、「カラープロセス第2」の看板の家から左側はマンション(コスモ小石川)に替わった。写真右手の三好弥は洋食屋だと思う。家は今もあるが看板はなくなっている。カラープロセスとの間に路地が、裏通りに通じていて、 清水折本のところに出る。マンションが建って、この路地はつぶされてしまったらしい。



柳町小学校入口交差点の銅板貼り建築。文京区小石川3-28

千川通りの柳町小学校入口交差点。写真右手の飲み屋は店名が読み取れない。銅板貼りの壁の上部に残っている字もやはり読めない。現在はマンション(ステージコート文京小石川)に替わっている。
千川通りはいつ頃通されたのだか知らないが、千川(小石川)の暗渠化が完了したのは1934(昭和9)年だというから、千川通りの開通も同じだろうか。
明治16年測量の「 日文研所蔵地図 小石川表町近傍」を見ると、柳長小学校の西の道路が千川を渡るところに千川橋が架かっている。千川はその橋の上流でクランク状に折れ曲がっている。写真右端から通りの裏手に入っていく道路は昔の地図にもあり、その先には流路を埋めた跡の道路も認められる。

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大島洋服店。文京区小石川3-27。1988(昭和63)年3月13日(2枚とも)

当ブログ前回の 三好薬局の向かいである。出桁造りの商家や木造長屋が並んでいる。写真右に建物の間に路地があり、千川通りに通じている。選挙ポスターの貼ってある家は清水折本。大島洋服店は「御注文紳士服」なので普通で言えばテーラーだが、この日本家屋なら洋服店のほうが合っているかもしれない。
現在、大島洋服店の左の家から先、千川通りに出る角までの古い家が残っている。なくなった大島洋服店の正面の写真が『 東京-昭和の記憶- 小石川柳町~初音町』に載っている。
写真左に床屋のポールが写っている。電柱に「ニューアポロ理容室」の看板があり、その床屋はおきなや(翁屋)鮮魚店の横の木の門をくぐって入る民家を指している。門を入ったところは裏庭のようなところで、床屋の店舗は見えない。入っていく客はいるのだろうかと心配していたが、店の正面は千川通りに向いていることが今、判った。



ニューアポロ理容室

千川通りの柳町幼稚園の向かいの辺り。写真右の長屋は4軒長屋で、味千両という弁当屋の隣がニューアポロ理容室。裏の入り口から入ると、この店の裏から入ることになるのだろうか? 味千両の横に隙間があるからそこから通りに出てくるのかもしれない。
現在は味千両と、その左のクリーム色に塗った長屋がなくなって駐車場になっている。

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高橋畳店。文京区小石川3-26。1988(昭和63)年3月13日(3枚とも)

千川通りは白山通りと平行になるように南に曲がる箇所がある。写真の道路はその少し手前で南に分かれている通りで、千川通りの横丁のような、裏通りのようなという感じだ。すぐ、善光寺坂からの通りにぶつかって終わる。この通りの両側とも空襲での焼失を免れた一画で、関東大震災後まもなく建ったと思われる木造の店舗が並んでる。
この通りは明治16年測量の「 日文研所蔵地図 小石川表町近傍」にもある古い道路で、千川通りを越えて北に伸びている。地図では千川通りはまだなくて千川の細い流れがあるだけで、そこに千川橋が架かっている。明治期ではけっこう広い通りで、たぶん今と同じ幅だったかと思われる。
写真は3枚とも通りの西側。上写真右の家が高橋畳店。現在、この辺りは大きなマンションが2棟建っている。



ST商会

1枚目の写真の左に写っている三好薬局が一部写っている。セキネサイクルの看板の店は「ST商会」と読める看板が出ている。この二軒長屋の家は現在も残っていて、「諏訪運輸」という会社の車庫になっている。日高肉店は今も変わらない。店の前にあるすずらん灯はやはり今も立っているが、ストリートビューを見ると「すずらん通り(裏は日高精肉店)」の標識が取り付けられていた。


須田金物店

写真右端のラーメン屋は2枚目の写真の左端に写っている。この通りは出桁造りの商店が多かったようで、須田金物店のような看板建築はあまりなかったと思う。善光寺坂からの通りに出る角の辺りだが、今はわりと広い駐車場になっている。あるいはマンションが建っただろうか?

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走湯橋。静岡県熱海市伊豆山
2011(平成23)年5月21日

伊豆山の海べりに下りてみた。伊豆山港という小さな漁港がある。魚を出荷している様子はないから釣り船の発着場のようなものかもしれない。海岸線に沿って熱海ビーチラインが走り、すぐ内側に一般道がある。その道路は逢初(あいぞめ)川を渡って川に沿うように国道135号へ登っていく。そのとき渡るのが走湯(はしりゆ)橋で、親柱には「昭和十二年七月竣工」の文字が彫られている。
走り湯という名所がそばにある。海岸から少し上がった崖の横穴から湧き出している温泉である。現在の湯は源泉が枯渇したので別の源泉から引いてきているそうだ。
上左写真の建物は「伊豆山浜中継ポンプ場」という熱海市の施設。2003年6月からの稼動で、伊豆山地区の汚水を浄水管理センターに送り出している。壁に走湯橋のデザインを流用している。「浜」というのはこの辺りの字(あざ)というか地区名というか、地名である。

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和田アパート。静岡県熱海市伊豆山。2011(平成23)年5月21日

国道135号から逢初(あいぞめ)地蔵堂のある横道へ入って道なりに曲がると古い建物が並ぶ面白い一画に出た。写真左奥に偕楽園、さらに進んでいくと海岸べりのニューさがみというホテルまでいけるようだ。車では海岸の道路にまでは出られないのかもしれない。
写真手前の建物は、平屋の玄関、総2階の母屋、2階が後退した3軒長屋のような部分からなる。まとめて「和田アパート」という建物である。名称はGoogle地図にあった。建物の左端は美容室さくらい。トタンの波板で覆った外観は、和風の横板の壁を修復したものかもしれない。だとするとかなり古い建物だろう。





1枚目写真の左に写っている元商店と思われる建物とその向かいの、やはり元商店らしい建物。左写真の家の左隣は恵比寿屋商店という酒屋だが、その店が伊豆山神社の参道との角にある。


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小形タクシー。静岡県熱海市伊豆山。2011(平成23)年5月21日

今年(2011年)5月に熱海伊豆山の水葉亭に1泊した。最近は踊り子号の切符がついて1万2千円でいける。泊まった翌朝、近所を散歩してみたら、当ブログのネタになりそうな建物をいくつか目にしたので紹介する。
上の写真の道路は国道135号。すぐ上を東海道本線が通る。右端に写っている赤い欄干の橋は逢初(あいぞめ)橋という。初木姫と伊豆山彦命の伝説があり、また源頼朝と北条政子が始めて出逢った場所だそうで、一応は観光スポットである。下を流れる川は逢初川。日本式の欄干で飾ってはあるが、専用歩道もない国道の橋なのでのんびりと佇んでいては危ないかもしれない。



逢初橋の東にあった元商店。



逢初地蔵堂。熱海市伊豆山。2011(平成23)年5月21日

国道135号の逢初橋のすぐ東から海側へ下がっていく道がある。偕楽園というホテルへの入り口だという看板がある。そこを入ってすぐ右側に逢初地蔵堂がある。道路のすぐ脇に神社の本殿のような建物があるのが面白いが、それよりも下に並んでいる床屋、さらに下に見えている民家が気になる。

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丸一鮮魚店前の横丁。神奈川県三浦市三崎3-6。2007(平成19)年11月17日

旧福島商店の向かいが丸一という魚屋で、その正面から出ている横丁。周囲は古い日本家屋とそれを立て直したらしいビルとが混在している。漁港沿いの県道から横丁をのぞくと突き当たりに丸一の看板が見えるわけで、ちょっと見てこようか、という気分になるわけだ。



左:丸一食堂横の路地。三崎3-5。1994(平成6)年5月2日
右:花暮会館。三崎3-8。1994(平成6)年5月2日

丸一鮮魚店から1軒おいて丸一食堂で、そこの横に奥に通じている路地がある。この路地の景観は今も変わらない。
その路地を横に見て南へいった2軒目が花暮会館。町会の集まりなど使われる施設だろう。町会事務所によく見かけるような標準的な建物に思えるが、かなり昭和的雰囲気を放っている。現在も残っているが外観は改修されて、1階左右の窓もつぶされてしまった。

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